これ、誰だったか忘れたがタレスだったか誰か、
クレタ人がすべてのクレタ人はうそつきである。とゆうたので論理矛盾がある、ということで、
すべてのクレタ人はうそつきであるというのもうそなの?あれ?みたいなことなのだが
常識的には、うそつきだからというてのべつまくなしに必ずうそばりつくわけではないというのが常識というもので、ヨシぼくは生涯うそしかいわないぞという志をひとは抱かない。で
最初からそういう穴はあるがそんなの認めたらこの話は面白くない。ので、りくつっぽい香具師に詰めていうときは
すべてのクレタ人はうそしか言わない。と、小細工する。日本語は小細工変化が著しい言語だ。で
こう、詰めてもらえると、「それで社会は成り立つんですか。」という突っ込みが可能になるわけである。会話すべてがうそであれば社会は成立しないであろう⇒←これは論理学的に満足な証明は困難なんじゃないのかな。ここを詰めるといやーな うその定義 みてーなことになってバルカン星人的朴念仁世界に突入。たとえば
商売できるか?発注も決済もうそだらけ。このくらいで勘弁しろや、え?みてーな話。で⇒と、なると、
クレタ人がいかにうそつきであろうとも常に常にうそばかりいうておるのではないことがこれでわかる。つまり
クレタ人のうそはケースバイケースであり、
このしつっこくも難度も繰り返された命題も、うそかまことかは
定義的に一義的に決定する確証はなく随意任意 つまりてけとーな話なんよということに落着すぅ野田。Q.n.E.D.←なぐる。
さて
すべてのクレタ人はうそしか言わない。←それがうそ。かつ
すべてのクレタ人がうそしか言わないことが偽@falseだからといって、
すべてのクレタ人がほんとうのことをいつも言うことの証明にはなんない。
つまり、たまたま、タレスだったかだれか、そのクレタ人が言ったその言葉は、うその範疇 うそ⊃当該命題
なのだと。この命題をfalseとした場合、いちおう、論理矛盾は生じない。ので、
英語のAllの否定が部分否定だという取り決めのルーツはたぶんここなんやろな、と。