芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

エッセイ散歩 古代妄想

2015年10月18日 | エッセイ

 内外を問わず、古代史にはあまり興味が無い。しかし妄想癖があり、書物や人の話にも触発され、ボーっと歩きながらあれこれと想うことがある。誇大妄想ならぬ古代妄想である。
 古代、中国は自らを華と言い、世界の中心だとした。朝鮮の人々もそれに従った。彼等からすれば「まつろはぬ」人々や国は夷狄である。夷も狄も異民族を指し、狄にはわざわざ「けものへん」をあてた。当時の彼等には海の向こうの列島に棲まう人々は文明のない夷狄である。そこには幾つかの国があることも分かった。その内のひとつにヒミコと呼ばれる巫女が治める国があるという。彼等は「ヒ」にわざわざ「卑」の字をあてた。またその国名をヤマタイと聞き、「ヤ」に「邪」の字をあて「邪馬台国」と呼んだ。もうひとつの国、ヌ(ナ)には「奴」の字をあて「奴国」と呼んだ。古代「奴」は賤民、奴婢を指した。卑しみ、馬鹿にしたのだ。漢字は表語文字なのである。
 さらにその列島の人々を「倭人」と呼んだ。江戸前期の儒学者・木下順庵は「倭」には「小柄な」「矮」の意があるとした。姿勢が悪い矮躯、チビの意である。ちなみに木下順庵の学燈から「木門十哲」と呼ばれる優れた人々が出ている。新井白石、室鳩巣らである。

 朝鮮半島の人々にはもう一つの想いがあった。彼等の地理的視点からすると、海の向こうの倭人の棲まう地は「日出づる処」なのである。古代、太陽は神聖である。倭国は日出づる国でもあったのだ。それは憧れにもなる。やがて彼等は日出づる処に渡る。
 渡来にはいくつもの理由がある。一つは単なる漂流、漂着である。一つは日出づる処への憧れ、冒険、フロンティアである。一つは政治的理由、亡命、難民である。一つは経済的理由で、鉄を作るためである。鉄づくりには砂鉄と大量の薪炭がいる。朝鮮半島の山々はたちまち伐り尽くされたが、その再生は遅い。日本の山々は樹々が叢生し、温暖なため、その回復もずっと早いのである。奥出雲、中国地方に「たたら製鉄」の跡が残る。鉄づくりの「たたら場」は森を伐り、砂鉄を採るための「かんな流し」で環境を破壊しながら、山から山へと移動していくのである。これが「もののけ姫」の舞台になった。

 ヤマタイが転訛してヤマトになったのかも知れない。そのヤマトと呼ばれる地に統一国家ができると、「倭」を「やまと」と読んだ。さらに「やまと」を「大倭」と記した。小さくはない、大きい、という心意気であろう。「古事記」は「倭」と表記している。
 しかし「倭」にせよ「大倭」にせよ、「倭」の字を厭う知識人もいた。彼等は「大倭(だいわ)」を「大和(だいわ)」と書き替えて記し、「大和(やまと)」と読んだのである。さらに「日出づる処」日の本であるところから、「大和(やまと)」を「日本」と書き替え、これを「やまと」と読み替えた。
「日本書紀」は「大日本(おおやまと)豊秋津州(しま)」とし、「日本、此をば耶麻騰(やまと)という。下(しも)皆此に效(なら)え」としている。大号令である。山上憶良や大伴旅人、奈良時代の越前守・笠金村らは「日本(やまと)」に拘った。
    越(こし)の海の 手結(たゆひ)が浦を旅にして 
       見ればともしみ 日本(やまと)思(しの)ひつ
 万葉集にある笠金村の歌である。手結が浦は越(越前)敦賀の、現在の田結の海岸である。大伴旅人も歌う。
    日本道(やまとぢ)の 吉備の児島を過ぎて行かば
       筑紫の子嶋 思ほえむかも
 日本道(やまとぢ)は筑紫から大和へ通ずる、当時の街道を指したのだろう。現在の国道一号のようなものである。
 遣唐使として御津(みつ)=大伴氏の所領であった難波の津から出港して唐に渡った山上憶良は、その帰国に際し、仲間たちの顔を見回しながら歌ったのである。
    いざ子ども 早く日本(やまと)へ 大伴の
       御津の浜松 待ち恋ひぬらむ

