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管理人のうちなーライフかりゆし日記

管理人てぃんがーらが沖縄の生活を綴ります。

那覇の戦跡4 シュガーローフ

2012年01月21日 | 博士の研究日記

 今や那覇の新しい顔として開発が進む新都心。天久、銘苅、安謝、上之屋にまたがる新しい街は、戦後米軍住宅地として接収され、昭和62年に返還された土地に建設されています。返還後も長い間、汚染された土壌の入れ替え、登記簿謄本が焼失したため所有地の線引きなどで時間がかかり放置されていました。(そのころ解放地といって、うーまくーのたまり場でした)
 その新都心の中心地、おもろまち駅の近く、デューティ・フリー・ショップの正面に小高い丘があり、水道局の給水施設が置かれています。この丘が、かつて米軍からシューガーローフと呼ばれ、日本軍と血を血で洗う激戦が行われた場所です。

 丘の周囲は大分削られ石垣で固められていますが、かつてはなだらかな斜面が続いていました。慶良間諸島が見えるということで住民たちがケラマチージとよんでいた丘です。この場所は戦時中日本軍が52高地と名付け、地下に網の目に陣地壕が掘られ、強固な要塞となっていました。
 1945年5月12日、読谷に上陸してから1カ月半かけて南下してきた米第6海兵大隊第22海兵連隊は安謝川を渡河します。シュガーローフから見通し距離にある安謝川に日本軍は猛烈な集中砲火を浴びせました。3m前進し2m後退するという攻防戦の結果、5月14日に海兵隊はシュガーローフの手前にある小さな丘(クイーンヒル、現日本銀行付近)を占拠します。


クイーンヒルからシュガーローフを攻撃する海兵隊(沖縄公文書館のHPより)

 5月15日、戦車を楯にシュガーローフに近づくも、日本軍の斬り込み隊により、海兵隊の前線は20名のみとなり、一旦退くことになります。
 5月16日、海兵隊は兵力を増強、再度攻撃をするも、至近距離での熾烈な銃撃戦により敗退、前線を後退しました。
 5月17日、海兵隊はシュガーローフの西側にあるクレセントヒルを攻略、シュガーローフの頂上を制圧しますが、再び日本軍の猛攻撃により撤退を余儀なくされます。その後2度目の頂上制圧も失敗、3度目でようやく日本軍を撃退しますが、もはや海兵隊には陣地を維持するだけの余力は残っておらず、撤収することになります。
 5月18日、第6海兵師団第29連隊は砲兵隊の援護射撃を受けながらシュガーローフを猛攻撃、ついに陣地を占領することに成功しました。
 この戦闘で第6海兵師団は2,662人の戦死者を出しました。日本側の被害は不明ですが、その数倍の犠牲があったと思われます。シュガーローフの攻防は沖縄戦上最も熾烈な戦いであったといいます。詳細は以前のブログでご紹介した書籍があります。

 シュガーローフから首里方面を見ます。東横インの左側の小高い山が首里城です。首里城には沖縄守備隊第32軍が置かれ、シュガーローフは首里攻防戦の要となる陣地でした。

 シュガーローフに設置された 案内板。
慶良間チージ(シュガーローフ)
 沖縄戦の激戦地。字安里の北に、位置する丘陵地帯に築かれた日本軍の陣地の一つ。日本軍は「すりばち丘」、米軍は「シュガーローフ」と呼んだ。一帯の丘陵地は日本軍の首里防衛の西の要衝で、米第6海兵師団と激しい攻防戦が展開された。
とくにここ慶良間チージの攻防は、1945年5月12日から1週間に及び、1日のうち4度も頂上の争奪戦がくりかえされるという激戦の末、18日に至り米軍が制圧した。
 米軍は死者2,662人と1,289人の極度の精神疲労者を出し、日本軍も学徒隊・住民を含め多数の死傷者を出した。
それ以降、米軍は首里への攻防を強め、5月27日、首里の第32軍司令部は南部へ撤退した。沖縄戦は、首里攻防戦で事実上決着していたが、多くの住民をまきこんだ南部戦線の悲劇は6月末まで続いた。
    (石碑の説明文より)

 山頂から東方向を見ます。現在では慶良間どころか、ビルしか見えません。正面のツタヤの向こうがサンエーメインプレイス。那覇で最大のショッピングセンターです。


(沖縄公文書館のHPより)

 だいたい同じ方向から撮られた写真です。おそらく中央右の戦車があるあたりがサンエーメインプレイス、中央左の黒い岩山がクイーンヒル(日銀那覇支店)だと思います。
 65年の歳月を感じます。


