芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

光陰、馬のごとし 競馬のこんな楽しみ

2015年10月29日 | 競馬エッセイ
                                                

 三十年も前のことである。仕事で足利に行った。JR線を乗り継いで両毛線で行ったのか、東武伊勢崎線を利用したのか、全く記憶がない。また駅からタクシーに乗ったのか、バスを利用したのか、歩いたのか、これも全く記憶がない。季節はいつだったろうか、風が強く髪がひどく乱れたことだけは覚えてい る。そこは渡良瀬川沿いである。
 面会の約束時間は午前中で、用件は三、四十分程度で済んでしまった。すぐに東京に帰る気がしなかった。昼食を取ろうと食堂を探したが、これといって見当たらなかった。風が遠くから歓声や実況放送らしき音を運んでくる。県道を探し歩くうちに、道路より高い土手に登って辺りを見渡してみようと思いついた。土手に登ると川風はさらに強く、しかも意外に近いところに歓声や実況放送らしき音の正体があった。目の前に河川敷が広がり、右手の先は競馬場のコースの端らしく、さらに土手沿いのかなたにスタンドらしきものが見えた。足利競馬場だ。しかも開催日に当たっているらしい。

 喫茶店を見つけた。ドアの鈴を鳴らして中に入ると、客は誰もいなかった。テーブルの半分はインベーダーゲーム機の兼用である。いかにも場末の喫茶店だ。食後のコーヒー付きのカレーだったか、スパゲティだったかを注文し、トイレにたった。顔の前は開け放された小さな窓である。用を足しているとブルルルルと馬の鼻腔音を聞いた。目を上げると、そこに鹿毛馬の大きな顔があった。馬と私は顔を見合わせた。
「わあ、驚いた。…ど、どうも」「ブルルルル」…私は馬とあいさつを交わした。「おまえ、ここで何してる?」「ブルルルル、ブル(ここは僕の家だ)」「そうなんだ」…トイレの前に厩舎があったのだ。
 店内に戻り「トイレで馬と会ったよ」とマスターに言った。マスターは笑った。「うちの馬です」「あれ競走馬?」「ええ」「引退した馬?」「いや、現役馬ですよ」
 見れば壁に何点かの額入りの口取り写真(レース優勝時の記念写真)が掛けてあった。「来月またレースに出します」とマスターが言った。
 足利競馬には外厩制度があるのかと驚いた。日本では競馬の公正を担保するため、レースに使用する現役の競走馬とその調教師、その厩舎は、競馬会のトレーニングセンターや競馬場に付属した厩舎内に一括して集められ、その厳正な管理下に置かれているはずである。各調教師の馬房数はその成績などで割り当てられている。それが内厩制度である。欧米では外に厩舎を持つことが許されており、外厩で調教しレースに出すことも自由だった。当時、中央競馬の有力馬主で生産者でもあったシンボリ牧場の和田共弘や、社台牧場の吉田善哉、そして大橋巨泉らが、日本も外国のように外厩制度を導入すべしと言っていた頃である。外厩制度はなかなか実現しそうになかった。
「毎朝、ここから調教師のいる競馬場まで連れて行って調教しているんです」とマスターは言った。「競馬場の厩舎がいっぱいなんでね。毎日顔が見れるんで、いいもんですよ」
 さすが地方競馬、足利競馬は大らかなものだと感心した。半分外厩制度なのだ。まるでアメリカの牧歌的な競馬映画「チャンプ」や「すばらしき仲間たち」のようである。向こうは外厩が当たり前なのだ。特にアメリカでは、調教師は馬喰(ばくろう)も兼ね、競馬場のパドックで馬の売買が行われ、金銭トレードを兼ねたクレーミング・レースが普通に行われているのである。この馬喰兼調教師たちはレースによる賞金の進上金より、馬の転売益の手数料で稼いでいるのである。
 ところで「チャンプ」は子役の涙で興行収入を稼いだ映画だったが、ジョン・ヴォイドやフェイ・ダナウェイが出演していたっけ。「すばらしき仲間たち」は誰が主演だったか。コメディ映画の名優ウォルター・マッソーだったか。これは小説も読んだ記憶がある。

