荒崎海岸はひめゆり学徒隊の終焉の地として、当ブログでも過去何回か紹介してきた場所です。
1945年6月19日、伊原の陸軍病院第三外科壕で解散命令を受けたのち、米軍による攻撃から逃げのびた「ひめゆり学徒隊」の引率教員2名と女子生徒12名は、荒崎海岸までたどり着きました。
米軍は火炎放射器でアダン林を焼き払いながら残敗兵や住民を炙り出し、海へ追い詰めていったのです。
ようやく海まで逃げた学徒隊ですが、すでに海上には米艦隊が大挙して押し寄せ、投降を呼びかけていました。6月21日、岩場に隠れたものの米軍の急襲を受け、引率教員が手榴弾を使って集団自決を図り8名が死亡、さらに米軍の機銃掃射により6名が犠牲となりました。
翌6月22日、沖縄守備隊第三十二軍司令官牛島中将、長参謀は摩文仁の壕で自決し、日本軍の組織的戦闘は終わりを告げました。
糸満市字上里にある糸豊環境美化センター正門の脇の農道を「荒崎海岸へ」の案内板に従い海に向かいます。
道は藪の中に入り、雑木のトンネルをくぐり抜けると、目の前に海が開けます。
荒崎海岸はリーフがなく、波が隆起珊瑚礁の磯浜に打ち寄せる、名前の通り沖縄の海らしからぬ荒々しい風景です。風雨にさらされた岩は、剃刀の刃の様に尖り、ビーチサンダルで歩くと穴があくほどです。
当時、海上は米艦隊の大軍で真っ黒になったといいます。軍艦からは絶え間なく艦砲射撃が行われました。
海岸に沿って左手にモルタルを流しただけのかろうじて人一人が歩ける小道が続きます。その道をたどると岩場の左方向の崖の上に、ひめゆり部隊終焉の地を表す「ひめゆり学徒隊散華の跡」の石碑が見えてきます。
この下の窪地の中で、ひめゆり学徒隊と引率教員8名が自決しました。
石版にはこの地で亡くなった学徒隊12名と教員2名の名前が刻まれています。
この方々の思いを 胸のどこかにいつも
持っていたいと思います。
感動すると、しばらくは何も語りたくない気持がするものですね。
写真と、実物はやはり与えられるものが違います。てぃんが-らさんは、まだ行かれた事がなかったんですね。お先に見せて頂きました。
お天気にも恵まれて 大海原の青。そして純白の白い花。伊江村の方々の思いが結集しているように感じました。
おかげさまです。今年は百合の花で満足しています。
私も相当ボケています。
ただただ沖縄に戦争の傷あとがまだまだあることを紹介したいだけです。
稗島さん、
伊江島に行かれたのですね。
リリーフィールド行かれましたか?
てぃんが-らさん。おかげさまで伊江島に行く事が出来ました。有難うございます。
沖縄戦での犠牲者は、司令部が陥落し南部撤退後に集中しています。ひめゆり部隊も解散命令後の方が多く亡くなっているのですね。
靜琉さん、
結局、利権の争いですからね。そして犠牲になるのは弱い立場の人たちです。
いつも心が痛みます
戦争は何もいいことなんて無いです
とても残念な結果です。
こんなことを二度と繰り返してはいけないです。
海外で今なお続いている戦いも
早く終わらせたいです。