芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

エッセイ散歩 海亀的漂流

2015年10月28日 | エッセイ
                                           

 海を渡る蝶がいる。台湾から喜界島などの奄美群島を経て、鹿児島、紀伊半島と旅をする。その距離は一千キロから二千キロに及ぶ。アサギマダラ蝶というそうな。遠く東北地方でも発見されているらしい。写真で見ると実に美しい蝶である。アサギマダラ蝶に国境はない。
 中米から北米へ三千キロを超える旅する蝶がいる。モナーク蝶というそうな。大きな蝶である。モナーク蝶にも国境はない。
 渡り鳥の種類は数知れない。可憐な小鳥から水鳥、鶴のような優雅な大型の鳥や、精悍な猛禽類の多くも何千キロも旅をし、山塊を超え海を渡る。彼らにも国境はない。
 回遊魚も鯨も海亀も、その生涯に数千キロの旅を繰り返す。彼らにも領海とか排他的経済水域という国境は存在しない。
「アメリカ亀やん」と呼ばれた伝説の漁師がいた。「亀やん」の心にも国境はなかった。海は自由に渡るものなのである。
「亀やん」の姓は吉田という。その名は地元の漁師仲間らに亀太郎とか亀次郎とか亀三郎とか記憶されており、その本当の名はあまり知られていなかったらしい。漁師仲間にとっては「亀やん」こそが、確かなる「伝説」の名前だったのだ。彼の本当の名は吉田亀三郎というそうな。
 明治四十五年(1912年)、亀やんは小さな帆船の和船を操り、太平洋を横断しアメリカに渡った。出稼ぎ目的の密航である。その帆船は打瀬(うたせ)漁という底引き網漁法を行う漁船である。打瀬船という。
 
 亀やんは明治五年、愛媛県南西部の西宇和郡川之石村、楠浜の、宇和海の打瀬漁漁師の家に生まれた。添田唖蝉坊と同年生まれである。父は清三郎、母はフユといった。父の清三郎は亀やんが幼いときに亡くなっている。母フユは矢野崎村(現八幡浜市)の出で、やはり漁師の娘だった。亀やんは三人兄弟の末弟である。二人の兄は父と同じ打瀬船漁師となり、彼もごく自然に漁師となっていった。
 しばらく漂流したい。亀三郎という名は実に良い名である。まずめでたい。いかにも長寿を願って付けられたものであろう。そして海の男の名にふさわしい。
 その名で思い出に漂いたい。私の母方の祖父の名を亀治といった。長寿を願っての名であろう。幼い頃、私は彼を亀爺(じじい)と呼んだ記憶がある。だから亀の付く名には、どこか懐かしさがある。彼は鶴のような痩躯であった。鶴のような亀爺とは、まずはめでたく鶴亀である。
 イベントの実施現場では、実によく写真を撮る。実施報告書に写真アルバムを添えて提出するためである。私はある広告代理店の方から「カメさん」と呼ばれるカメラマンを紹介された。彼は小池と名乗った。カメラマンだから「カメさん」かと思ったが、名刺を見ると「小池亀三郎」という名であった。「亀さん」なのである。彼にはよくイベントのモニター写真の撮影を依頼した。その人柄が、水温む小さな池の水面に出た石の上で、穏やかな日差しを受けて甲羅干しする亀の長閑さを想起させ、何ともふさわしく微笑ましかった。だから亀の付く名には、親しみを覚える。

