芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

掌説うためいろ 動物園悲話

2015年10月14日 | エッセイ

 暮れなずむ八月末の上野恩賜動物園である。園内で蝉がかしましく鳴きかわし、ますます暑苦しく思われた。
 象の担当飼育員・菅谷吉一郎と渋谷信吉は、痩せこけてふらふらになった牡象のジョンを見つめていた。ジョンも彼らを見た。優しく潤み、そしてどこか哀しく恨めしげな目である。ジョンはもう歩くことも難しいだろう、繋いだ鉄の鎖を外してやろうと菅谷は思った。
 ジョンは気の荒い象であった。鉄鎖は、動物園非常処置要綱が現実味を帯び始めた頃から、何事かを察したか、暴れるようになったジョンの前脚に取り付けられたのである。すでに絶食が始まってから十七日目になる。背と胸腹と尻に浮き出た骨が哀れだった。

 昭和十七年四月、帝都は初空襲を受けた。そのことから、動物園の動物の殺処分が検討され始めた。ひとつは人間様も食糧事情悪化という非常時である。そして空襲によって壊された檻から、猛獣が逃げ出すことを事前に防止することである。動物の危険度は四分類された。先ず殺処分すべき危険動物の第一種は、猛獣や毒蛇である。ライオンや熊、豹などと共に、象もその中に含まれていた。
 翌十八年七月一日、東京府は都制に移行した。上野の動物園も、東京都上野恩賜公園動物園が正式な名称となった。官選の初代東京都長官には、内務官僚の大達(おおだち)茂雄が就任した。
 昭和十七年二月、日本軍は四万人とも言われる昭南(シンガポール)華僑大虐殺の暴挙を犯した。その翌三月、大達は昭南市長兼陸軍軍司政長官になった男であった。大達は東京都長官に就くと、学童疎開と御真影疎開の実施を策定した。翌八月、上野と井の頭の動物園に動物処分命令を発し、一月以内に行うよう下達した。方法は硝酸ストリキニーネや青酸カリによる毒殺である。

 昭和十二年、上野動物園に園長制が導入されたとき、初代園長に就任したのは古賀忠道である。彼は日本軍政監獣医事業部司政官として、上野に派遣されたのである。その古賀が応召し、上野で飼育員二十年の福田三郎が園長代理を務めることになった。
 福田は以前から密かに恐れていた動物処分命令に苦悩した。福田が獣舎を見回ると、動物たちは甘えるように近寄ってくる。彼は動物たちの黒目がちの目を避けるようになった。
 福田らは地方の動物園に、二頭の豹やジョンを除く二頭の牝象トンキーとワンリー(花子)の疎開を打診していた。しかし大達長官の命令は、一月以内に殺処分を完了せよとの督促であった。やむなく福田は飼育員等を集め、第一種動物の殺処分を伝えるとともに、箝口令を布いた。家族にも言ってはならないと厳命した。殺処分は閉園後に行われることになった。
 先ず、二頭の熊に硝酸ストリキニーネを混ぜた好物のサツマイモが与えられた。熊はしばらく悶絶した後に息絶えた。その様子に飼育員らは胸をつまらせた。翌日はライオンと豹も処分された。
 象のジョンにも好物のジャガイモに毒を混ぜて与えたが、ジョンは毒入りのジャガイモだけを選り分け、これを食べなかった。象の皮には注射針も通らなかった。彼らはジョンを餓死させることにした。こうしてジョンの絶食が始まったのである。普通ならあと二十年は生きるであろうジョンであった。

 福田も菅谷も渋谷も、何とかトンキーとワンリーを助けてあげたいと思っていた。トンキーは人間で言えば女盛りの歳頃である。ワンリーはまだずっと若かった。子象のワンリーがタイから上野動物園にやって来た時、南国風の彩り鮮やかな花の冠と花のレイで飾られ、美麗な刺繍布を背中にかけられて、音楽隊とともに行進して入園した。子どもたちが沿道で小旗を振り、歓声で彼女を出迎えたものである。そうしてワンリーは子どもたちによって花子と名付けられたのだ。
 福田らに朗報が届いた。仙台市動物園が象を引き取りたいというのである。彼らは急ぎ象の移動方法を段取った。田端駅操車場の貨物ホームから積み込むことも決めた。後は大達長官の許可を取るばかりである。ところが大達はこれを厳しく叱責し、いっさいの例外を認めなかった。福田等は落胆した。やむを得ない。彼らはトンキーとワンリーも餓死させることにした。
 
