芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

人のとなりに 詩人たち、そして時代

2015年10月12日 | エッセイ

 金子みすゞの童謡詩は淋しい。それを子どもたちに教えるには、躊躇いが起こる。でも、その詩の意は、なるべく早いうちに教えるべきなのだろう。
   
   すずめのかあさん
     こどもが / こすずめ / つかまえた。
     その子の / かあさん / わらってた。
     すずめの / かあさん / それみてた。
     お屋根で / 鳴かずに / それ見てた。 
   
   大漁
     朝焼け小焼けで / 大漁だ
     大羽鰮(いわし)の / 大漁だ
     浜は祭りのようだけど
     海の底では何万の / 鰮のとむらい / するだろう 

 一方の笑いや歓喜は、もう一方では胸の潰れるような悲しみなのだ、それを忘れないでと詩うのだ。彼女の目にはいつも死が見えていたのだろう。
 
   繭と墓
     蠶(かいこ)は繭に / はいります 
     きぅくつさうな / あの繭に
     
     けれど蠶は / うれしかろう、
     蝶になって / 飛べるのよ。

     人はお墓に / 入ります、
     暗いさみしい / あの墓へ。

     そしていい子は / 翅が生え、
     天使になって / 飛べるのよ。 

 金子みすゞは、なぜ乳飲み子を残して自死を選んだのだろうか。彼女の心は、あまりにも繊細に過ぎたのだろうか。

 北原白秋が貧窮に喘いでいた頃、釜やお櫃を洗った際に出る米粒を庭に撒き、遊びに来る雀たちを眺めることを楽しみとした。妻の歌人・江口章子は「そのうちあなたが食べるにも事欠くとき、この雀たちが米粒を咥えて助けに来ますわ」と言って笑った。後に白秋は随筆「雀の生活」を書き、それが売れてだいぶ暮らし向きが良くなった。雀が米粒を運んできたのだ。これは以前、エッセイとも小説ともつかぬ「掌説うためいろ」の「火宅と清貧」に書いた。
「雀は私を観ています。…常に雀と一緒になって、私も飛んだり啼いたりしています。…雀を識るには雀と一緒になる事です。そうして雀になって了わなければなりません。」
 白秋は兎になって了ったこともある。新潟師範学校の講堂に、市内やその周辺の小学校から二千人の児童が集まり、白秋の「童謡音楽会」が開かれた。次々に歌われる自身の童謡に喜び、じっとしておられず、「兎の電報」の曲でついに舞台に登壇し、「ぴょんぴょこ兎がえっさっさ」と兎の郵便配達になりきって跳ね、踊り続けたのである。歌が終わったとき、詩人は全身汗びっしょりだったという。「火宅と清貧」の詩人・白秋は、明るい。

 童謡詩人たちを調べているとき、裕福な家に生まれながら、没落、家産の散逸、破産で辛苦を舐めた人が多いこと気づいた。おそらく、そういう浮沈の激しい時代だったのである。多くの旧家が没落していく時代だったのだ。
 白秋は、九州一二の豪商といわれた酒造業の家に生まれた。その家も町の大火で酒蔵を失った後に没落し、白秋の貧窮生活が始まったのである。鈴木三重吉が「赤い鳥」創刊に当たって白秋を誘った。童謡詩は白秋の天凛の資質を開花させ、そして彼を経済的に救ったのである。
 彼の二番目の妻となった章子も、豊後香々地で乳母日傘で育ったが、白秋と別れた後に帰った生家は、代も替わり、見る影も無く零落していた。
 竹久夢二は岡山県邑久郡本庄村で代々酒造業を営む家に生まれた。神戸の叔父の家から神戸尋常中学校に通っていたが、父の事業失敗で退学し、翌年一家で製鉄所を建設中の八幡に移り、彼も製鉄所で製図写しの職を得た。
 西條八十は東京の裕福な家に生まれたが、学生時代に父が急死し、兄の放蕩もあって、その家産はほとんど消えた。八十は残された家族を養うため、株取引や天麩羅屋を始めて失敗し、より困窮した暮らしを送った。ある日、鈴木三重吉が八十を訪ね、まだ無名に近い彼を「赤い鳥」に強く誘った。さすがの眼力である。八十は「赤い鳥」に「かなりや」を発表し、一気に童謡詩人として知られ、経済的にも救われたのである。後年、八十は金子みすゞを見出し、みすゞも八十に私淑した。
「てるてる坊主 てる坊主 / あした天気にしておくれ」…浅原鏡村は、安曇野池田の代々酒造業を営む裕福な家に生まれた。彼が五歳の頃、家は破産し、末っ子の彼を山深い里の叔母に預けると、一家はその地を去って行った。