 さらに漂流したい。もう一人、有名な亀三郎がいた。彼も伊予国(現愛媛県)宇和郡喜佐方村(現宇和島市)出身である。山下亀三郎という。この亀三郎は慶応三年、庄屋の家に生まれた。やはり三男坊であった。亀三郎は明治十五年に家出をし、大阪、京都と流れた。ここで同志社の山本覚馬に拾われた。強運の持ち主なのだろう。山本の私塾に学び、彼の勧めで東京の明治法律学校(現明治大学)に入っている。理由は不明だが、明治法律学校を中退すると、富士製紙、大蔵孫兵衛商店、横浜貿易商会等を転々とした。いずれも紙の取扱である。
 この亀三郎は、横浜で朝倉カメ子と結婚した。亀三郎とカメ子とは微笑ましい。結婚を機に、洋紙を扱う山下商店として独立したが、やがて敢え無く倒産した。その後竹内兄弟商会の石炭部で働いた。日清戦争で石炭業界は好景気に沸いた。山下亀三郎はその石炭輸送の海運業に目をつけた。彼は竹内兄弟商会の石炭部を買い取り、横浜石炭商会として再び独立した。明治三十六年、あちこちから借金をし、二千三百屯の英国船を購入し、故郷喜佐方村の名を取って喜佐方丸と名付けた。
 山下亀三郎は同郷の海軍参謀・秋山真之と親しくしていた。あの司馬遼太郎の「坂の上の雲」の主役・秋山真之である。亀三郎はこの秋山から日露戦争が近いことや、徴用船舶の情報を入手した。軍の徴用船は傭船料が格段に良い。八方に手を尽くし、喜佐方丸は徴用船舶の指定を受けることができた。
 こうして山下亀三郎は何度かの浮沈を経て、山下汽船を発足させ、やがて船成金と政商の道を歩み、日本最大の海運会社にまで成長させたのである。
 亀三郎は若い頃から「どろ亀」と呼ばれていた。山本覚馬の私塾で、まるで泥まみれになったように学んでいたからだと言う。また政商として泥にまみれた役割を果たしていたからだとも言う。しかし一時日本一の船成金、海運王になった彼は、その海のイメージから、やはり海亀がふさわしいだろう。
 蛇足であるが、石原慎太郎、裕次郎の父は、この神戸の山下汽船に勤め、やがて転勤して小樽支店に勤務した。その縁で小樽に裕次郎記念館が建てられたのである。
 第二次世界大戦後、山下汽船はほとんどの船舶を失って凋落した。業界の再編が進み、山下汽船は新日本汽船と合併して山下新日本汽船となり、さらに大阪商船と三井船舶が合併した大阪商船三井船舶に併合され、商船三井となった。イイノホールでお馴染みの飯野海運といい、「笑わん殿下」河本敏夫の三光汽船といい、海運業界の「浮沈」は実に凄まじいものがある。
 
 話を戻す。打瀬船漁師、吉田亀三郎こと「アメリカ亀やん」は学校を出ていない。そのため成人後も彼は読み書きができなかった。彼が生まれた明治五年に学制が発布され、十二年の教育令で義務教育が定められたが、その対象者の就学人口は全国平均でも五割に達しなかったらしい。また打瀬船漁師に読み書きは無用だったのである。打瀬漁と打瀬船操縦の技術こそが、第一等の価値であったのだ。
 やがて西宇和地方に「アメリカ稼ぎ」の魅力的な話が広まっていった。この地方からアメリカへ移住する人々が出始めたのは明治二十年頃からである。その移住熱に拍車がかかったのは、矢野崎村出身の西井久八という人物が、アメリカ西岸に移住し事業家として成功。故郷から多くの若者を労働者として募ったのである。矢野崎村は亀やんの母フサの生まれた村であった。西井久八の成功に触発されて、西宇和地方からアメリカへの出稼ぎ移民が増えていった。亀やんの青年時代のことである。
 