 その時、ジョンは鼻を高く持ち上げると、まるで霧笛のような鳴き声をあげた。そして崩れるように横倒しになった。その末期の鳴き声は、隣の象舎にいるトンキーやワンリーへの永訣の声であったのだろう。トンキーとワンリーも哀しげに鳴いた。
 福田三郎はジョンが絶命したと聞き、息を切らしながら丸い体を象舎に走らせた。飼育員の菅谷吉一郎と渋谷信吉が、倒れたジョンを見つめながら唇を噛みしめていた。 
 見開かれたままのジョンの目が福田を見つめているようだった。その目の縁にこびりついた目ヤニは、ジョンの涙が乾いたものだったのだろう。ジョンの足元に、どこからか飛び落ちてきた蝉が、腹を見せたままジジジと鳴いて一回転し、そのまま動かなくなった。
 第一種に分類された危険猛獣類は、トンキーとワンリーの二頭を除いて完了した。九月二日に猛獣類の殺処分が公表され、四日の日に死んだ動物たちの慰霊法要が行われることになり、上野動物園の入口には葬祭用の鯨幕が張られた。
 團伊玖磨は東京音楽学校への通学途次、鯨幕と「戦時殉難動物慰霊祭」の看板の前を歩きながら、強い憤りを覚えた。全く人間ほど身勝手な動物はいない。ライオンも熊も虎も象も殺されたという。以前から、動物たちが殺されているという噂は聞いていたが、あらためて彼らの死が哀しく、胸が締めつけられた。

 象のトンキーとワンリーはまだ生きていた。飼育員の菅谷吉一郎がこっそり水と少しばかりの餌を与えていたのである。しかし二頭も骨と皮ばかりになっていった。やがて完全な絶食が始まった。
 二頭は飼育員の菅谷や渋谷の姿を見ると、お互いもたれかかり支え合うように、ふらふらと立ち上がった。そして片脚で立ってポーズをとった。そして
「ねえ、上手にできたでしょう。ご褒美に何か食べ物をくださいな」
 と言うように、二人の飼育員らを見た。さらに後ろ脚を上げ、衰弱しぶるぶる震える前脚で逆立ちの姿勢をとった。しかしトンキーもワンリーも、後ろ脚は片方しか上がらなかった。でも、
「ねえ、上手いでしょう。ご褒美をくださいな」
 と食べ物をせがんだ。続いてお尻をついて座って見せたり、鼻を高々と上げ、二本の前脚でバンザイのポーズをして見せた。トンキーもワンリーも、芸をすれば食べ物がもらえると思っているのだ。それを見た福田は小太りの身体を震わせ、
「花子、トンキー…ごめん、ごめんな。もういい、もういい」
 と泣いた。菅谷は慟哭した。渋谷は嗚咽を噛み殺した。
 その後もトンキーとワンリーは二人の飼育員の姿を見つけると、衰弱でふらふらになりながら立ち上がり、彼らに必死の芸当を見せた。
 九月十一日、ワンリーが倒れたまま全く動かなくなった。トンキーが鼻でワンリーの体をさすっていたわっていた。ワンリーが象舎から運び出されると、トンキーは今まで聞いたこともないような、か細い声を出し続けた。その十二日後、トンキーもついに倒れた。

 二年後、戦争は終わった。上野動物園にはほとんど動物がいなくなっていた。渋谷信吉は全く飲めなかった酒を飲むようになった。やりきれなかったのだ。すぐに酔って「もう戦争なんか嫌だ」と呻き、吐き、翌日は頭痛に悩まされた。菅谷吉一郎は、以来つらい罪悪感を抱き続けていた。ジョンの悲しい目や、トンキーやワンリーの必死の姿が去来し続けた。福田三郎は薬殺した猛獣たちや、餓死させた象の夢を見ては、布団の中で藻掻いたことが何度もあった。
 上野動物園園長に復帰した古賀忠道は、「動物園は平和の象徴」だと言い、食糧難と資金難の中、動物園の復興に取り組み始めた。
 ちなみに大達茂雄は、後に第五次吉田内閣で文部大臣に就いている。この時から、文部行政は再び右に旋回した。
 