 野口雨情は、茨城県多賀郡磯原町に廻船問屋の名家に生まれた。父が事業に失敗して亡くなった後、莫大な借財と共に家を継いだ。すでに山林主の娘を嫁にしていたが、彼は妻子を残し、一発逆転を賭けて樺太に渡って事業に挑み、失敗した。東京で詩人として活動するも生活ができない。やがて北海道で記者として新聞社を渡り歩き、詩作から遠ざかった。札幌の小さな新聞社に職を得、妻と長男を呼び寄せた。夫妻は女の子を授かったが、その子をすぐに亡くしてしまった。その悲しみは後に「しゃぼん玉」の一節になり、また同僚夫妻の話から、後の「赤い靴」が生まれた。
 雨情は故郷に戻り、妻の実家の山林管理の仕事に従事した。腰に枝落としの山刀を携え、毎日山に入っていた。その後夫妻は離婚した。時代は第一次世界大戦の最中で、圏外にいた日本は輸出が急増し、大戦景気に沸き始めていた。目端の利く者はたちまち成金となった。職工成金という流行語も生まれた。船成金、鉄成金、鉱山成金…。茨城県は炭鉱や銅山の土地柄でもある。この景気に後押しされるかのように、鉱山機械の久原鉱業所は東京に本社を移転し、やがて日立製作所として発展していく。
 時代は一握りの成金と、一握りの財閥、一握りの資産家、資本家たちを大いに潤した。彼等は物資を買い占め、売り惜しみし、物価の暴騰で巨利を得た。貧富の格差は拡大した。好景気とはインフレのことなのである。物価の高騰は、労働者、庶民の暮らし向きを激しく圧迫した。
 大正七年、富山で米騒動が起こり、同じ頃「赤い鳥」が創刊された。寺内内閣が「欧米から要請されていた」シベリア出兵を宣言すると、騒動はたちまち全国に波及した。炭坑騒動も起こり物情は騒然としていた。寺内内閣は瓦解し、政友会の原敬内閣が誕生した。政友会と憲政会の激しい対立は、全国の地方議会にまで及び、茨城県も知事と県会が対立、混乱するばかりであった。土地の名士でもある県会議員たちは、代々の家業や事業より、対立激化する政治に夢中になっていたに違いない。一部の者たちが浮き、多くの人が沈んでいった。
 添田唖蝉坊は「のんき節」を歌った。
     議員てなもんは、弐千円も~らって
     昼は日比谷でただガヤガヤと  
     わけの分からぬ寝言を並べ
     夜はコソコソ烏森 
     アアのんきだね~
 雨情は再婚して東京に出た。「赤い鳥」が彼を大いに刺激したに違いない。彼は再び詩作を開始し、創作に没頭した。大正八年、斎藤佐次郎が「金の船」に雨情を誘い、彼は本格的に詩壇に復帰し、次々に優れた童謡詩を発表していった。ちなみにこの年、水戸歩兵第二連隊がシベリアに出兵した。唖蝉坊は「労働問題の歌」を歌っていた。雨情は中山晋平の紹介で、終生の平和主義の同志、本居長世と出会った。

 「十五夜お月」(後「十五夜お月さん」と改題)は大正九年九月号の「金の船」に発表された。本居長世が曲を付け、その長女みどりが歌い、童謡歌手の第一号となった。

     十五夜お月さん 御機嫌さん
     婆やは お暇(いとま)とりました

     十五夜お月さん 妹は
     田舎へ 貰(も)られて ゆきました
 
     十五夜お月さん 母(かか)さんに
     も一度 わたしは 逢いたいな

 雨情の知人の名家が没落した。雨情はその家の長女を想って詩を書いた。母さんが亡くなり、幼い妹は田舎の親戚の家に貰われていった。婆やもお暇をとっていなくなった。おそらく生家で観る最後のお月見になるだろう。少女は心中の淋しさを、まん丸お月さんに訴えたのだ。
 ちなみに朝ドラ「花子とアン」でも分かるように「ご機嫌よう」「ご機嫌さん」は、この時代の普通の挨拶だったのだ。