「今日開催日なんですね」「ええ、やってますよ」
 食後、競馬場に行った。一周1100メートルのダートコースの小さな競馬場である。スタンドも小さく古びている。平日だから入場者も少ない。まるでフォスターの草競馬の風情である。
 出馬表を見ると嬉しいことを発見した。出走馬のおよそ四割近くは、かつて中央競馬のレースで馴染みのある馬たちの子なのだ。当時は父内国産種牡馬の冬の時代、不遇時代であった。シンザン、アローエクスプレスらは例外であって、天皇賞やダービーを勝って種牡馬となっても、中央競馬でその産駒を見かけることは稀であった。ましてや重賞を勝ちまくっても、大レースを勝っていない馬の産駒を見ることはほとんどなかった。
 ノボルトウコウの息子がいた。「おやおや、おまえはここにいたのか。あまりお父さんに似てないね。毛づやが良くないなあ、大丈夫か」と声をかけた。
 ノボルトウコウは六シーズンに渡って怪我も無く、鞍上に猿のような安田富男騎手を乗せて走り続け、68戦13勝、スプリンターズS、小倉大賞典、関屋記念、福島記念、七夕賞の五重賞を勝ち、地方開催では王者だった。父は人気種牡馬パーソロン、母はサンピュロー、母の父はフランスの至宝シカンブル産駒のシーフュリュー。母サンピュローとなれば、その半弟は連銭芦毛の菊花賞馬プレストウコウである。素直で素軽いパーソロンと、シカンブル系の底力と、ノボルトウコウ自身の競走史を振り返れば、実に健康でタフで健気な血統ではないか。
 大きな黒鹿毛の君は皐月賞と有馬記念を勝ったリュウズキの子か。強そうだね。頑健な血統だ。おやおや、白目をむいて口から泡を吹き蟹歩きしている君は…おおヨドヒーローの息子か。ガーサントの孫だから気性が悪いのはしょうがないね。やあ君はタケクマヒカルの子か。お父さんは本当に強い馬だったよ。俺は応援してたよ。ん、少し跛行してないか? 左トモの踏み込みが浅いね…。
 前のレースでは天皇賞馬フジノパーシアと、地方から中央に殴り込み、その頂点に立ったヒカルタカイの子が走っていたんだ。午前中のレースでは名マイラーだったニシキエースの娘と、ハイセイコーの同期だった快速ユウシオの娘が出走してたのか。オープン大将の異名をとった47戦20勝のヤマブキオー の息子もいたんだなあ。そう言えばヤマブキオーは栃木の鍋掛牧場の馬だったな…。いけない、あの喫茶店の馬の血統を聞いてなかった。もしかすると那須野牧場系の馬だったかも知らん…。

 今、足利競馬場はない。宇都宮競馬場もない。高崎競馬場も消滅した。三条競馬場も、益田競馬場も閉鎖された。それは地方の衰退、増える地方のシャッター通りと軌を一にしている。
 確かにJRAの売上も減り続けている。その競馬界における勝ち組と負け組の差は大きく、勝ち組は馬も人も一極に集中している。サンデーサイレンス系の内国産種牡馬の活躍は目覚ましい。彼等は輸入種牡馬と伍し、あるいは上回り、サイアーランキング上位に名を連ねている。確かにかつてのような内国産種牡馬の冬の時代は終わったかに見える。しかし活躍する内国産種牡馬はサンデーサイレンス系か、種牡馬とするために輸入された外国産競走馬の系統や、サンデーサイレンスのライバル種牡馬だった産駒のごく一部に過ぎない。彼等にはまだ中央競馬に活躍の場が残されているが、それ以外のほとんどの内国産種牡馬の産駒は、走る場所さえなくなっているのである。
 だが、ちっぽけで真っ黒なカブトシロー産駒のゴールドイーグルが、毛色は少し異なったが体型は父親そっくりで、おまけにその無謀な大暴走的レースぶりまでそっくりなのは何か嬉しい。また大柄で頑健な父親ハイセイコーに似ず、華奢でガレたようなカツラノハイセイコが、父の距離の限界を克服し、彼が果たせなかったダービーや天皇賞を勝つのを目撃するのも嬉しい。競馬の楽しみのひとつはそんなところにある。
 しかし、かつて見られたような、二流三流血統の父内国産種牡馬の産駒が、中央競馬の並み居る良血馬を蹴散らして大レースで活躍する機会など、もう夢のまた夢、絶無であろう。
               「光陰、馬のごとし2」に所収
               