 終戦から四年後の二十四年九月に、上野動物園に再びタイから子象が贈られて来ることになった。「花子」と呼ばれていたワンリーや、トンキーが死んでから、ちょうど六年の歳月が経っていた。その子象はワンリーと同じ「ハナコ」と名付けられた。彼女はきれいな花飾りを掛けられ、子どもたちの歓声で迎えられた。
 続いてインドのネール首相が、本物の象を見たことがない日本の子どもたちが描いた「ぞう」の絵と手紙に心を揺さぶられ、自分の娘と同じ「インディラ」と名をつけた子象を贈ってくれた。インディラも華やかに飾られてお披露目された。ハナコとインディラは、平和と友好の象徴として各地を巡回し、子どもたちを喜ばせた。その後ハナコは井の頭の動物園に移っていった。

 昭和二十六年、戦前から童謡の詩人として知られていた〈まど・みちお〉に、幼児教育家の酒田富治が幼児向けの詞を書くよう促した。まどは台湾で徴兵され、南方から復員すると工場の警備員などで糊口をしのいだ。その頃は知人に紹介されて児童雑誌の編集の仕事に就いていた。貧しく、生き延びるのに必死だった。
 酒田に作詞を督促されたまどは、一枚の葉書に六編の詩をびっしりと書き込んで投函した。虫眼鏡が必要なほど小さな字である。まるで「ありさん」が書いた詩集のようではないか。彼が酒田富治に送った詞の中に、「ぞうさん」があった。
 酒田は「ぞうさん」に自ら曲をつけた。童謡や童話作家の佐藤義美がその歌を聴き、「うーん、この詞と曲が合っていないよ。愛くるしい良い詩なのにもったいない」
と言った。酒田はしきりに頭を掻いた。佐藤は
「よし、ぼくが何とかしよう」
 と言って、その詞をNHKに持ち込んだのは翌年のことである。ちなみに佐藤は後に「いぬのおまわりさん」の作詞で知られる。
 そのころ團伊玖磨は、NHK専属の新進作曲家として地歩を固めていた。まどの「ぞうさん」の詞は團の目にとまった。彼は九年前の初秋、上野動物園の入口に設けられた葬式用の幕と「戦時殉難動物慰霊祭」の看板や、それを目にしたときの胸の痛みを思い出した。
 團の中で「ぞうさん」のメロディはすぐに浮かんだ。「ぞうさん」はNHKのラジオで流されると、すぐに全国の幼童たちに歌われるようになった。

   ぞうさん
   ぞうさん
   おはなが ながいのね
   そうよ
   かあさんも ながいのよ

   ぞうさん
   ぞうさん
   だれが すきなの
   あのね
   かあさんが すきなのよ

 上野のインディラの象舎の前で、團は東京放送児童合唱団の子どもたちにタクトを振って「ぞうさん」を初演した。それは母象にぴったりと寄り添う、愛くるしい子象の姿を歌ったものである。團と合唱の子どもたちは、その歌を何度も何度も繰り返した。するとインディラがその三拍子のゆったりとしたリズムに合わせるように、身体を左右に揺すり始めた。そして高々と鼻を上げて笑ったような表情を見せた。
 福田三郎も菅谷吉一郎も渋谷信吉も微笑んだ。彼らの脳裏にジョンやワンリーやトンキーが浮かんだ。やんちゃで、きかん気だったジョン、素直で優しかったトンキー、甘えん坊で愛らしかったワンリー。ジョンの断末魔の声が耳朶によみがえった。必死に芸当を見せるトンキーとワンリーが、
「ねえ、上手にできたでしょう。ねえ、ご褒美に食べ物をくださいな」
 と彼らに訴え、哀願する目を思い出した。胸にこみ上げるものがあり、彼らはそっと涙ぐんだ。