     ※「虹の橋文芸サロン」の一篇として書かれたので「人のとなりに」に入れたが、
       「掌説うためいろ」に入れてもよい。

人のとなりに 聖歌と南吉

2015年10月12日 | エッセイ
                   

 前回「童謡のことなど」の中で、「漱石のそれ以前、『童謡』という言葉は全く使用されておらず…」と書いた。童謡という単語は「日本書紀」に初出するが、それ以降、明治三十八年一月号の「ホトトギス」に、漱石が「童謡」という詩を発表するまで使用例がないという意味である。これは誤りであった。
 つい先日、平凡社刊の東洋文庫「日本児童遊戯集」(大田才次郎編、瀬田貞二解説)を引っ張り出し、読み直し始めて、その誤りに気付いた。この本は明治三十四年、二月から三月にかけて博文館から発行された「日本全国児童遊戯法」全三巻の覆刻版である。
 その「例言」冒頭に、「近年児童の研究頻りに起り、童謡を調査するもの、遊戯を調査するもの、玩具を調査するもの等、種々の方面よりしてこれが研究に従事しつつあれども、本書は必ずしもこれらの目的を立てて編纂せるものに非ず。… 明治三十四年二月 編者識」とある。
 編者・大田才次郎は夏目漱石の四年ばかり前に「童謡」という言葉を使用していたのである。おそらく、出版物でないにせよ、他にも使用されていたと考えるのが妥当だろう。
 大田は東陽堂の「風俗画報」に執筆したりしている。特に相撲と講談に詳しかったらしい。今で言うフリーランスの編集者で執筆者でもあったのだろう。しかし、彼が編集者として細かな作業をしていたというイメージは湧きにくい。 
 そもそも編集と編纂の二語に定義の違いはあるのか。広辞苑をはじめ、いくつかの辞書で二語の定義を調べたが、ほとんど差異はない。…世に編集権というものがあるらしい。また編集著作権というのもあるらしい。

 一年ほど前「狐の話」という一文を書いた。その中で「焚き火とごん狐のお話し」に触れた。そして「『ごん狐』と巽聖歌の物語は別の機会にしよう」と書きながら、そのままに過ぎてしまった。
 昨年は童話作家・新美南吉の生誕百年で、生地の愛知県半田市ではさまざまなイベントを開催していた。特に秋の矢勝川堤を赤く染める見事な彼岸花は、「ごん狐」に由来して整備されたものだという。
 巽聖歌は少年時代、時事新報社で下働きをし、校正の手伝いをしていたことがある。一時失意のうちに岩手県の日詰に帰郷していたが、「赤い鳥」に投稿した童謡詩「水口」で北原白秋に激賞され、再び上京。白秋門下として童謡詩を書き、与田準一や多くの詩人や児童文学者等と交わり、準一らと「赤い鳥童謡会」をつくった。そして白秋の弟・北原鐵雄が経営する出版社アルスで編集の仕事をしていた。
 新美南吉が投稿した童謡詩が「赤い鳥」に掲載されたことが縁となり、南吉は何人かの童謡詩人や童話作家らと文通し、知り合いになった。特に与田準一や巽聖歌と親しくなった。
 準一や聖歌らは「乳樹(チチノキ)」を創刊した。南吉はここに童話を投稿し、その同人となった。準一も聖歌も「赤い鳥」の先輩であり、白秋門下の先輩だった。南吉は準一や聖歌に自分の原稿を見せ、意見を求め、それによって書き直したりもしていたのだろう。
 聖歌は「ここで句点を入れれば、ほら読みやすくなるだろう? ほら、こことここの文節を入れ替えると分かりやすくなる。こうすれば文章が簡潔になる…」等と付したに違いない。南吉は喜び、それに従ったに違いない。南吉は実に素直な人だったのだ。こうして南吉と聖歌の兄弟のような付き合いが始まった。
 南吉は「ごん狐」を書き始めた。おそらく何度も聖歌や準一等に意見を求めたことだろう。添削を求めたこともあったであろう。