 万世一系、皇統は連綿と続いてきたわけではない、というのが現代の考古学と歴史学の通説である。神武からどの天皇までが神話で、どこからが史実の人であったのか。津田左右吉は七代の開化までを架空とした。考古学者と歴史学者の間には三王朝交替説がある。うち二つは十代の崇神から仲哀までの崇神王朝(三輪王朝)と、十五代応神から武烈までの応神王朝(応神と十六代仁徳は同一人物説もあり、仁徳王朝とも言われる)である。彼等の宮居と御陵が河内に多かったことから河内王朝とも呼ばれる。
 崇神王朝と応神王朝の間の皇統は、繋がっていたのか切れたのか…。二十一代雄略天皇はサディスティックな殺戮を繰り返した極悪天皇とされる。二十五代武烈天皇もまた殺戮を繰り返した悪逆の天皇とされた。その武烈天皇が崩じて皇統が途絶えたのである。
 新王朝が成立した。新王朝とは越(こし)から来た二十六代継体天皇からである。…南北朝の正閏問題はあるにせよ、この継体天皇から現在の天皇家へと続いているのである。天皇家は越から来た、と言えなくもない。

…武烈天皇の崩御後、大連(おおむらじ)・大伴金村、大連・物部麁鹿火(もののべのあらかい)と許勢男人(こせのおひと)大臣らは合議を重ねた。武烈天皇が極悪非道であったとしても、古今、禍いは天皇(大王)が存在しないことによって起こるのである。このままでは天下が乱れてしまう。…丹波国に仲哀天皇の五世孫・倭彦王(やまとひこおう)が住んでいるが、彼を新天皇として迎え入れてはどうだろう。…そこで兵を調えて倭彦王を訪ねると、大勢の兵の姿に驚き怯えて、山谷に隠れ行方知れずとなってしまった。 
 大伴金村らは再び合議を重ね、越の男大迹王(おおどのおおきみ)を天皇として迎え入れるのはどうであろうと諮った。これに大連・物部麁鹿火と許勢男人大臣も賛成した。男大迹王は応神天皇の五世孫の王位継承資格者であり、しかも人格者である。…と言うのである。
 応神天皇の五世孫という由緒は、この時代、どうとでも言えるかなり怪しいものであり、後から作られた系譜かも知れない。また先述の、兵を見て山に逃げたという倭彦王も、作り話だと言われている。そもそも仲哀天皇の実在性も薄いと言われているのである。
 倭彦王の記述は、男大迹王=継体天皇の正統性や、武烈天皇とは異なり天皇にふさわしい人格者であることを際立たせるための「日本書紀」の作為とも窺える。
 またこうも言える。○○天皇の○世孫は数多く出て、傍系王族として王位の継承資格も失い、代を経るごとにその血統は王統から薄れて、中央政権からも弾かれ、地下(ぢげ)の地方豪族となり、土豪化していったのであろう。後世、源氏や平氏もこれらの中から出たに違いない。
 
