1945年4月1日、米軍は本島中部の北谷から読谷にかけて上陸し、直ちに本島を南北に分断しました。北上した米軍は本部半島に飛行場を建設し、本土への直接攻撃の足掛かりにしました。
海洋博記念公園・ちゅら海水族館に向かう途中、県道114号線の右手に海の駅・マハイナウェルネスリゾートがあります。その駐車場を突き抜け、ゴルフ練習場跡地の先に、広大な空き地があります。
ちょっと見ると、土地造成中の工事現場のように見えますが、ここが上本部飛行場の跡地です。
米軍は、本部町豊原の土地を接収、豊富な物資と軍事力で飛行場を建設し、1945年6月に完成、日本本土の偵察と、侵攻の拠点としたのでした。
滑走路は約1500m幅50mで、爆撃機が十分離陸できる規模です。厚さ10cmほどに珊瑚礁を砕いたコーラルサンドが敷設されました。
戦後、米軍の物資や弾薬集積所、ヘリコプター演習場として使われ、復帰直前の1969年6月と1971年6月の2回に分けて全面返還されました。つまり返還された時点では沖縄は米軍占領地だったので、アメリカは原状復帰の責を負うことが無かったのです。原状復帰には数億円(本部町は6億4千万円を復帰費用と請求したらしい)かかるため、いまだに手つかずのまま残っています。
1987年、防衛庁がシーレーン防衛計画の一環として、自衛隊のP3C対潜水艦作戦センター(ASWOC)送信所の建設計画が明らかになり地元が反対、現在計画は凍結状態になっています。
多くの人の命を奪ったのでしょうか?
詳細はよく分からないのですが、ここからは
本土に向けて偵察機が飛び立ったようです。