 私は「ごん狐」を三種ほど読んだことがある。一度でも流布した種類はもっと多いのかもしれない。「ごん狐」は「赤い鳥」に投稿され、選者の鈴木三重吉から高く評価された。三重吉は原稿に手を入れ、掲載した。三重吉は「赤い鳥」の主宰者である。発行人には編集権がある。そして彼自身が作家であり、児童文学者である。
 ちなみに三重吉は、度々投稿してきた宮沢賢治の作品が全く理解できず、ついに「赤い鳥」に掲載することはなかった。
「ごん狐」の「赤い鳥」への掲載を、一番喜んだのは聖歌であった。南吉は半田小の代用教員を辞め上京した。一番その世話を焼いたのは聖歌であった。南吉は東京外国語学校の英文科に進んだ。
 聖歌が中野区の上高田に家を借り、彼が結婚するまで南吉も共に暮らした。その家の周辺は、田畑と屋敷林で囲まれた旧い農家が点在するだけの長閑な田園地帯であった。屋敷林の落ち葉は掻き集められ、畑の肥料として鋤込まれたり、焼かれて、その灰も畑に撒かれた。焚き火の薄い、青い煙は、日常の田園の情景なのである。後に聖歌は、その風景を童謡「たきび」に詩った。

         かきねの、かきねの まがりかど
         たきびだ、たきびだ おちばたき。

 南吉は学校で多くの友人ができた。「赤い鳥」の仲間たちとの交流も増えた。
ある日彼は喀血した。学校を卒業し、神田の貿易会社に勤めたが、本格的な療養のため半田に戻ることにした。
「いいか、無理するなよ。でも書き続けろよ。そのうち良い薬もできる」
 と聖歌は南吉を駅まで見送った。その病気を一番心配し、その帰郷を一番寂しがったのは聖歌だったろう。
 帰郷した南吉は、教職に就いたり退職したりを繰り返した。その間、聖歌は彼に新聞社や出版社を紹介したりした。さらに童話集「おぢいさんのランプ」刊行の労をとった。出版社や装丁、挿絵の話もどんどん進めた。この時の挿絵は棟方志功である。戦争拡大のおり、紙も容易に手に入らなくなった頃である。聖歌は走り回った。こうして晩秋に「おぢいさんのランプ」が出た。
 その後、南吉の病状が悪化し、年を越した春まだき、彼は息を引き取った。聖歌は慟哭した。葬儀が済むと聖歌は南吉の残した草稿を預かり、その整理に入った。南吉の全ての作品を出版してあげたい、彼をもっと知ってもらいたい、多くの子どもたちに読んでもらいたい。…聖歌は南吉の原稿に手を入れた。こうすればもっと良くなる、こう表現した方が南吉の意図が伝わる、ここに句点を打てば分かりやすくなる、ここを削り、ここで読点を打てばより簡潔になる。こうすれば子どもたちの心により伝わるだろう。…聖歌は、自由律俳句のような「水口」で知られる詩人であり、物書きであり、そして編集者だったのだ。
 彼は奔走した。紙の入手のために頭を下げ続け、印刷所を駆け回った。こうして昭和十八年の秋、二冊の本が刊行され、南吉の仏前に置かれた。
 戦後も巽聖歌は南吉の作品を広めるために尽力した。やがて新美南吉は東北の宮沢賢治に比され、童話作家として評価されていった。
 ある日、聖歌は愕然とした。彼が勝手に新美南吉の原稿に手を入れたという非難の的になったのである。その非難は聖歌の胸を撃ち抜くように痛撃した。「自分が良かれと思ってやったことは、いけないことだったのだろうか」
 ちなみに、ほとんどの編集者は、「良かれ」と思って手を入れるのである。

 宮沢賢治の童話も、新美南吉の童話も、その解釈はたいへん難しい。
 南吉の「ごん狐」は、ごんが兵十に隠れて彼への償いの行為を続ける話である。兵十の家に栗や茸などをそっと置いてくるのだ。兵十のために良かれと思ってやったことが、かえって兵十に迷惑をかけることもある。魚売りの魚籠から鰯を盗み、兵十の家に置いて来たため、兵十は盗人呼ばわりされて殴られる。しかしごんは、兵十に理解されないその隠れた行為をやめない。ある日見つかって、ごんは兵十の火縄銃に撃たれる。兵十の火縄銃から、青い煙が、まだ筒口から細く出て…
 良かれと思ってやったことが、理解されないこともある。誤解されることもある。ごんは、そのため痛撃されたのである。聖歌も、良かれと思ってやったことで、痛撃されたのである。新美南吉の「ごん狐」は、彼が兄のように慕っていた巽聖歌への一撃に、どこか重なるように思えてならないのだ。

         新美南吉「ごんぎつね」(絵・黒井健 偕成社)