 象は楽しそうに身体を揺すり、嬉しそうに高々と鼻を上げた。子供たちは歓声をあげ、口々に「インディラ~」と象の名を呼んだ。
                              

光陰、馬のごとし テスコガビー

2015年10月14日 | 競馬エッセイ

 間もなく日本の第70回オークスである。ダービーもオークスも英国に発祥する。オークスは1780年に創始されたダービーより一年早く始められた。創設者は第12代ダービー伯である。ダービー伯の別荘に樫(オーク)の巨木が繁り、樫の館、オーク屋敷と呼ばれていたことから、レース名はオークスと名付けられた。スピードとスタミナを要求される1マイル半で、3歳牝馬のナンバーワンが競われる。
 第1回の優勝馬はブリジッドといい、ダービー伯の馬であった。気を良くした彼は、競馬仲間のバンベリー伯に、1マイル(後に1マイル半になった)で最強三歳馬を決するレースの創設をもちかけた。レース名はコイントスで表が出ればダービー、裏が出ればバンベリーにすることにした。第1回ダービーはバンベリー伯のダイオメドが勝った。
 私の日本のオークスの記憶は第33回のレースからである。その時の優勝馬タケフブキは、そんなに強い馬とも思えなかった。やがて彼女の半弟タケホープが、ダービーと菊花賞でハイセイコーを負かした。良血馬だったのである。オークス優勝馬が単純に最強牝馬というわけではない。近年で言えば、桜花賞馬のダイワスカーレットや、桜花賞で彼女に敗れた後オークスを蹴って64年ぶりに牝馬のダービー馬となったウォッカは最強牝馬に値する。この同年生まれの二頭は、他の年度の牝馬と比較しても突出して強い。
 突出して強かった牝馬を何頭か挙げるとすれば、私はテスコガビー、リニアクイン、テンモン、メジロラモーヌ、エアグルーヴ、シーザリオ等の名を推したい。リニアクインはレースを目撃した際の印象の強烈さが脳裏にあるが、彼女はまたよく負けもした。ハードリドンの血は底力があると同時に、実に気まぐれなのである。シーザリオはアメリカン・オークス招待レースにも勝った御祝儀である。他にも強いという印象を持っているのはマックスビューティ、ヒシアマゾン、ベガ等がいるが、いずれも古馬となってから精彩を欠いた。またスティルインラブ、カワカミプリンセス等もいるが、彼女らも古馬となってから失速した。牝馬の闘争心は、ほぼ一年余りで燃え尽きるものと思われる。記録的には戦前のクリフジが、日本競馬史上、最強の牝馬と言えるだろう。クリフジはダービー、オークス、菊花賞を勝ち、11戦無敗で引退している。
 クリフジを例外とすれば、史上最強牝馬は桜花賞と第36回オークスを勝ったテスコガビーだろう。テスコガビーは静内の福岡巌牧場で生まれた。小さな牧場で、その年に生まれたのは 牝馬ばかり、たったの三頭だけだった。母のキタノリュウはたった1勝をあげただけの二流馬で、キーンドラー系という二流母系だった。母の父は狂気の馬、不吉な馬と言われたモンタヴァルである。モンタヴァルはフランス産でエプソムダービー二着、 キングジョージ&クィーンエリザベス・ステークス優勝の一流競走馬だったが、身喰いをする狂癖があり、そのため日本に売られたのである。モンタヴァルの半弟ムーティエも身喰いの狂癖があった。
 福岡巌牧場にテスコボーイの交配権が当たり、キタノリュウにかけられて彼女が誕生した。その子は骨格もがっしりとした漆黒の青毛で、堂々として落ち着きがあり、驚くことがなく、母馬に甘えることも少ない馬だったという。母馬から離れて走り回る 姿から、身体も柔らかく、俊敏であることもわかった。彼女の噂はあっという間に静内中に広がった。誰が見ても絶賛した。そして誰もが牡駒だと勘違いした。
 何人かの調教師が彼女を見に来た。みな「これは凄い」と言った。まだ海のものとも山のものとも知れぬ生後三ヶ月の子馬である。仲住芳雄調教師も見にやってきた。彼は一目見て「いただきましょう」と言った。その後しばらく惚れ惚れと眺めていた仲住師は、はじめて牝馬だと気づいた。牡駒だとばかり思っていたのである。
 不動産会社を経営する長島忠雄が馬主となった。彼の隣家にシャーチというスイス人の貿易商が住んでいて、そこにガビエル(ガブリエル)という女の子がいた。家族ぐるみの付き合いで、みな彼女をガビーちゃんと呼んだ。こうして長島の馬はテスコガビーと名付けられた。
 テスコガビーは青森の明神牧場で育成調教を受けた。彼女はどんな馬より図抜けて素晴らしかった。2歳春に東京競馬場に入厩するとたちまち評判となった。厩舎で見て垂涎し、調教を見て感嘆した。彼女は九月に東京競馬場でデビューした。鞍上に茂木為二郎厩舎所属の菅原泰夫騎手が乗ることになった。菅原は上手い騎手なのだが、これといった有力馬に恵まれることなく、実に地味な中堅騎手であった。宮城県生まれの純情朴直な菅原は、周囲からもファンからもヤッさんの名前で親しまれた。菅原はテスコガビーに跨った時、これでクラシックが獲れるかも知れないと思った。500キロの漆黒の青毛は素晴らしかった。