掌説うためいろ 夕焼小焼

2015年10月29日 | エッセイ

                                
 青年は実家から下宿先に帰るために、緩い下りの道を急いでいた。汽車の時間に間に合うだろうか。実家は居心地がよく、ついついのんびりしてしまう。駅までは三時間も歩かねばならない。それを考えると下宿に戻るのが億劫になってしまう。…今来た道を振り返ると、空はすっかり夕焼けで紅に染まっていて、なだらかな山が黒いシルエットとなっている。数羽の鳥影が茜空をゆっくりと横切り、森の方に消えていった。アァと啼いたので烏だろう。中腹の寺の鐘楼から時鐘が撞かれた。急がなければならない。乗り遅れれば、もうその日の汽車はないのである。

 昭和二十一年に雑誌「世界」に発表され、二十三年に単行本として出版された〈きだみのる〉の「気違い周游紀行」は、戦後日本の名著中の名著である。当然の評価で刊行間もなく毎日出版文化賞を受賞した。
 惜しむらくは、今この名著があまり大声で喧伝されないことである。それは題名をなす「気違い」と「」という言葉が、差別用語とされるためらしい。これを差別と思うことこそが過敏、過剰な意識の反応である。「過」とは行き過ぎることであり、過ちのことであり、変であり、おかしいのである。
 昔は何処の地でも集落をと呼び慣わした。きだが使用したという用語は被差別を指すものではない。単に集落のことである。東京からすぐそこの、山奥の集落のことなのである。現在は八王子市に入っているが、当時は恩方村といった。きだ以前に、恩方村の林業家・菱山栄一の「日本特殊山村」がワルシャワの世界地理学会で紹介され、彼はその後も東京で開催された世界教育会議で「村落共同体」を発表した。
 きだは仏文を学び、パリ大学で社会学と人類学を学んだ。戦中に恩方村の曹洞宗宝壺山医王寺という無住の寺に疎開し、戦後も、興味深く腹立たしくも楽しく居心地の良い、このに留まった。その土地の人々の意識や行動原理、習慣は興味尽きず、ある場合はその地特有・特異なものであり、ある場合は日本の宿唖と縮図そのものであることを分析した。また普遍的に人間は欲得の行動を取るものであり、個人の生活や生き様に於ける強いこだわりほど滑稽なものはないことを観察した。思えば人間の日常的行為は皆おかしく、変で、いかれている。…
 きだは、愛おしそうに諧謔溢れる筆致で「気違い周游紀行」を書いた。それは社会学的人類学的好奇心と、ファーブル的観察眼と、バルザック的諧謔とラブレー的文学的誇張が生みだした奇跡で、抱腹絶倒、哄笑の文学の系譜に連なり、かつ見事な人文科学的分析を示したものである。
 さすがその各段の小タイトルを見れば、ラブレーの「ガルガンチュアとパンタグリュエル物語」を彷彿させる。「日本敗れたること、並びに国際的閉門に処せられること」「周游など面白からざるべしとの憶説とそれに対する疑い」「物が解るということ或いは解らないということ」「言葉を覚えると内容まで知ったと思う悪癖のこと」「日本人とは何かということについて」「新興財閥シン英雄のこと」「八百屋はいかにして財閥になったかについて」「祖先崇拝ということ、この感情は桜に及びシンさんは二十六代目の祖先が丸顔でありしことを誇ること」「の会話は社交界の会話と同じく多く意味のなきこと」「英雄ギダサン計らずもホッブスの言の真なるを証すること」「にも党派のあること、正義派と正義嫌い派、二音派と三音派」「権力はなくとも支配は出来ること」「の英雄たちは初めて一つの異論なしに一致すること、そして一致が後ろめたきものであることを発見す」「総理、要人は悪口をいわれるものであること並びに友人のなきこと」…。
 「気違い周游紀行」のような、これほどの名エッセイ、名著が、過剰な差別用語排除のために、ほとんど読まれることもなくなったということは、社会の文化的損失以外の何ものでもない。