     ※「虹の橋文芸サロン」の一篇として書かれたので「人のとなりに」に入れたが、
      「掌説うためいろ」に入れてもよい。

人のとなりに 童謡のことなど

2015年10月12日 | エッセイ
                                                                                                         

   源兵衛が 練馬村から
   大根を 馬の背につけ
   お歳暮に 持て来てくれた
   源兵衛が 手拭でもて
   股引の 埃をはたき
   台どこに 腰をおろしてる
   源兵衛が 烟草をふかす
   遠慮なく 臭いのをふかす
   すぱすぱと 平気でふかす
   源兵衛に どうだと聞いたら
   さうでがす 相変らずで
   こん年も 寒いと言った
   源兵衛が 烟草のむまに
   源兵衛の 馬が垣根の
   白と赤の 山茶花を食った
   源兵衛の 烟草あ臭いが
   源兵衛は 好きなぢゝいだ
   源兵衛の 馬は悪馬だ

 これは「童謡」と題された夏目漱石の作である。明治三十八年「ホトトギス」の一月号に「吾輩は猫である」と共に掲載された。「日本童謡集」(与田準一編・岩波文庫)によれば、大正七年に鈴木三重吉が興した「赤い鳥」運動以前の、童謡らしい創作の動きの魁をなす。
 「ホトトギス」は明治三十年に正岡子規の友人・柳原極堂が起こした俳句誌で、子規や高浜虚子らが選者となった。子規は連句に否定的であったが、彼の死後、虚子が連句を新体詩とする復興運動を興し、漱石もそれを支持した。雑俳好きの漱石が面白がり、また「ホトトギス」を仲間内の気楽な投稿誌とみなし、連句形式で詩を書いてみたに違いない。漱石はこれを新体詩ならぬ「俳体詩」と命名し、虚子もその名称を使用した。漱石のそれ以前、「童謡」という言葉は全く使用されておらず、子どもの唄は「童(わらべ)唄」と呼ばれていた。

 童謡「サッちゃん」で知られる阪田寛夫によると、「童謡」はおそらく中国から入った千年以上の歴史的言葉で、「日本書紀」に初出する。「わざうた」と読まれ、政治的諷刺詞の意味を持つらしい。ちなみに「唱歌」は「しょうが」と読まれていたという。
 先に「虫愛づる姫君」で、姫君は童たちに蟷螂や蝸牛など他の虫たちも集めさせ、彼等に「かたつぶりのお、つのの、あらそふや、…」と、叫き散らすように歌わせて、それを笑いながら聴き、やがて自分も諳んじて、いっしょに楽しげに大声で歌う…と書いたが、あれこそは本当の童唄で、今日の童謡に違いない。平安後期の話である。
 それにしても漱石の「俳体詩」という命名や、ほとんど新語に近い「童謡」という言葉を使用したことは、流石というほかない。またこの「ホトトギス」に掲載された「吾輩は猫である」は、口語体文章日本語の豊かな表現の可能性を示し、「童謡」は、和歌や俳句のような約束事から自由な詩の可能性を示したのである。それは種田山頭火や尾崎放哉の自由律俳句や、鈴木三重吉らの童謡運動、さらに現代詩につながったのではないか。
 ちなみに車谷長吉は「童謡」の漱石を、近代日本の最高の詩人だとしている。

 さて、漱石は熊本時代に犬を飼っていた。夏目鏡子夫人の「漱石の思い出」は読んだ記憶はあるが、いま手元にはなく、また内容もほとんど失念している。たまたま「熊本国府高等学校パソコン同好会」の「くまもと文学散歩」というサイトを見つけ、「漱石の犬(大江村401の仔犬)について」を楽しく読ませてもらった。一枚の写真と共に鏡子夫人の「漱石の思い出」が紹介されている。
 縁側で漱石と鏡子夫人が火鉢を前に座り、漱石が分けてやった座布団に耳の垂れた仔犬がちょこんと座っている。漱石の左に大柄な書生の土屋と、鏡子夫人の右に三毛猫を膝に抱いた女中のテルが、脚を降ろして縁に腰掛けている。写真の中央が仔犬なのである。仔犬の垂れた両耳は茶色だろうか。左目はパンダのように縁取られているようだ。テルの膝でそっぽを向いた三毛猫以外は、みんなまっすぐカメラを見つめている。仔犬も猫も可愛い。仏頂面の漱石が、仔犬のために少し座布団を分けてやっているのも、可愛い。失敬、微笑ましい。
 漱石はその後引っ越したが、この耳の垂れた犬は飼われておらず、替わりに知人からよく吠える大きな犬をもらった。この猛烈に吠える犬は、ある時通行人に噛みついてしまった。漱石は巡査から厳重注意を受けたのだが、「犬なんてものは利口なもので、怪しいとみるから吠えるのであって、家のものや人相のいいものには吠えるはずのものではない。噛みつかれたりするのは、よくよく人相の悪いものか、犬に特に敵意をはさんでいるからで、犬ばかりを責めるわけにはいかない」と反論したらしい。
 その後、夜遅くに帰宅した漱石は、この犬に猛然と吠えられ噛みつかれて、袂と袴が破れ、真っ青な顔で家に入ってきたという。漱石は、なかなか楽しい。