 デビュー戦は7馬身差の圧勝。「凄いですね」と菅原が言うと仲住師も大きく頷いた。2勝目を上げ、3戦目も6馬身差のレコード勝ちである。「肝のすわった牝馬だ」と誰かが評した。年が明けた京成杯四歳Sも牡馬のクラシック候補イシノマサルをあっさりと片づけて4連勝した。
 彼女は逃げ馬ではない。天性のスピード、絶対スピードで自然に先頭に立ち、直線でまた伸びるのである。いつも落ち着き払い、おとなしく、聡明で気性が良く、気品に満ちた、輝く漆黒の、堂々たる馬格の乙女だった。
 阪神の桜花賞に行く前に、仲住師は東京四歳Sを使うと言った。菅原は悩んだ。彼はこの時、茂木厩舎のカブラヤオーにも乗っていた。カブラヤオーはデビュー戦で2着した後は圧勝で3連勝し、この同じレースに出走を予定していた。茂木師は菅原の悩みを見抜いた。
「お前はガビーに乗らせてもらえ。今回はカブラヤオーは(菅野)澄男を乗せる」と言った。
「先生、すみません。そうさせてください」と菅原は頭を下げた。菅原は茂木厩舎の主戦騎手である。カブラヤオーに一時的に弟弟子の菅野が乗っても、皐月賞やダービーでは主戦騎手の自分が乗ることになるだろう。ところが他厩舎のテスコガビーを一度手放したら、有力な騎手に乗り替わって二度と菅原に戻ってこないだろう。
 テスコガビーとカブラヤオーの対決は、まさに夢の対決であった。二頭とも先行タイプである。菅原は菅野のカブラヤオーを先に行かせた。直線カブラヤオーが大きくよれて、危うくガビーにぶつかりそうになった。それから二頭の追い合いになり、インからテキサスシチーが迫った。結果はカブラヤオーが首差テスコガビーを押さえた。
 西下したガビーは阪神四歳牝馬特別をレコード勝ちした。例年なら桜花賞出走馬の半数近くを関東馬が占めるが、この年は出張馬が激減した。ガビーに負けると分かっていて出張する気にはなれなかったのだ。
 ガビーは桜花賞を大差でレースレコードで優勝した。関西テレビの杉本清は「後ろからは何も来ない! 後ろからは何も来ない!」と絶叫した。この時のタイムはしばらく破られず、また桜花賞で10馬身以上の差で勝った馬はいまだにガビーだけである。
 東京に戻ったガビーは体調を落とした。仲住師は4歳牝馬特別を使わず、体調を戻そうと考えていた。ところが馬主が4歳牝特にどうしても出したいと言い張った。そのレースでガビーは精彩を欠き三着に敗れた。その後オークスに向けてテスコガビーは再び充実し、闘志を漲らせた。オークスはガビーが自然と先頭に立ち、超スローペースで逃げた。直線に向くとガビーは加速した。ぐんぐんと後続馬を離し、8馬身差で圧勝した。ガビーにはモンタヴァルから受け継いだスタミナもあった。菅原は「テンよし、中よし、終いよし。全ての面で超一流です」と彼女を讃えた。その春、地味な騎手・菅原はカブラヤオーで皐月賞とダービーも圧勝し、春のクラシック四戦を総ナメにした。菅原はこの年から一流騎手の仲間入りをした。
 秋になってテスコガビーは、菊花賞かビクトリアカップを目指して調教していたが、ゲート練習中に後肢を負傷した。その怪我が治った頃、再び右後肢を捻挫してしまった。彼女はそのまま休養に入り、翌年の五月に復帰した。しかし六着に敗れた上、再び脚を痛めてしまった。仲住師はガビーをいったん明神牧場に戻した。彼は引退させようと思っていた。「ガビーの子でダービーを勝ちたい」と周囲にもらした。 長島オーナーが現役続行を強く主張した。ガビーなら有馬記念でも天皇賞でも勝てる。
 ガビーは復帰に向けて明神牧場でトレーニングを開始した。雪も舞い始めた秋の日、牧場を走り回っていたガビーが突然前のめりに倒れた。牧場のスタッフはガビーが骨折したのだと思い、青ざめて駆け寄った。彼女はすでに事切れていた。心臓麻痺だったのである。ガビーの遺体を長島オーナーは引き取りに来なかった。牧場スタッフが牧場の一角に埋葬し、目立たぬほどの小さな墓を置いた。数日後に長島オーナーが経営する不動産会社の倒産が伝えられた。モンタヴァルの血はやはり不吉だったのか。
 テスコガビーは、数多のテスコボーイ産駒の中でも、牝馬ながら一番テスコボーイに似ていたという。競馬評論家の大川慶次郎はテスコガビーを「バケモノ」と評した。他の評論家は「アマゾネス」と評した。またある人は「グラマーな美女」と言った。レースではいつも覆面(メンコ)を付けていたが、メンコをはずすと気性の良い可憐な馬だったという。血統評論家の白井透は「一滴でもよいからテスコガビーの血を残したかった」と、その死を惜しんだ。

