
4月に入り今年で山梨に移住して来てから5年目となりました。
先日、納戸を整理していると荷ほどきしていない手つかずの段ボール箱があって開梱してみると…。
その殆どがお土産で頂いた民芸品やら引き出物のお皿などだったのですが、その中に面白いものをみつけました。
みつけたものは、トップ写真のような手編みの小さな「蓑」です。
もちろん飾っておくためのものですが、注目すべきは、正面に神代文字の「サンカ文字」が書かれているところです。

神代文字のひとつ「サンカ文字」

サンカ文字で「ヰハヒナカシ(祝いな菓子)」と読み解くことができる。

背面

サイド

上面
この蓑の入手経路ですが、記憶をたどると…。
以前、谷中方面へ散策したおりに、たまたま立ち寄った民芸品店(現在は閉店)で購入したもので(千円くらいだったと記憶) お店のご主人いわくサンカ研究家の三角寛の孫と同級生だったそうで、豊島区雑司が谷にある三角寛の邸宅(以前までは「寛」と言うステーキ屋さんだったが既に閉店)で、三角が亡くなったあと遺品を整理していたところ茶箱から1000個程出てきたもので、それを店主が譲り受けたんだとか。
サンカ研究の関係者曰く三角が博士号を取得した折、催したパーティの記念品として配られていたものだったそうです。
三角が製作指導して造らせたレプリカで、小さいものではあるもののこの「蓑」の編み方は、サンカが継承して来た独特の手法なんだそうで貴重な一品とのことです。
【追記】
※サンカについては、今までにもいろいろ論じられていますが、現在は三角の取材した記述や写真、サンカ文字なども彼の捏造だったというのがどうやら真実の様です。もちろん、定住先を持たない山や海、川などにセブリと呼ばれるテントのような掘立小屋に住む流浪の民は、昭和戦後辺りまで確かに存在していたようです。
主に蓑や籠、竹細工などの細工品を拵えて農民へ売ったり、雑仕事を請け負って賃金を得ていたようですが、被差別民だったので世間からは疎まれていました。誤ったサンカのイメージが世に伝わってしまった功罪は三角にありそうです。
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