 厳めしい顔の漱石でも、仔犬に自分の座布団を分けるほどに、動物は愛らしく、人を和ませ優しくするものらしい。アイソーポスやラ・フォンテーヌ、クルイロフの寓話と同じように、童謡や童話にもたくさんの動物たちが描かれる。子どもたちが総じて動物好きということもあろうが、童謡詩人や童話作家たちも、動物を描くことで、ほっこりとした優しい気分を伝えやすいのだろう。

   赤い鳥、小鳥、
   なぜなぜ赤い
   赤い実を食べた   
       (北原白秋「赤い鳥小鳥」)

   ソソラ ソラ ソラ 兎のダンス
   タラッタ ラッタ
   ラッタ ラッタ ラッタ ラッタ ラ   
       (野口雨情「兎のダンス」)

   めえめえ 森の児山羊   
   児山羊走れば 小石にあたる
   あたりゃ あんよが あ痛い  
   そこで児山羊は めえと鳴く   
       (藤森秀夫「めえめえ児山羊」)

   唄を忘れた金糸雀は、後ろの山に棄てましょか
   いえ、いえ、それはなりませぬ   
       (西條八十「カナリヤ」)

   烏 なぜ啼くの 
   烏は山に 
   可愛七つの
   子があるからよ   
       (野口雨情「七つの子」)

   おうまのおやこは なかよしこよし 
   いつでもいっしょに
   ぽっくりぽっくりあるく   
       (林柳波「おうま」)

   揺籃のうたを、
   カナリヤが歌う、よ。
   ねんねこ、ねんねこ、
   ねんねこ、よ。   
       (北原白秋「揺籃のうた」)

   証、証、証城寺 
   証城寺の庭は 
   ツ、ツ、月夜だ
   皆出て来い来い来い
   己等の友達ア 
   ぽんぽこぽんのぽん   
       (野口雨情「証城寺の狸囃子」)

   ちいちいぱっぱ ちいぱっぱ 
   雀の学校の 先生は
   むちを振り振り ちいぱっぱ   
       (清水かつら「雀の学校」)

   月の沙漠を、はるばると
   旅の駱駝がゆきました。   
       (加藤まさを「月の沙漠」)

   かもめの水兵さん
   ならんだ水兵さん
   白い帽子 白いシャツ 白い服
   波にチャプチャプ 
   うかんでる    
       (武内俊子「かもめの水兵さん」)

   エッサ エッサ エッサホイ サッサ
   お猿のかごやだ ホイサッサ   
       (山上武夫「お猿のかごや」)

 泉鏡花、島木赤彦、島崎藤村、与謝野晶子、若山牧水も、童謡のための詩を書き、芥川龍之介、有島武郎は童話を書いた。鈴木三重吉から始まった「赤い鳥」運動は、まことに世界に類例のない児童文学運動だったのである。

    ※「虹の橋文芸サロン」の一篇として書かれたので「人のとなりに」に入れたが、
     「掌説うためいろ」に入れてもよい。

人のとなりに 狐の話

2015年10月12日 | エッセイ


 狐のことである。日本では古来狐は、五穀の神お稲荷様の使いとされ、良くも悪しくも霊力を持つ存在として、様々に物語られてきた。本物の狐は、野性の狐も動物園の狐も貧相で、みすぼらしい姿をしている。
 学生時代、地方都市の動物園でアルバイトをしていた。飼育係の助手である。動物たちが展示場に出ている間に獣舎の掃除をし、飼育係の方がバケツに用意したそれぞれの動物たちの餌を、リヤカーで獣舎に配って回るのである(白熊はリンゴとジャガイモが好物であった)。玖保キリコの傑作動物園漫画「バケツでごはん」は、まさにそのままである。
 動物たちは鼻がいい。彼等は展示場の柵外を歩く私の匂いを嗅ぎ分ける。
「こいつは餌を持ってきてくれる奴だ」…
 特に狐である。彼等は警戒心が強いと言われているが、私から決して眼を離さず、私が右に歩くと後を追うように動き、私が反転して左に歩くと狐も反転し左に動く(狐からすれば右だが)。遊びなのだろう。そんな狐が実に愛らしかった。