 海亀譚である。潮に流され、波のまにまに浮き沈み、ひねもす漂いたい。
日本で最初の海外移住はいつのことで、誰であったろうか。そもそも日本とは、日本人とは存在したのか。また、いつから存在したのか、思えば実にとりとめがない。
 十六世紀から十七世紀にかけて、ペルーのリマに日本人町が存在した。彼らやその子孫は、タロザエモン、サブロータやゴンベー、ヒョウエにタロベー、ゴエモンなどと、日本人と思しき名を名乗っており、ほぼ同地区に暮らしていたらしいのである。
 日本の安土桃山時代、スペインがフィリピンのマニラとメキシコのアカプルコ間に航路を開き、マニラやマカオ、アンナン、福建の港等から船員が雇われたらしい。その辺りに、既に相当数の日本の海民が暮らしていたのである。彼らは八幡船(ばはんせん)の船乗り(海賊である)や、漂流漁師であったろう。後に迫害を逃れた切支丹たちも加わったのではなかろうか。彼らはスペイン船に乗り込み、漂流し、ペルーで暮らすようになったのだ。
 ちなみに三橋美智也に「花の八幡船」という歌謡曲があり、その歌詞には「逆巻け波よ、狭い根性かなぐり捨てて」とか「アンナン」「シャム」とかの地名も歌われていた。これは大川橋蔵主演の「海賊八幡船」の主題歌だったかも知れない。この映画で橋蔵の片腕役を演じたのは、山本麟一という実に良い役者で、東映が輩出した名優である。後年は悪役に徹し、東映ヤクザ映画では素晴らしい存在感を示した。
 山田長政は江戸時代初期の慶長十七年(1612年)、朱印船でアユタヤ王朝下のシャムに渡った。シャムに渡った日本人は彼が初めてではない。すでに日本人で構成された傭兵隊が存在しており、津田又左右衛門がその頭領であった。津田と数多くの傭兵たちが、長政より早くシャムに暮らしていたのである。長政は津田の傭兵隊に加わり、後に日本人町の頭領となった。

 1620年つまり十七世紀、ローマのカトリック教会から正式に司祭の叙階を授けられた日本人がいた。ペトロ・カスイ・岐部である。
 彼は豊後国国東郡の出で、十三歳で有馬のセミナリヨに入学し、慶長十一年(1606年)にイエズス会に入会している。その時「カスイ」を名乗ったが、その由来は不明である。慶長十九年(1614年)に切支丹追放令が出され、彼と数人の仲間でマカオに逃亡した。その地でペトロ・カスイ・岐部らはラテン語と神学を学んだ。 
 その後ペトロ・カスイ・岐部は司祭になるべく、ひとりローマに向かった。マラッカ、ゴアを経て、陸路インド、ペシャワールからカイバー峠を越えてアフガニスタンのジャララバードを経て、ペルシャを縦断し、ホルムズからバグダッドに入っている。その後エルサレムを巡礼した。彼がローマに到着したのが1620年、三十二歳の時であった。その晩秋、彼はローマ教会から司祭叙階を授けられた。
 エルサレムに入ったのも、ローマ教会から司祭に叙せられたのも、彼が日本人初なのである。彼は数年間をローマで暮らした後、日本での布教活動を希望し、再び困難な旅に出た。
 ポルトガルのリスボンからインドを目指して喜望峰を回り、マダガスカルを経てゴアに向かった。数度の遭難を経て、1630年にマニラに流れ着き、さらに鹿児島に漂着、上陸している。およそ十六年の外地での漂泊の生活と旅であった。日本上陸後は隠れながら布教活動を続け、仙台藩内で捕らえられて寛永十六年(1639年)に殉教した。
 私は彼の壮大な旅の資料を集めて所持していたが、会社の倒産とともに散逸させてしまった。彼がマカオやローマに定住していれば、移住ということになったであろう。ペトロ・カスイ・岐部は、「日本のマルコ・ポーロ」「世界を歩いたキリシタン」として、海外でその名を知られている。