 古代、今の福井県あたりから出羽あたりまでの、長大な日本海沿いの崖と砂丘と潟と沼の地が、越と呼ばれた。越は高志、古志とも書かれたが、あの独学の天才「大日本地名辞書」の吉田東伍博士によると、本来は蝦夷語で、一種族名と彼等が住む地域名を指したものだったらしい。越はその後の七世紀半ばに、越前、越中、越後に分けられている。
 ちなみに「琵琶湖周航の歌」の原曲作曲者・吉田千秋は、偉大な歴史地理学者・吉田東伍の二男であるが、これは別の機会の物語としたい。
 男大迹王(おおどのおおきみ)は、またの名を彦太尊(ひこふとのみこと)と言い、越前(現在の福井県)の三国に住んでいた。男大迹王はその地の豪族だったのである。彼は九頭竜川、足羽(あすわ)川、日野川の氾濫域を治水し、開墾して稲作を広め、豊かで強大な勢力を持っていたと思われる。
 彼の父は琵琶湖付近の土豪で彦主人王(ひこうしおう)という。越前の御国あるいは水豊かな水国(三国)の土豪の娘・振媛(ふりひめ)が大そう美しいと聞き及び、これを娶り男子を得た。しかし彦主人王は早々に死んでしまい、振媛は幼児を連れて三国の実家に帰り、そこで子を育てた。
「日本書紀」によれば「三国の坂中井」であるという。三国は湊を持ち、韓(から)国や韃靼にも通じ、それらとの交易や漂着もあったと思われる。当時の長大な日本海沿いの越の中では、後の越前は最も古くから開け、その周辺に多くの古墳群を残している。金沢が開けるのはずっと後の古墳後期のことである。
 現在の福井、鯖江、武生の西方に低い山々の起伏と小盆地が連なり、その裾を越前岬、越前町として日本海に落としている。この山々を丹生(にゆう)山地という。丹生とは砂鉄を含んだ赤土である。ここに鉄づくりの大集団が移り住み、樹を伐り出し、炭を焼き、かんな流しで砂鉄を採り、たたら炉を作った。その技術集団や、付随する作業集団のために、稲作による食糧が増産され、食器の須恵器を焼く者も出て、後に古越前と呼ばれる焼き物が産まれた。越の地、越前は富強だったのである。鉄づくりは越前の稲作を促し、また窯業も促したものと思われる。
 
 男大迹王は慎重、重厚な人だったと思われる。大伴金村、物部麁鹿火、許勢男人らの要請を、熟慮の上、受け入れた。男大迹王が五十七歳のときである。彼は河内の樟葉宮(くすはのみや)に至って即位した。即位後、二十四代仁賢天皇の娘で、武烈天皇の姉にあたる手白髪皇女(たしらかのひめみこ)を妃にした。約千五百年も前のことである。
 彼はすぐには大和に入らなかった。彼は三度宮居を遷した。慎重だったとも言えるが、大和とその周辺には多くの抵抗勢力もあったのだろう。これらを説得し平定するのに二十年の年月をかけ、ついに大和に入り、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)に遷都した。大和入りした時点で、すでに七十七歳ということになる。
 この継体天皇の大和入りは、神武天皇の畿内入りを彷彿とさせる、と指摘する歴史学者も多い。継体天皇の逸話が神武天皇の物語の一つになったのかも知れない。
 
 ちなみに、男大迹王がまだ越前にいたほぼ千五百年前、岡太(おかもと)川の上流の宮が谷の里に、ある日美しい姫が現れて、里人たちに清らかな谷水で紙を漉く技を伝えたという。耕地の少ない山里でも、紙を漉けば生計も立とうと言うのである。里人たちが彼女の名を尋ねると「川上に住む者」と応えて消えたという。里人たちはこの姫を「川上御前」と崇め、紙祖神として岡太神社を建てて祀った。日本で、紙の祖神はこの越前にしかいない。越前和紙の発祥譚である。福井に三俣駅や「みつまた山」があるのは、川や山が三つ叉に別れているためか、あるいは和紙の原料「みつまた」が豊富だったのだろうか…。
 奈良時代の官庁はまだ木簡や竹簡を使用していた頃である。それより早い推古帝の時代に、高麗王の命で日本に来た僧の曇徴が、紙を伝えたとされている。曇徴は紙と墨の作り方や写経を僧侶たちに教えたという。川上御前が伝えたという越前和紙は、それよりもずっと早くに作られ始めたことになる。
 平安時代、紙は中務省(なかつかさしょう)図書寮(ずしょりょう)の扱うところとなり、図書寮は越(越前)、美濃、出雲、播磨などに和紙作りをさせ、これを指導した。越の和紙は奉書用として重用され、同地の紙の王とも称される鳥子(とりのこ)紙とともに、最も高級な和紙とされた。平安期の上皇の院宣にも使用され、後に室町幕府は越前紙を将軍の御教書(みきょうしょ)や公文書用としたことから、越前奉書として有名になった。越前和紙は福井藩の藩札にも使われ、また明治に入ってからも紙幣に使用されたのである。
 古代妄想から、話があちこちあらぬ方向へ飛ぶことは、やはり誇大妄想なのかも知れない。