 狐は賢い。孤児となって祖父母に引き取られたインディアンの少年「リトル・トリー」は、作者フォレスト・カーターの少年期の思い出を小説とした名作である。その中に赤狐スリックが出てくる。
 スリックはけしかけられた猟犬に自分の後を追わせ、犬どもを嘲弄するように欺き、彼等を十分に引きつけるため一休みする余裕も見せる。「ふん、どうだ」と言いたげに、祖父やリトル・トリーの前に姿を現し、これ見よがしに休憩を取るのである。知恵比べでは野性の赤狐スリックの圧勝だ。狐は人間と犬を相手にゲームを楽しんでいるのである。

 大好きな狐の話に、「狐のチャランケ」がある。鮭が遡上する川に近い集落の家の中で、若者が寝ていると外で大きく呼ばわる声がした。
「みんな聴いてくれ、みんな俺の話を聴いてくれ!」…
 若者が外に出てみると、一匹の狐が、一人の男を悲しげな目で睨みながら叫んでいるのだった。集落の家々からも人々が顔を出した。
「みんな聴いてくれ! この男が川を浚うようにたくさんの鮭を捕っていた。俺がそのうちの一匹を盗むと、こいつは怒って神様に訴えたんだ。俺がもうここで暮らせないように、永久に追放してくれって。でも、みんな聴いてくれ! この川の鮭は、神様が、人間の分、羆の分、狐の分、シマフクロウの分って、数を数えて与えて下さったものだ。鮭はこいつだけの物じゃない。人間だけの物じゃない。みんな、こいつが神様に訴えたことを撤回するよう言ってやってくれ! 俺がずっとここで暮らせるよう、神様に訴えてくれ!」
 若者が男に言った。
「この狐の言うとおりだ、お前が間違っている」…
 チャランケとは、談判、訴え、ディベートのような意味らしい。アイヌに伝わる古い物語だ。ちなみに我が敬愛する漢字学者・白川静によれば、「歌ふ」は「訴ふ」であり、もともと神に「訴ふ」ことらしい。つまり祝詞は歌なのだ。

 池波正太郎に、狐が人間に憑依する話が二つある。一つは「剣客商売・第八巻・狐雨」で、もう一つが「鬼平犯科帳・第九巻」の、これも「狐雨」である。
 無外流の杉本道場は、先代道場主が一人息子の又太郎に
「決してわしの跡を継ごうとは思うな」
 と遺言したそうな。又太郎に剣客としての力量がないと見極めていたからだ。しかるに、又太郎は二千石の大身旗本松平修理之助の家臣を退身し、道場を継いでしまった。門人達にポンポン打ち込まれる程度の腕だったため、道場はたちまち寂れて閑散とした。虫の知らせか秋山大治諸が久しぶりに又太郎の道場を訪ねると、彼はまさに覆面の曲者に殺害される寸前だった。むろん大治諸が又太郎を救った。
 又太郎は旧主の養女小枝を、引っ攫って隠してしまったらしい。小枝は無体なことに、修理の養女の形をとって妾にされたのである。又太郎と小枝は愛し合っていた。そこで又太郎は小枝を連れ出し隠したのだ。こうして又太郎は松平修理の刺客どもに襲われたのである。
 その後又太郎が寛永寺の鬱蒼たる御料林で驟雨を避けていると、
「もし…もし」
 とこの世の者とは思えぬ女の声を聴いた。
「杉本様…又太郎様」
「誰だ、出て来い!」
「出ておりますが。あなた様には私の姿は見えませぬ」
「何?…」
「私めは、あなた様とわりない仲となられました小枝様に、大恩を受けた者にござりまする」…
 これがかつて少女時代の小枝に命を救ってもらった白い牝狐なのである。白狐はもはやこの世のものでない。この白狐が又太郎の身体の中に入ると、その神通力で彼は人が違ったような無敵の強さとなり、その後に襲ってきた五人の刺客どもをたちどころに撃ち倒すのである。
「アノ、これからが、大事でござります。私が、あなた様のお体に乗り移っていられるのは、足かけ三年の間でござります。…それまでに、アノ、あなた様は真に強い剣士にならねばなりませぬ。おわかりでございますか?」
「しっかりと御修行なさりませ。あなた様が御修行の折には、体内より抜け出しまする。あなた様が刺客と闘ったり、門人達に稽古をつけるときは、体内に戻りまする。…それとアノ、ナア…あなた様が小枝様と、アノ、ナア、睦まじゅうなさるおりは、体内から出ておりまする」
 こうして又太郎は、秋山大治諸の道場にやって来ては、猛烈な稽古を始めた。秋山小兵衛がその稽古を覗いた。
「はて、どうも、な…姿は見えぬのだが、道場の片隅に、何かが凝と蹲っているような。…何か、生き物の気配がな…」

