東埼玉病院 総合診療科ブログ

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False optimismとcollusion(馴れ合い)について (朝の勉強会)

2015-08-10 21:10:02 | 勉強会

 今日は少し前に外山先生が、勉強会でやってくれた内容についてのせます。がん患者において、医師と患者のcollusion(馴れ合い)が、回復への誤った楽観に関与していたという内容の質的研究を紹介してくれました。以下に内容をのせます。

 Collusion in doctor-patient communication about imminent death: an ethnographic study. AM The et al. BMJ, 2000

•オランダの大学病院の呼吸器科看護師による、肺小細胞がん患者35名を対象としたエスノグラフィー。False optimismがどのような結果として行っているのかを観察して、質的に分析している。
 
•結果
★一般的な経過:5つのステージ:
–①existential crisis at diagnosis ②focus on treatment ③relative peace of mind ④another existential crisis at recurrence ⑤final crisis(no further Tx)
★予後の隠蔽:
–診断時の医療面接で、完治は難しいことは伝えられるが、具体的予後についてはほとんど語られない。
–患者ごとの多様性について医師は多く語る
–「レントゲンがきれいになった」との情報を見せられると、患者はそれ以上の予後などについては質問しなくなる(治ったと信じ込む)
–医師が予後について語るのは、治療上必要な時と、治療不能となりGPに送り帰そうと考えるときのみ。
★治療の強調: 要因は医師側だけでなく患者側にも
–医師も患者も治療のことばかりを話題にし、予後のことを語ろうとしない (とくに2.3ステージ)
–「患者が尋ねない」=「知りたくないと思っている」と医師は思ってしまう→言うべきことと言わざるべきことのバランスを見つけにくくなる
–患者が「知りたくない」という態度をとり続けると、医師はいら立ちを感じ、患者が死に近づいていることを気づかせようとする→しかし、患者はより真実を避けたがる
★あいまいさ:
–意図しなくても、あいまいな医師の言葉。患者にとっては医師よりも多くの意味を持ちうる。
–治療効果に対して過度な楽観視を誘導することを意図した、あいまいな表現も。「もうすっかり肺はきれいですよ」
–‘curative aura’:「緩和的治療である」と医師が言っても、そこに出現してしまう…
★知ること と 知らないでいること:
–はじめは、医師と患者側は”治る筋書き”を維持するために共謀する
–次第にその筋書きに疑問を挟みつつも、その疑問を否定する
–予後が短いことを自覚しながらも認めようとしない。知ることと知らないでいることの間をゆれうごく
–医師も患者も、もう治療法がなく死が切迫していることを自覚するようになるが、それでもなおる筋書きについて語り合う
★後悔: 治る筋書きと楽観は・・・
–治療を耐えるための支えになる一方で、それが幻想だったことが明らかになるときには大きな痛みに変わる。
–死が迫っていることを受け入れ、その準備をする時間を奪い、恐怖に基づいたものではない治療を考えることを妨げる。結果として、医師と患者双方に後悔をのこす。
 
•考察
★“medical activism”:不確定要素をわかりやすい医学的モデルで埋めようとする。死から逃れようとする西洋的な指向。
★短い期間で再診すれば、常に目先の治療を考えていればよく、長期的なことを考えずに済む
★患者は医師が提供する逃避的な機会を喜んで受け入れ、それが当然とされている。そしてそこから抜け出せなくなる。
★Collusionのサイクルから抜け出すには:医師側からの、patient-orientedなアプローチが必要。また、医師ー患者でない第三者”treatment broker”の介在が有効かもしれない
 
 
 前回のアドバンスケア・プランニングのはなしとも関連しますが、非常に解釈は難しいなと感じました。このはなしは、すべてを言語的なコミュニケーションで行うことが前提となっている部分もあるのかもしれませんが、実際には、(特に日本においては)「言わずもがな」という形もあると思います。しかし、「言わずもがな」の難しいところは「本当にそうなのか?」という部分でもあります。グループ診療を行っていると、そのあたりを他の医師がどう思っているか?他の職種はどのように感じているのか?を確認することも可能ですし、そのようにすることも多いです。その結果、「(患者・医師)お互いに多くを語らない」という結論に達することもありますし、それがうまくいく場合もあるかとは思います。しかし、思いこみで、何らかの意思決定がなんとなく触れずに過ぎていってしまうということもあるのかもしれません。個人的にも「この人は、最期の場をどこにしたいか話しはしないが、家族が介護してくれないだろうと感じて、そのような話しをしないのだろう」と思っていた患者さんが、ある看護師さんには「家に帰りたい」と言っていて、結果、その看護師さんの働きかけで消極的であった家族も在宅介護を行い、最期は在宅みとりとなった例を経験しました。この看護師さんは、上記の”treatment broker”にあたるのかもしれません。この論文自体は緩和ケアへのきっかけを逃していることに関して扱っているのだとは思うので、少しはなしがずれていると思いますが、医師患者関係のなかで、あらゆる意思決定を行う際にも通じる部分があるのかとも思い、そんなことを思いました。
「馴れ合い」も、医療者や患者さんによって、よい作用に働くこともあるし、悪い方向にいくこともあるのかもしれません。