 さて「気違い周游紀行」の舞台となった恩方村は、童謡「夕焼小焼」を作詞した中村雨紅の故郷である。むろん同じ恩方村でも「気違い周游紀行」の舞台とは異なる地区であり、(集落)である。重畳する山の尾根や谷(やつ)が違えば地区が違う。山裾と中腹とではが違う。山襞の褶曲をひとつ越えたり沢の橋をひとつ渡ればが違うのだ。
 雨紅は本名を高井宮吉といい、宮尾神社の宮司の家に、二男として生まれた。きだが恩方村の廃寺に住むおよそ半世紀も前の、明治三十年のことである。宮尾山神社は明応元年(一四九二年)に別当東福院が勧請したという。
 宮吉も父の丹吾も母のシキも、きだみのる的観察に付すれば、やはり気違いの愉快な一員として描かれたに違いない。例えば「神官のタン英雄が山の神シキさんの尻に敷かれること」とか「雨と夕焼けと烏と子どもが大好きなミヤ青年の生活と意見について」とか…。
 宮吉は子どもが大好きである。こんな純真で愛おしいものはない。長じてもよくの子どもたちと遊ぶ優しいお兄さんだった。集めた子どもたちに、熟し始めた家の柿の実を採ってあげ、実の幾つかは鳥たちのために残して置くんだよ、と教えるお兄さんだった。
 彼は当然のように教師を目指し、大正五年に青山師範学校に入った。最初は通っていたらしい。しかし恩方村からの通学は所詮無理である。何しろ宮尾神社の家と八王子の駅は、徒歩で三時間もかかるのだ。八王子から甲武鉄道(中央線)の蒸気機関車に乗って新宿に出なければならない。一日の便数は五本くらいしかない。彼は下宿住まいをした。
 卒業後、第二日暮里尋常小学校の教師となった。この小学校を地元では「二日(ににち)」と呼び慣わすらしい。
 翌年、叔母の中村家の養子となって中村宮吉を名乗った。大正七年には第三日暮里尋常小学校に転任している。この学校は、地元では「三日(さんにち)」と呼ぶらしい。二日も三日も恩方村からの通勤は無理である。彼は谷中に下宿住まいした。寺町の鐘の音が時を報せる町であった。宮吉はこの江戸が色濃く残る町の散策が好きで、不動堂の「御行の松」辺りもよく歩いた。子ども時分に遊んだ恩方村の寺の風情に、どこか似ていたからである。
 宮吉は月に一二度、恩方村に帰った。昼下がりに谷中を出て、八王子の駅を降り、追分の十字路を右にとって案下道(あんげみち)を西に陣馬山に向かう。恩方村の家が近づく頃は夕方にかかってしまう。よく晴れた日、相変わらず故郷の空は、夕焼けで紅に染まった。

 宮吉はせっせと童話を書き、学校や近所の子どもたちが家に遊びに来ると、自作の童話を読み聞かせた。子どもたちも童話を楽しみに集まったという。
 雨が好きな宮吉は雨の童話をいくつも書いた。雨は良い、大地を湿らせ、草木の葉を洗い、鮮やかな緑を蘇らせる。また人の心をしっとりと優しくさせる。一滴の雨水は山に染み入り泉となり、沢となり、やがて大河にもなる。森や林を養い、数多の命を養う。やがてあの雨粒が天に昇り、雲となり、再び雨となって戻ってくる。雨は良い、と宮吉は子どもの頃から思っていた。
 家に童話を楽しみに集まった子どもたちは「雨のおじさん」と彼を呼んだ。宮吉はにこにことしていたが、本当は「雨のお兄さん」と呼んでほしいと思っていた。一度子どもたちにそう呼んでほしいと頼んだら、居合わせた子どもたちはゲラゲラと大笑いし、一斉に
「雨のおじさーん」
 と大声で呼んだ。
「そうかあ、やっぱりおじさんかあ」
 と宮吉も苦笑いし、それからみんなで大笑いした。

 鈴木三重吉が童話と童謡誌の「赤い鳥」を出し、宮吉の童話創作欲を強く刺激した。彼は学校の授業が終わっても職員室に遅くまで残り、新しい物語を思案し、書き続けた。しかし校長がこれを注意した。校長の感覚では、大人のくせに童話に熱中する男教師なんて「おかしい、へん」なのである。童話なんか教育しても子供たちの成績はあがらぬ。もっと文部省の指導要領に則って子どもたちに教科を詰め込ませるべきである。宮吉は生来温厚で、争い事が好きでない。はいはい分かりましたと言って、職員室に居残っての思索と執筆はやめた。
 童話は道を歩きながらは書けないが、詩なら詩句が浮かべば道端でもすぐ書き留めることができる。彼は童謡のための詩を書きはじめた。こうして大正八年に「夕焼小焼」と「ほうほう蛍」の詩ができた。しかしこれらの詩は投稿せず、机の中にしまわれたままだった。彼は下宿で、高井宮の筆名で童話を書き続けていたのである。