那覇の戦跡3 沖縄師範学校跡

2012年01月15日 | 博士の研究日記

 首里城に接して、沖縄県立芸術大学があります。その敷地の一角に沖縄師範学校跡の石碑が立っており、その前に当時の校門の門柱が保存されています。

 沖縄師範学校は、その女子部と併設校である沖縄県立第一高等女学校の生徒により、ひめゆり学徒隊が結成された学校です。

 学校の跡地に現在の芸大が建てられました。校門の位置は当時とは異なっているようです。

 門柱を良く見ると、被弾したあとが残っています。
 ちなみに、ひめゆり学徒隊の「ひめゆり」とは、沖縄師範学校女子部の広報紙「白百合」と沖縄県立第一高女の「乙姫」を合わせて名付けられたものです。


那覇の戦跡2 首里城の忠魂碑

2012年01月14日 | 博士の研究日記

 首里城へ登るにはまず守礼門をくぐります。次ぎに城壁のわきにある城内に入る最初の門が歓会門です。

 歓会門の手前、右側の城壁の上に忠魂碑が残されています。忠魂碑とは戦死者の御霊を神格化し、戦意高揚のために作られた石碑です。

 近づいて見るとほとんど崩落し、もはや石くれのようになっています。首里城には沖縄守備隊第32軍の司令部が配備され、米軍の集中砲火を浴びたためです。

 首里城正殿に登るためにはこの前を必ず通らねばなりません。多くの観光客が通り抜けますが、誰一人として、かつて忠魂碑として人々が最敬礼した石の塊に注意を払う人はおりません。

 今日も忠魂碑は亡霊のように、下を通る観光客を見下ろしています。

 


那覇の戦跡1 首里城のトーチカ

2012年01月13日 | 博士の研究日記

 世界遺産に登録された首里城。琉球王府の象徴とも言える城も、戦時中は日本軍に接収され、その地下には沖縄守備隊第32軍の司令部が置かれました。
 その首里城の一角にトーチカが残されています。

 一見すると何の変哲もないコンクリートの固まりです。案内板も無く、おそらく多くの観光客は下水のマンホールかと思うことでしょう。

 だいぶ埋もれていますが、銃口が確認できます。隙間から手を入れると風が抜けるのが分かります。内部は洞窟が繋がっているようです。
 首里城の地下は網目のように地下壕が張りめぐらされているという事ですが、完全に解明されてはいません。

 トーチカの周囲を注意深く見ると、被弾した弾痕を見ることができます。

 


中部の戦跡4 栄橋

2012年01月08日 | 博士の研究日記

 

 県立嘉手納高校の正門の前の道を進むと、道はガードレールで塞がれます。右側のフェンスは嘉手納高校のグラウンドです。その先10mほどで道は途切れ、比謝川に向かって崖になっています。
 戦前、この道路の先には栄橋という鉄筋コンクリート製の橋が架かっており、製糖工場へサトウキビを運び入れるために使用されておりました。しかしこの橋は沖縄戦において日本軍が撤退する際、米軍をくい止めるために爆破され崩落しました。

 道路脇には当時の栄橋の復元図と説明が書かれた案内版が立っています。大変に美しいアーチ橋であったといいます。

 道路が切れた先はジャングルです。

 足元は川への急斜面。下りるのにはロープが必要です。なんとか橋脚が見える場所を探します。

 中央部分から手前側が爆破により崩落しています。かろうじて欄干を見ることができます。

 米軍は南下するのに比謝橋を修復し比謝川を渡河しました。その後現在にいたるまでこの橋はかえりみられることなく、崩れたまま放置されています。

 


中部の戦跡3 ヌチシヌジガマ

2012年01月07日 | 博士の研究日記

 うるま市字石川嘉手苅の沖縄自動車道沿いに、鍾乳洞が口を開けています。
 伝承によるとその昔、今帰仁の按司(あじ・地方の豪族)が戦に破れ石川まで逃げのびてきました。土地の娘が按司を洞窟に匿い助けたということです。そこでこの洞窟を命(ヌチ)をしのいだという意味でヌチシヌジガマと呼ばれるようになりました。
 沖縄戦でも、近隣の住民約300人がこの洞窟に避難し、命をしのぐことができました。

 コザ方面から国道329号線(石川バイパス)を北上、県道6号との伊波交差点を左折すると、すぐ沖縄自動車道をくぐります。その立体交差を過ぎた直後に左手に看板が見えます。

  別れ道ごとに矢印が立てられており、非常に分かりやすくなっています。このガマは民有地にあるのですが、所有者がきちんと管理をしており、有料ですがガイドを行っています。ほとんど管理らしい管理がなされていない沖縄の戦跡において、こうしてきちんと後世に伝えていこうとする活動は大変に素晴らしいと思います。