 時代も下って慶応二年秋、アメリカ人興行師ベンコツと、年千両、二年契約で買われた独楽廻し、軽業師、手妻師などの男女十四名が、イギリス船で横浜を発った。曲独楽の松井源水と女房と娘、自動人形の隅田川浪五郎、手妻浮かれ蝶の柳川蝶十郎、山本亀吉などである。彼らは上海で興行し、その年の暮れにロンドンに入っている。彼らは慶応三年(1867年)正月からロンドンの舞台に立った。
 慶応二年、足芸の浜錠定吉一座がアメリカに渡り、翌慶応三年にはミカド曲芸団一行がアメリカに入った。彼らはサンフランシスコで興行を開始した。その一週間後に、大阪の大竜一座もサンフランシスコでの興行を始めた。
 アメリカに渡った福沢諭吉の慶応三年五月の日記にはこう記されている。「朝六つ時ニューヨルク着。夜日本の芸人のヨセを見る」…この芸人たちは浜錠定吉一座らしい。
 その後も早竹虎吉一座が慶応三年の七月にアメリカのコロラド号で横浜を発つた。男女三十名の一座である。その船の最下船倉に高橋是清らが乗船していた。早竹虎吉一座はサンフランシスコに着くとすぐ興行を開始している。彼らはさらにアメリカを縦断してヨーロッパに渡っている。また薩摩一座が香港で興行している。
 これらのことは宮岡謙二の「異国遍路 旅芸人始末書」に詳しい。この海外に移流した日本の旅芸人たちについては、既に「唖蝉坊流れ歌」で触れた。
 このように旅芸人たちは次々に海を渡り、それは夥しい数に及ぶ。そのまま異国に留まり骨を埋めた者たちも実に多い。また幕末、バイカル湖畔に安女郎屋があり、そこに何人もの日本の女郎たちがいた。
 コロラド号の船倉にいた高橋是清のことである。彼は嘉永七年(1854年)江戸の絵師の家に生まれ、生後間もなく仙台藩の足軽・高橋寛治の養子となった。アメリカ人医師ヘボンの私塾に学び、慶応三年に藩命で勝海舟の子・小鹿(ころく)と共に留学することになった。しかし横浜在住のアメリカ人貿易商に学費と渡航費を騙し取られ、それに気づかずにコロラド号に乗り込んだのである。ホームステイ先はこのアメリカ人貿易商の両親の家で、彼らにも騙されて奴隷として売られ、葡萄園で働かされる羽目になる。その後、なんとか明治元年に日本に逃げ帰り、サンフランシスコで知遇を得た森有礼の推薦で文部省に出仕した。後にダルマ宰相として慕われたが、昭和十一年の二月二十六日に亡くなったことは誰でも知っている。
 この高橋是清が帰国した明治元年に、百五十七人の日本人がハワイに移住している。
 海のように茫洋とした記述を続けたい。現代詩を開いたダダイスト詩人の高橋新吉のことである。以前「虚空の人」という一文で触れた。
「私は海の中で生まれた 一九〇一年一月二十八日 一枚の鱗にさう書いてあった / 伊予の西南の象の鼻のやうに突き出た 半島の中ほどの伊方である」
 高橋新吉も伊予の伊方の出身である。いま伊方は原子力発電所で知られる。吉田亀三郎の西宇和郡川之石村に近い。彼らは「海の中で生まれた」のである。「一枚の鱗にさう書いてあった」のだ。

                          

人のとなりに 小鳥の話

2015年10月28日 | エッセイ

 部屋のベランダの正面は高校のグランドである。高校は公立で比較的新しい。創立して間もないのであろうか。まだ卒業生はいないのではないかと思われる。昨年買った地図を見れば、この高校はまだ建設中の表示である。むろん、すでに開校している。
 このグランドは周囲にネットが張り巡らされていたものの、未整地で石がごろごろしていたため、全く使用されていなかった。ネットの上辺やネットそのものに雀をはじめとする小鳥たちがとまり、グランドの草むらに舞い降りては餌の雑草の実や虫たちを啄んでいた。
 昨年末からグランド内に建設会社のプレハブ事務所や仮設トイレが設置され、多くの重機やダンプカーが入って整地工事が始まった。工事中の騒音を嫌ったものか、小鳥たちは全く姿を見せなくなった。新たなネットも張り直され、この春やっと工事が終了した。
 今は早朝から野球部の練習が始まり、平日の昼間は体育の授業に使用され、放課後はサッカー部が練習をしている。日曜日はサッカー部と野球部が午前と午後に分かれて交互に練習をし、グランドの奥まった所では、陸上部の生徒たちが練習をしている姿が遠見される。