「鬼平」の「狐雨」はこうである。盗賊改方の同心青木助五郎は、もともと前任の長官の組下同心であったが、平蔵が長官就任時に公儀に願い出て、筆頭与力の佐嶋忠介と共に平蔵の組下に編入してもらったのである。
 助五郎は確かに凄腕の警吏であったが、無口で陰気で単独で行動し、あまり評判の良い男ではなかった。陰で何をしているのか、盗賊たちとの関係も囁かれていた。
 助五郎は暗い少年期を送っていたという。彼の実父は早くに亡くなり、継父沖之助は病弱な上に癇癖が烈しかった。この父が徐々に狂い始めた。ある時目黒不動に参詣の帰り、林の中に見つけた野狐を追い回し、ついにその首を切って家に持ち帰り、鍋の中に入れた。それから間もなく発病し五日後に死んだ。
 晩春、盗賊改方の役宅に戻って来た青木助五郎の様子が明らかに怪しい。
「下郎! 下がりおろう! 当屋敷のあるじ、長谷川平蔵宣以(のぶため)はおるか。…下がれ、下がれ、下りおろう!」…
 青木は狂ったのである。
 彼は平蔵の書斎に入り、床の間に坐った。やがて戻った平蔵が
「当家のあるじ、長谷川平蔵でござる」
 と両手をつかえた。
「おお、宣以であるか。近う寄れ。近う、近う」…
 その声は狂い声である。その眼は人の眼ではない。妖怪の眼だ。
「よう聴け、よう聴け。去んぬる十六年前、青木助五郎の父、沖之助によって、われは殺害されたのじゃ。…目黒不動尊境内の稲荷の社に祀られたる亡き母の霊に見えんとせしが、その途中青木沖之助に追われ、この首を打ち落とされたのじゃ。…かくなる上は憎い沖之助の子、青木助五郎を取り殺し、われの恨みをはらすまでじゃ。なれど、その前に、助五郎めの行状を長谷川平蔵につたえんがため、かくは当屋敷へ参上いたしたのじゃ」
 こうして助五郎に取り憑いた天日狐は、助五郎本人の口からその悪行を述べ立てたのである。そして平蔵が抜き打った一刀で、天日狐の霊魂は助五郎の肉体から抜け落ちた。その後の取り調べで、天日狐が語った助五郎の悪行は全て事実であった。…「鬼平犯科帳」の魅力は、実はリアリズムである。その中で、この「狐雨」は実に不思議な事件なのであった。

 狐の童話で名高いのは、新美南吉の「ごん狐」である。「ごん狐」は童話としては、実に解釈の難しい作品である。
 以前「グレッグアーウィンの英語で歌う、日本の童謡」という童謡絵本に携わったおり、童謡唱歌の詩人や作曲家を調べたことがある。既存の解説では、同時代性の欠落、つまり想像力の欠落が気に入らず、その後も私は調べ続け、想像を逞しくし、「掌説うためいろ」として彼等の逸話を勝手に書いた。その中に「たきび」を作詞した巽聖歌がいる。それは「焚き火とごん狐のお話」とした。
 巽聖歌は新美南吉を弟のように可愛がっていた。さて「ごん狐」と巽聖歌の物語は別の機会としよう。

     フォレスト・カーター「リトル・トリー」(和田穹男訳 めるくまーる)
     池波正太郎「剣客商売」(新潮文庫)
     池波正太郎「鬼平犯科帳」(文春文庫)
     新美南吉「ごんぎつね」(絵・黒井健 偕成社)


  ※ 以前あるペット商品を扱う会社のホームページに、「虹の橋文芸サロン」という
    コーナーを設け、動物にちなんだ文芸作品を紹介がてら、エッセイを書き続けた。
    それを「人のとなりに」と題してひとつにまとめてみた。…ペットにせよ家畜に
    せよ、あるいは野生動物にせよ、古来いつも動物たちは人のとなりにいて、とも
    に生き続けてきたのである。