             
           継体天皇                  かんな流し

エッセイ散歩 あれこれ疑う楽しみ

2015年10月18日 | エッセイ
                                     

 私は疑り深い性向である。偉い先生方の本を読んでいても、すぐ疑問が湧く。また、かつてNHKの「こどもニュース」でパパ役として子どもたちにニュースを分かりやすく説明して評判になり、今や引っ張りだこのIさんの解説も、それほど信用はしていない。Iさんの場合、「談合」の解説が、嘘つけ、だったからである。子どもに嘘を教えてはいけません。
 例えば司馬遼太郎や歴史学者、日本語学者たちが、すでに本土では消えて久しい古代の「大和言葉、万葉言葉」が、今も沖縄に残されていることから、それらは五~七世紀頃に大和から沖縄の島々に移植されたものと推察していることである。本当であろうか。嘘つけ、である。
 ろくな造船技術も航海技術も無かったことを考慮すれば、古代大和の人たちが黒潮に逆らって航海に出たとは考えにくい。逆であろう。もっとずっと古い時代、それらの言語の元はちっぽけで粗末な筏舟を浮かべて、黒潮に乗って島嶼伝いにやって来たのに違いない。刳り舟はない。大樹がなく、刳り抜くための鉄の手斧(ちょうな)のような工具もなかった。例えば沖縄に鉄が入ったのはかなり遅い。
 漢字使用国で「訓読み」は日本でのみ使われている。訓読みはどこから来たかについて、畏敬する白川静先生も、司馬遼太郎も言及を控えた。
 訓読み、古代大和言葉、「まほろば」の万葉言葉は、黒潮に乗って、島々を伝い、薩摩半島、大隅半島、足摺半島、紀伊半島、伊豆半島、房総半島などの浜辺に流れ着き、あるいはそれらの岬の突端に打ち上げられたのだ。彼等こそ原日本人に違いなく、縄文人だったに違いない。やがて韓半島から多くの渡来人たちが流入し、彼等が持ち来たった漢字と、その意味と、原日本人たちの言語が照らし合わされ、音声として当て字しながら「訓読み」と送り仮名が誕生したに相違ない。そう考えるのが自然だろう。

 だいぶ以前、大きな水槽で錦鯉を飼っていた。早く池持ちになりたいものだと思っていたが、ついに叶わなかった。休日に何度か小地谷や山古志まで出かけた。四、五センチばかりの数千尾の幼魚が入れられた「無選別」の生け簀から、目を凝らしながらこれはと思うものを掬うのである。無選別と言っても、すでに錦鯉のプロたちが二度三度と選別した後の雑魚なのである。一尾五十円から百円なのだ。 
 薄く黄味がかった白地に、鱗の下に隠れた薄ぼんやりとした朱や墨を見ながら、これが後に成長して、どんな形や、どんな紅や黒墨が浮き出てくるのかを想定し、選び出すのである。私はこうして、ものの見事な「昭和三色」を見出したことがある。錦鯉に詳しくない方は、ぜひインターネットで「昭和三色」の画像を検索し、見ていただきたい。
 話が迂遠になっているが、そもそもエッセイ散歩なのだということでお許し願いたい。…ちょうどその頃、錦鯉の写真集を眺めたり、多くの文献などを読み漁っていた。それらによると、鯉は中央アジアが原産地で、日本には中国大陸や韓半島を経て弥生時代に持ち込まれたと書いてあった。そんな馬鹿な。嘘つけ、である。
 そもそも、現代の我々が生きた鯉を運ぶとき、大きなビニール袋に、その鯉が入れられていた(暮らしていた)水をたっぷりと入れ、酸素を注入して移動するのである。そんな大昔のちっぽけで不安定な船で、わざわざ大甕に入れて活魚を運んだと考えるのは愚かしい。そもそも野鯉(真鯉)は、大昔から日本の河川や湖沼に生息していたに違いない。…
 