 徐々に小鳥たちが戻りはじめ、ネットの上辺にとまって何やら鳴き交わしている。
 今朝、そこに全身鮮やかなイエローグリーンの二羽の鳥を見つけ た。つがいであろうか。くちばしと尾の形や、とまり木がわりのネット上辺の横への移動の仕方から、インコやオウムの種であろうと思われた。くちばしから尾の先まで二十センチ余もあろうか、インコとしてはやや大きく、オウムとしてはいささか小さい。どこからか逃げ出したものか。二羽いっしょに逃げ出したとも思えない。あるいは飼い主が故意に放したものであろうか。
 インコやオウムの種は寿命が長い。オウムの種は人間より長命で、百年は生きるという。しかも彼らの種は意外と気性が荒く、時として凶暴である。飼育に困り放鳥される 場合もままあるらしい。
 二羽のそれらは、しばらく首を回しながら私の家のベランダを窺っているかのようであったが、やがてどこかへ飛び去って行った。
 ある日、彼等は四羽になっていた。どこかで営巣し、増えているのかも知れない。

 ベランダのたたきや、その幅広の手すり部分には、ご飯粒が撒かれている。炊飯器の鍋などに付着したご飯粒を、洗って取り置き、雀たちのために撒いたのである。だから私のベランダには毎日、雀たちが遊びにやって来る。
 雀は今や絶滅危惧種に入れられそうである。雀は人間の営みのすぐ近くで暮らす小鳥であった。子ども時代を思い起こせば、確かに最近その姿を見ること少なく、めっきりと数を減らしたように思われる。ひとつは屋根瓦の日本家屋が減ったことによる。また屋根と天井部分の暑気を逃がすために、壁に穿たれた小さな通風格子も見られなくなった。つまり雀たちの営巣場所が無くなったのである。またひとつに、烏などの大型の天敵が増えた。
 燕もすっかり数を減らし、報道によれば、昭和時代の三分の一になったという。これも近年の日本の住宅事情から、彼らの営巣が困難になったことに原因があるらしい。私たちの暮らしのそばから、彼らが姿を消すことは実に寂しいことである。

 かつて北原白秋と江口章子夫妻が、小岩の「紫烟草舎」と名付けた家に暮らしていた頃のことである。
 二人は窮乏生活を送っていた。貧しい白秋を慰めたのは、毎日庭に遊びに来る雀たちである。彼は釜やお櫃を洗った際に出るご飯粒を、雀たちにあげていたのである。
「もしあなたが、立ち行く事も出来ず、もう餓死するばかりだという場合が来たら、この雀たちが一粒ずつお米を銜えて来て、きっとあなたをお助けすると思いますわ」
 と章子は笑った。
 やがて白秋夫妻は小田原に家を紹介する人がおり、そこに移った。白州はその家を木菟(みみずく)の家と名付けた。まことに小さな山荘風の家である。
 やがて章子の予言どおり、白秋が紫烟草舎で書いた「雀の卵」「雀の生活」は本になって良く売れ、白秋に大いに米粒をもたらした。暮らしぶりが良くなった白秋は、木菟山荘の隣に洋館を新築した。
 どうせなら雀のお宿、雀山荘などと名付ければ、白秋は雀と遊んだあの極貧生活を思い出し、西行や芭蕉に憧れた清貧な暮らしぶりを続けたにちがいない。しかし白秋は新築祝いに多くの友人知人を招き、小田原じゅうの芸者を総揚げして、飲めや歌えのドンチャン騒ぎをやらかした。彼は酒好きで豪快で、陽気なトンカジョン(大店の大きな坊ちゃん)だったのである。これが章子との離婚の原因となったことは、以前「掌説うためいろ」の「火宅と清貧」に書いた。
 私は別に白秋の顰みにならって雀にご飯粒をあげているわけではない。また雀たちが将来、私にご飯粒を銜えて助けてくれるとも思えない。私には白秋のように雀の本を書く才能もない。しかし、ベランダに遊びに来る雀たちは実に愛くるしい。私は彼らを脅かさぬよう、レースのカーテン越しにそっと眺めて楽しむばかりである。雀たちが私にくれるものは米粒ではなく、素晴らしい癒やしのひとときなのである。