 矢印に従って農道を下りていくと、窪地になった広場があり、突き当たりに壕口が見えてきます。

 壕口は両側から岩が迫り、通路は細くなっていますが、奥は広くなります。掃除が行き届いており、ゴミなど落ちていません。地権者が平和教育のため、また地域の活性化のために整備し、ガイドも行っているためです。こうした戦跡を維持管理するには、人手も費用もかかることと思います。

 少し進むと広くなります。右手に洞窟の奥から流れ出る小川があります。小川に沿って、洞窟はさらに奥に伸びていますが、施錠されています。内部には参拝を除いて基本的に立ち入り禁止です。申し込めば地権者の方が有料で案内をしてくれます。

 本来、行政がやるべきことを所有者個人が行っているわけで、その活動には頭が下がります。今後もこの戦跡がきちんと後世に伝わり、また平和学習のために活用されることを願います。

 


中部の戦跡2 嘉数公園の戦跡

2012年01月02日 | 博士の研究日記

 昼間っからオリオンビールと泡盛で出来上がっている管理人です。2012年の戦跡シリーズは中部地区の戦跡第二弾、嘉数台地からです。

 宜野湾市の標高90mの嘉数高台。ここはかつて米軍と日本軍が熾烈な戦いをした場所です。
 1944年8月に、首里防衛の拠点として嘉数の地に第62師団独立歩兵隊第22大隊が配備され、陣地壕の構築が始まりました。陣地の構築には多くの嘉数の住民が動員されたといいます。
 1945年4月1日、米軍が嘉手納に上陸後、首里を目指し南下し、4月9日から日本軍独立歩兵隊第13大隊・第23大隊と攻防戦が繰り広げられました。その戦闘は大変な激戦で、日本軍は15日間米軍を足止めしましたが、米軍は背後に回り込み4月23日司令部は前線の撤退を命じました。
  現在は公園として整備され嘉数の塔、京都の塔などの慰霊碑が建てられています。

 嘉数公園の南側に陣地壕の入り口が残っています。かつてこの高台内部にはは網目のように連絡壕が構築されていました。北側のトーチカに物資を補給したり兵士の交代に使われたものです。

 連絡壕の内部。自然壕を利用し構築されています。

 公園の北側、京都の塔の下に、トーチカが残されています。ここから南下する米軍に対し砲撃しました。トーチカはおびただしい被弾のため、コンクリートが大きく崩れています。

 トーチカの内部です。高さも十分にあり、銃火器を設置できる広さがあります。

 嘉数公園の展望台から北側を見ると、目の前に普天間基地が広がっています。マンションや住宅の屋根をかすめて米軍機が離発着しています。

 


明けましておめでとうございます。

2012年01月01日 | 博士の研究日記

 大変な一年が終わり、新年がスタートしました。2012年は平穏な年でありますように願っております。
 皆様にはコメントやオフ会などでお世話になりました。皆様にとってもこの1年が良い年でありますように。

 本年も「かりゆし日記」をよろしくお願い申し上げます。

 


大晦日、年越しそばの準備

2011年12月31日 | 博士の研究日記

 今年もあと1日で終わりです。皆様、1年間「かりゆし日記」をフォロー頂きありがとうございました。
 珍しく今年は1週間前に年賀状も仕上げてしまい、余裕をもって年末を迎えています。昨日は年末年始の買い物をしにスーパーへ。年越しそばの材料を購入。私が作ります。
 年越しそばはソーキそば。ソーキも自分で作ろうと思ったのですが、軟骨をトロトロになるまで煮込むのに時間と手間がかかりそうだったので、オキハムのレトルト・ソーキを買ってしまいました。あと、トッピングはカステラかまぼことフーチバー。
 フーチバーは、よもぎのことで、私ゃ生のままのフーチバーをそばにどさっと載せて食うのが好きなんです。
 今晩作りますので、出来上がった画像は後ほど。

 

 ということで、できました。軟骨ソーキとフーチバーそば。コーレーグースーをかけて頂きます。

 あれ?しまった!!紅しょうがを買い忘れた!!

 


いちばん桜

2011年12月30日 | 博士の研究日記

 今年のいちばん桜、北部からそろそろ桜の便りも聞こえる頃です。沖縄の桜は寒緋桜。濃いピンク色が可愛い桜です。寒くならないと咲かないため、桜前線は北から南下してきます。だいたい1月の下旬ごろ、本部や名護でさくら祭りが開催となります。
 オリオンいちばん桜で、ありっ、乾杯!!