 宮吉は野口雨情に私淑していた。なんて優しく美しい詩だろう。宮吉は雨情が編集していた「金の船」に童話や童謡の詩を投稿した。
 大正十年「金の船」に彼の作品「お星さん」が掲載された。彼の童話や詩は雨情に激賞された。宮吉はとうとう傾倒していた雨情に会う機会を得て感激した。その後雨情に師事した。
 ある日宮吉は
「先生の雨の一字を筆名に使わせて欲しい」
 と申し出た。
「それに僕は雨が好きなんです」
 と宮吉は唐突に言った。雨情は思わず相好を崩し、それを了した。宮吉は雨情にはつい言わなかったのだが、夕陽が山の森も家も空の雲も紅に染めてしまうように、自分も優しく温かい雨情の人柄や詩心に染まりたいという思いから、雨紅と名乗ったのだ。
 大正十二年、文化楽社で童謡の楽譜出版に関わっていた福井直秋が、雨紅を訪ねて作品の提供を求めた。聞けば輸入ピアノ販売の鈴木ピアノが、購入者にこの新作童謡のピアノ曲集をプレゼントするという企画も進んでいるらしい。福井は雨紅に鈴木社長も引き合わせた。喜んだ雨紅は机の中にしまっていた「ほうほう蛍」と「夕焼小焼」を福井に渡した。福井は「ほうほう蛍」を田中敬一に依頼し、「夕焼小焼」の詩を草川信に渡した。草川は、福井が長野師範付属小学校で教鞭をとっていた頃の教え子である。ちなみに福井直秋は後年、武蔵野音楽学校を創立し、その校長となった。
 
 草川は雨紅の詩を読みながら、松代の山の中腹にある寺で遊んだ子ども時代を思い出した。ずいぶん悪戯をして和尚に叱られたものである。勝手に鐘楼の鐘を衝いて、激怒した和尚に追いかけられたものだった。寺の背後の山から大きな石を屋根に転がし落とした時も、ずいぶん大目玉を喰らったっけ。境内で近所の子どもたちと夢中になって遊んでいると、その和尚が「暗くなると母さんが心配する、早く帰りなさい」と、よく声をかけてくれたっけ。子どもたちは夕焼けの中を、スキップを踏みながら家に帰ったものだった。そうだ、烏も鳴いていた…。草川は目をつむった。
 こうしてバイオリニストの草川らしい、実に優しい曲が生まれたのである。

 この年、宮吉は叔母の中村家との養子を解消した。理由は知らない。そして既に物故していたが著名な漢学者の本城問亭の二女、本城千代子と結婚した。千代子も、彼女の妹の下田梅子も小学校の教師だった。
 文化楽社から「夕焼小焼」を含むピアノ練習用の譜面帳「文化楽譜あたらしい童謡その1」が発行された。その直後の九月一日、関東大震災が起こった。印刷所も出版社も倉庫も被災し、原稿も印刷物も紙型を含めて全て焼失した。たまたま既に人手に渡っていた十三部が被災を免れ、「夕焼小焼」は奇跡的に救い出された。
 梅子は義兄の作詞したこの歌を学校で教えた。やがてこの曲は静かに日本中に広まり、人口に膾炙していった。

 鐘を撞く寺男もいなくなったのか、あるいは鐘撞きが面倒になったのか、はたまた鐘の音が騒音とされたせいなのか、いつしか寺の時鐘をほとんど耳にすることがなくなった。代わりにどこの市町村や商店街でも、「夕焼小焼」のメロディが時報として流されるようになっていった。
「神官タン英雄の子息ミヤ君が日本の古里の夕景を活写せしこと」
「ミヤ君が時鐘代わりの歌を日本全国に流布せしこと」

    夕焼小焼で 日が暮れて
    山のお寺の 鐘が鳴る
    お手々つないで 皆かえろ
    烏と一緒に 帰りましょう

    子供が帰った 後からは
    円い大きな お月さま
    小鳥が夢を 見る頃は
    空にはきらきら 金の星