 いつもの年より早く、桜がちらほらと開花した。一羽のムクドリが咲いたばかりの花を食べていた。ムクドリは桜の花や蕾が大好物なのだ。その樹にカラスがやってくるとムクドリは鋭い声を立てて逃げた。カラスも花を食べるのかと見ていると、一二輪の花の付いた小枝を器用に折り、それを咥えると電線に移動した。カラスはその桜の小枝を咥え直すと、どこかへ飛び去っていった。巣作りをしているのだろう。巣に桜の花を飾るとは、なんと風流な烏(やつ)だろう。

 ベランダにお釜を洗った際に出る米粒を撒いていると、最初は二、三羽の雀が、近頃は十数羽、時に二十羽を超えてやってくる。おそらく「雀の噂」が広まったのだろう。二羽のムクドリもやってくる。時々ムクドリがスズメを虐める。近づき過ぎたスズメの頭や背を突いたりするのだ。虐められたスズメは驚くほどの大きな声で鳴き喚いて逃げ去る。
 ある朝、スズメの群れの中に羽根の色が異なる小鳥を見つけた。スズメと共に夢中で米粒を啄んでいる。スズメより一回り小さく、動きも俊敏である。羽根の色はくすんだ黄緑色である。おそらくヒワだろう。
「くすんだ黄緑色」はその小鳥に失礼であろうか。「鶸(ひわ)色」は鎌倉時代からの日本の伝統色なのだ。武士が礼服としてまとう狩衣に用いられた、実に日本的な渋い色で、特に鶸茶は男の色とされた。また女性の好む「鶯(うぐいす)色」という伝統色もある。
 先に挙げた北原白秋は、「雨は降る降る城ヶ島の磯に 利休鼠(りきゅうねず)の雨が降る」と詩ったが、「利休鼠」は鶸色より緑色が薄く灰色に近い。これも日本伝統の色である。
 ヒワは羽根色も姿もウグイスに似ている。私には容易に区別がつかない。強いて挙げれば、ウグイスはヒワより一回り大きいと覚えた。
 私の子どもの頃、小さな田舎町でも、一、二軒の「小鳥屋さん」があった。決してペットショップではない。小鳥の専門店なのだ。学校帰りによく立ち寄って、小鳥を眺めて飽くことがなかった。十姉妹、文鳥、錦華鳥、セキセイインコ、九官鳥、カナリアなどが目当てである。小鳥屋のオジサンやオバサンから、小鳥の飼い方や性質などを教えてもらった。店には、メジロやウグイス、ヒワもいた。ヒワはウグイスに似ているが、カナリアの仲間なのだとも教えてもらった。ヒワとカナリアはあまり似ていない。
 古くから日本人はメジロやウグイスを愛玩したが、ヒワもずいぶん飼われていたらしい。…ちなみに私はその小鳥屋さんから十姉妹を買った。文鳥や錦華鳥に比し、丈夫で子育ても上手いという理由だった。私は手乗り文鳥ならぬ、手乗り十姉妹に飼い慣らしたものである。