日々あらたに

3/11の大震災以降、数多くの変化が起きています。その変化をとらえ、新しい時代について観察を続けていきます。

西郷隆盛(南洲翁)の教えに学ぶ

2011年08月22日 | 日記

やっと、管さんが辞めて、次の首相を決める段階になった。次、誰になるのかはわからないが、少しは、リーダーとしての“気構えと覚悟”のある人になってもらいたい。・・・今の政治家に求めるのは、そもそも無理なのかもしれないが、過去の日本人の中には、まさしく、真のリーダーとしての“気構えと覚悟”をもった、すばらしい人がいた。

・・・それは、明治維新前後の激動期に活躍した西郷隆盛さん。

“人生の王道(西郷南洲の教えに学ぶ)、稲盛和夫:日経BP社”という本をもとに、西郷さんの残された言葉(遺訓)と稲盛さんの解釈を引用しながら、リーダーに必要な“気構えと覚悟”というものについて少し書いてみたい。

 リーダーに必要な気構えとは?

 

 (遺訓一条) 廟堂(びょうどう)に立ちて大政を為すは天道(てんどう)を行うものなれば、些(ち)とも私(わたくし)を挟みては済まぬもの也。いかにも心を公平に操(と)り、正道を踏み、広く賢人を選挙し、能(よ)くその職に任(た)ゆる人を挙げて政柄(せいへい)を執らしむるは、すなわち天意也。それゆえ真に賢人と認むる以上は、直ちに我が職を譲る程ならでは叶(かな)わぬものぞ。・・・

(訳) 政府にあって国の政(まつりごと)をするということは、天地自然の道を行うことであるから、たとえわずかであっても私心を差し挟んではならない。だからどんなことがあっても心を公平に堅く持ち、正しい道を踏み、広く賢明な人を選んで、その職務に忠実にたえることのできる人に政権を執らせることこそ天意・・・だから、ほんとうに賢明で適任だと認める人がいたら、すぐにでも自分の職を譲るくらいでなければならない。・・・

・・・冒頭を飾る一条は、組織の長をつとめる者にとって、まさしく羅針盤となるべきものです。・・・トップに立つ人間には、いささかの私心も許されないのです。基本的に個人という立場はあり得ないのです。トップの「私心」が露わになったとき、組織はダメになってしまうのです。・・・いわば自己犠牲を厭(いと)わないでできるような人でなければ、トップになってはならないということが、西郷の教えです。・・・


 (遺訓二十四条) 道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也。

(訳) 道というのは、この天地おのずからなるものであり、人はこれにのっとって行うべきものであるから、何よりまず、天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である。

・・・最初の一文、“道は・・・天を敬するを目的とす。”の中には、偉大な存在に畏(おそ)れを抱くというニュアンスが含まれています。偉大なる天は公平無私ですべてを愛し給うはずだから、我々も自分を愛する心をもって人を愛さねばならないといっているわけです。・・・


(遺訓二十六条) 己を愛するは善からぬことの第一也。修業の出来ぬも、事の成らぬも、過ちを改むることの出来ぬも、功に伐(ほこ)り驕慢(きょうまん)の生ずるも、皆自ら愛するが為なれば、決して己を愛せぬもの也。

(訳) 自分を愛すること、すなわち自分さえよければ人はどうでもいいというような心は最もよくないことである。修行のできないのも、事業の成功しないのも、過ちを改めることができないのも、自分の功績を誇り高ぶるのも皆、自分を愛することから生ずることであり、決してそういう利己的なことをしてはならない。

・・・自分が自分がという利己ではなく、相手のため、社会のためと、考え方を利他に変えれば、他の人からの信頼と協力が得られ、事業だって人生だって、必ずうまくいくはずです。・・・(引用ここまで)

 

リーダーに必要な覚悟とは?

 

(遺訓三十条)  命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。この仕末に困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にして国家の大業は成し得られぬなり。・・・

(訳) 命もいらぬ、名もいらぬ、官位もいらぬ、金もいらぬというような人は処理に困るものである。このような手に負えない大人物でなければ、困難を一緒に分かち合い、国家の大きな仕事を大成することはできない・・・。 

・・・命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。というくだりは、西郷のまさに本領と言う感じがします。彼自身が無私の人であり、自分を無にすることができました。無私の人とは、命もいらず、名もいらず、官位も金もいらない人、つまり欲を離れた人です。・・・欲のない、損得で動かない人間はいかにも扱いにくく、始末に困るものです。では、欲で動かない人は何で動くのかと言えば、誠、仁、義といったもので動く。そういう人でなければ、困難をともに克服して、国家の大業をなすことはできないんだと、西郷はいっているわけです。・・・

 

(遺訓三十一条)  道を行う者は、天下挙(こぞ)って誹(そし)るも足らざるとせず、天下挙(こぞ)って誉むるも足れりとせざるは、自ら信ずるの厚きが故也。・・・

(訳) 正しい道義を踏んで生きていく者が、国中の人が寄ってたかってそしるようなことがあっても決して不満をいわず、また、国中の人がこぞってほめても決して自分に満足しないのは自分を深く信じているからである。・・・

・・・正道をもって、政(まつりごと)を行おうとする者は、国民からたとえ、非難されようが、ほめそやされようが、一時のことに一喜一憂することなく、自分の信じる道義を真正面から見すえ、国民のために正しい行政を行うべきだと西郷は説きます。・・・

 

 その時代の、時代背景とか色々あるかもしれないが、リーダーに必要とされる本質というものは、明治の頃も今も変わっていない。・・・西郷さんの言われていることは、“無私”“利他”“大計”“覚悟”“王道”“信念”などなどであるが、これらの本質が変わったとは思えない。また、不要になったとも決して思えない。

それでは、なぜ、西郷さんのような“気構えと覚悟”を持った上質なリーダーが政治家に現れないのか?

今の政治家が理想とする人物には、よく明治維新のころの偉人がでてくるそうだが、どう考えても、西郷さんのような“無私”でかつ“覚悟”のある政治家を見たことがない。・・・反面、日本の経済界には、明治以降、すばらしい人がたくさん出てきているのに、なぜ、政治の世界にはでてこないのだろうか?

これが、日本人の民意の表れとするならば、日本人はそもそも政治における本当のリーダーを必要としてこなかったのか。あるいは、我々自身がそういうレベルに達してないが故、類は友を呼ぶじゃないけど、まっとうな政治家を育ててこなかったのか。(両方かもしれない。)

また、時代の移り変わりのたびに、捨ててはいけないモノを捨て去り、どうでも良いモノを身につけてきたが故に、政治あるいは政治家というものへの感受性も磨かれず、どんどん退化して行ったような気もする。・・・しかも、その動きはここ数年ますます加速してきたように思う。

新しい時代に、入った今、いつまでも反面教師ばかりから学んでも何も成長できない。・・・個々人が政治に対し、何を求め、また、反対に何を貢献できるのか、真面目に考える時代に入った。大震災を契機に国のあり方をひとりひとりの個々人が考える時代に入った。・・・そういう気がますますしてきた。



最新の画像もっと見る