 さすがに今日では、もともと日本に野鯉がいたという説になっている。そんなの当たり前であろう。ちなみに中国から蓮魚やハクレンが、食用として生きたままで持ち込まれたのは明治の中頃で、いま利根川で飛び跳ねている大きな魚は、この蓮魚(ハクレン)である。ただし河口近くで飛び跳ねているのは海のボラである。
 どんな動物でも草花でも樹木でも、突然変異というものがある。白い烏も白い鯰も、白い蛇も生まれる。桜も梅も変異する。特に桜は突然変異種や交雑種が出やすいらしく、今や約六百種を超えるという。
 黒い真鯉も突然変異し、「葉白(ようはく)」が生まれたり、やがて白い鯉や緋鯉が出たり、さらに黒と汚い赤色の斑の鯉や、「緋写(ひうつり)」「浅黄(あさぎ)」「白写(しろうつり)」「葡萄」「変わり五色」「秋翠(しゅうすい)」などの突然変異が発見され、あるいは作られていったのだろう。意図的に様々な模様や色の鯉が作られていったのは、江戸時代に入ってからである。それらが「錦鯉」と名付けられて、大名や大身旗本の屋敷などの、大きな池水の観賞魚となったのは文化、文政時代のことらしい。
 錦鯉もたくさん見れば、自然鑑識眼も養われる。錦鯉は「紅白に始まり紅白に終わる」と言うが、たしかに錦鯉の「紅白」はいかにも日本人好みである。しかしどんな見事な紅白でも、紅白だけでは錦の芸術にはならない。澄んだ池水の中を数十尾の様々な錦鯉が群れ泳ぐ様こそ、まさに一級の「錦」の芸術なのである。

 次は馬の話である。現在残っている日本在来種の馬は、遺伝学的にモンゴル馬であると言う。多くの文献によると、日本列島にはそもそも馬はいなかったことになっている。なぜなら、縄文集落の遺跡から馬の骨が出ていないが、弥生時代以後の古墳時代後期になると、大量の馬の骨や馬具が発掘されることから、その頃に大陸や半島から渡来したものだと言うのである。本当であろうか。私に言わせれば、嘘つけ、である。
 ろくな造船技術も航海技術もなかった時代に、現在の木曽馬かポニーほどの大きさの馬を乗せて、不安定な舟あるいは船で航海に出ただろうか。…気象風土は人の気性にも影響を与える。「小倉生まれで 玄海育ち / 口も荒いが 気も荒い」(吉野夫二郎作詞)…対馬海流と季節風に曝される玄界灘は意外に荒いのだ。対馬暖流は日本海で冷たい親潮とぶつかる。…
 もし馬が船で渡来したとすれば、それは飛鳥時代後期から奈良時代に入ってからだろう。その頃も渡来の「今来(いまき)」の人の流入が続いていたのである。「今来の人」とは最近来た人という意味である。ちなみに飛鳥、明日香とは古代朝鮮(こちょんそん)語で「安宿(アスク)」であり、ふるさとの意である。また奈良(ナラ)は国の意である。「寧楽」もナラと読んだ。韓国の政党、ハンナラ党の、ハンは韓、ナラは国である。

 縄文時代以前の原始日本の野には、小さな野生の馬がいたはずである。太古、日本海が湖だった時代もあったのだ。その後も日本列島のその一部は大陸とつながっていたのである。
 馬は集団で移動する動物である。それらは縄文時代に「家畜化」されていなかっただけであろう。あるいは、それを捕らえ、馴致する必要も技術もなかったのだ。弥生時代後期から古墳時代に大陸や朝鮮半島から入ったのは、それら野生馬の捕獲、馴致、家畜化、騎乗の技術のみだったと考える。
 また縄文集落跡からは犬の骨は発掘されているが、猫の骨は発見されていない。だから猫もいなかったとされている。これもおかしい。原始日本の山野に、数は極めて少ないながらも野生の猫(山猫)はいたはずで、犬のようには馴致、飼育されていなかっただけなのに違いない。対馬や西表の山猫は、孤島に取り残されたゆえに絶滅を免れたが、日本列島の山猫たちは絶滅したのではあるまいか。
 そもそも犬は狼である。それは長大な時間をかけて馴致され、様々に交雑されて犬となったのだ。人に飼われる猫も、元はエジプトの山猫である。やがて長大な時間をかけて飼い馴らされ、様々な変異や交雑が行われ、中東を経て、中国大陸や朝鮮半島から「舟」か「船」で人に抱かれて入って来たものだろう。やがて本格の交易船では、鼠害を防ぐために猫が飼われた。荷揚げした倉庫でも猫を飼った。

