難読地名でもある“太秦(うずまさ)”と言うと京都通ならば、まずは東映太秦映画村がある京都府右京区太秦地区を思うことでしょう。
もちろん歴史、神社、寺院通ならば三柱鳥居で有名な木島社や国宝弥勒菩薩像の広隆寺など。かつて秦氏の拠点だった地域でもあり秦氏を語るならば多くの研究対象ともなっている地域です。
そんな太秦ですが、実は全く同じ漢字と読み方をする地域が大阪府寝屋川市にある事は、ご存じでしょうか?
自分が知ったのも「大阪の寝屋川市にも太秦と言うところがあってなんと!秦河勝の墓もある」との情報を頂き、2002年11月に早速訪れてみたのでした。
京阪電車 寝屋川市駅
「太秦」の文字 やはり京都にいるのかと錯覚してしまいます。
三井秦団地…。たぶん「三井」が関わる宅地開発をされたのでしょうが、やはりかつての秦氏との関りが気になるところです。
駅からバスに乗車し10分程で目的地に到着です。
今回紹介するのは同じ太秦でも大阪府寝屋川市にある全く同じ地名の“太秦”です。まず訪れたのは「伝・秦河勝の墓」です。
少し登った高台の住宅街(ここの地名は川勝町と言います)の一区画に「秦河勝の墓」がありました。
かつてこの周辺は、茨田郡、秦村・太秦村と呼ばれていたそうで、この近くにはその名称だけは聞いた事がある「茨田堤(まんだのつつみ)」があります。
現在の枚方市から大阪市福島2区野田付近までの淀川左岸づたいに、仁徳十一年に築かれた堤防の事で、日本で最初の大掛かりな土木工事が行われた場所と伝わっています。
古事記や日本書紀に「茨田連(まむたのむらじ)」 が秦人を使って造堤したとの記述があります。
この堤防の建設に集まった人々がこの地域に定住したのが秦村の起源なのだそうです。
伝・秦河勝の墓は、秦山と呼ばれる寝屋川北岸の丘陵上にあります。以前はこの周囲は竹林でしたが、現在は宅地開発によって、住宅地の一角に一辺 11.5m の正方形の区画として残されています。中央に高さ 2.42m の五輪塔が建てられていて、地輪の四面に秦河勝の事跡や五輪塔建立の経緯などが 400 余字で刻まれています。この碑文によると、現在の五輪塔は、1649 年(慶安 2 年)に再建されたものであることが分かります。
五輪塔南側に一対の石灯篭が建てられているほか、五輪塔の北東側には「正六位上兼右近衛府生秦武文」と刻まれた方柱状の塔が建っています。秦河勝は、6 世紀から 7 世紀に秦氏の族長で、聖徳太子の補佐として活躍したことが知られています。(転載:寝屋川市HP)
「伝・秦河勝の墓」案内(写真クリックで拡大)
寝屋川市に伝わる古典「お伽草子」の中の一つ「鉢かづき」をモチーフにしたイメージキャラクタ「鉢かづき姫」
周辺マップ
続いて訪れたのは、かつて「河内秦寺」もしくは秦興寺あるいは薬師寺と呼ばれた秦氏の造営に係る寺があったとされる場所に鎮座する熱田神社へと向かいました。
熱田大明神の扁額が架かった石鳥居
二の鳥居 かつて寺院だった名残り
熱田神社 拝殿 祭祀:日本武尊
天忍穂耳尊社
境内から市内を望む
この境内から寺院の礎石がみつかり周辺一帯には古墳やかつて大規模な寺院があったと由緒は伝えています。
「 太秦寺」といえば京都の広隆寺を思い浮かべますがこちらは別名「葛野の秦寺」とも呼ばれていたんだそうで、やはり京都の太秦との関係がとても気になってきます。(広隆寺末寺別院記には「河内秦寺」の記述があるそうです。)
川勝山太秦寺
開かれた寺院ではなかったので前述の「太秦廃寺」と関連があるかどうかはWEBでもヒットせず不明。
ただ、「太秦寺」と名乗っている以上何かしらの関連はあるように思います。
意外と知られていない大阪府寝屋川市にあるもうひとつの“太秦”
今もなおロマンを秘めた場所でもあります。
(撮影:2002-11)
お断り:2002年当時の情報となります。当時とは異なる事が想定されますので訪れる際には、事前に調べて頂き記事は参考程度とお考え下さい。
お断り:2002年当時の情報となります。当時とは異なる事が想定されますので訪れる際には、事前に調べて頂き記事は参考程度とお考え下さい。
【マップ】
伝・秦の河勝の墓
熱田神社(太秦廃寺跡)
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