 現在の縄文時代の研究では、その遺跡から鹿の骨や馬の骨も発掘されている。つまり縄文時代に馬はいたということだ。それは家畜ではなく、狩猟によるものと考えられている。おそらく狩猟による食糧の確保は、さほど多くなかったのではあるまいか。原日本人はその食糧のほとんどを、採集に頼っていたものと思われる。
 当時の野生馬の数もそう多くはなかったはずである。そもそも馬の源郷は比較的に乾燥した草原なのである。現代の日本でも国土の七割が山林である(ほとんど人工林だが)。日本は温暖で湿潤な山林地帯なのだ。しかし山林ばかりでは鷲や鷹などの大型猛禽類は、営巣ができても狩りができない。彼等の生息には野原のような広野や河原、浜辺が必要なのである。その野原、草原はごくわずかであっただろう。
 馬はそこに生息していたのだ。草原が少ないということは、食糧も少なく、また天敵である狼からも全速力で走って逃れることに困難を伴ったであろう。そのような自然状況下での生息頭数や身体の大きさなのである。北海道の羆とカムチャッカの羆は、身体の大きさはカムチャッカのほうが二倍も大きい。本来は同種らしいが、餌の豊富さで身体の大きさが決まったというのである。
 また「麓」という文字が林と鹿で構成されているように、鹿も山麓、山の裾野に生息していたのに違いない。天敵の狼もいて、その生息数も増えすぎることもなく自然に調整されていた。したがって餌を求めて山の中腹まで登る必要もなく、現在問題になっているような、低木の木の芽を食べ尽くしたり、樹皮を削ぎ取って食べる必要もなかったのだ。
 ちなみに縄文集落の遺跡から、牛の骨はいまだ発見されていない。しかし私は牛も大陸や韓半島からの渡来ではなく、原始日本に野生の牛が生息していたのではないかと考える。おそらく草も豊富な低湿地帯である。やがて牛は小柄な馬より大きくて力も強く、神経質で癇の強い馬よりずっと温和しく我慢強いため、家畜化され車を引く交通手段ともなる。日本では馬車文化はほとんど芽生えなかったが、牛車(ぎっしゃ)は奈良時代後期には登場し、平安時代ともなると貴族の乗り物となったのだ。
 
 現在の日本の在来種の馬は小柄である。弥生後期、古墳時代の馬も小さい。
「平家物語」時代の馬も小さい。当時の成人の男たちも概して矮躯で、平均が五尺余くらいだったと思われる。馬と人は釣り合っていたのかも知れない。
 有名な義経軍の一ノ谷の合戦、あの鵯越逆落とし。鹿が降りられるのだから馬も大丈夫なはず、ソレってんで我先に駈け降りた。端から見ればこれが本当の「馬鹿だね~」…昔、二代目・桂伸治(十代目・桂文治)は、いたずらっ子のような目をくりくりさせながら、大ネタ「源平盛衰記」で鵯越の段をこう語った。「崖ってぇのは地べたが急に無くなっちゃうことで…」
 鵯越は崖だったのである。本当は義経軍、ほとんど転けたか滑り落ちたに違いない。しかし、大柄で豪の者だった畠山重忠は小さな馬を可哀想に思ったのであろう。馬を肩に担いで駈け降りた。優しい良い奴だったのだ。そしてそれほど当時の馬は小柄だったのだ。 
 ちなみに、だいぶ以前のTV映画「ライフルマン」のチャック・コナーズは、かなりの大男だったため、現代の大きな馬に乗っても、足が地面に着きそうに見えた。ときに急峻な崖道を駈け下るシーンでは、チャック・コナーズと馬が一緒に走っているように見えたほどである。それにしてもチャック・コナーズは、実に個性的で渋い面構えで、格好良い役者だった。彼はもともとプロ野球やプロバスケット選手だったのだ。ああいう面構えの役者をまた見たいものである。