           (この一文は2009年5月19日に書かれたものです。)
                 「光陰、馬のごとし1」に所収
                 


光陰、馬のごとし カツラノハイセイコ

2015年10月14日 | 競馬エッセイ

 時の経つのは実に早いものだ。カツラノハイセイコは今から30年前のダービー馬である。ハイセイコーの初年度産駒であった。
 あちこちの牧場でハイセイコーの子が誕生した時、関係者は一様に落胆したという。皮膚が厚く、首が太く、ただ大柄な気品に欠けた子だったり、雄大な馬格を誇った父に似ず、小柄で貧弱な子が多かったからである。これはおそらく、小柄な母馬の欠点をカバーしようとハイセイコーをかけたところ、母親似が出ただけなのだ。いずれにしても、サラブレッドの優雅さや走る馬に共通し て見られる特長は持ち合わせていなかった。生産界のハイセイコー評価は一挙に下落した。そもそもハイセイコーは皮膚が厚く、首が太く、管囲(脚部の最も細い部位)が太く(だから脚部不安と無縁だった)、いささか優雅さや気品に欠けていたのだが。
 カツラノハイセイコは鮫川牧場で生まれた。母コウイチスタアは、さしたる種牡馬実績もない長距離馬ジャヴリンの娘で、不受胎が続き、今度不受胎の場合は食肉にされるところだった。馬名は馬主の社名である桂土地から付けられた。父ハイセイコーに似た点は、黒鹿毛ときつそうな性格だけであった。馬体はハイセイコーに似ず小さく貧弱で、首差しも細かった。彼はほとんど期待されず、栗東の庄野穂積厩舎に入った。
 この馬の購入を決め、馬主に勧めた庄野師だったが、入厩したハイセイコを見て落胆した。牧場で見た時から、あまり成長しておらず、馬体が大きく変化した様子が見られなかったからである。
 師は一勝でもできれば上出来だろうと思った。だからあまり熱心に調教しなかったのだろう。彼はデビュー時の馬体重が現役時代で最も重く、480キロ近くあった。明らかに太かったのだ。デビューから3戦は作田誠二騎手が乗り、いずれも人気より上の着順で入ったが、連敗した。レースが調教代わりとなって、馬体は450キロ台までが絞れたが、本当はあと10キロ軽い馬なのである。
 4戦目の未勝利戦で福永洋一が乗り、あっさりと勝った。その後2戦は福永、作田と乗って惜敗した。年が明けた呉竹賞で再び福永が乗り2勝目を上げた。検量所に引き揚げて来た福永は「今年、この馬が一番強いんちゃうか」と担当厩務員に囁いた。未勝利戦と、いま特別戦を勝ったばかりのわずか2勝馬への天才騎手の評価であった。福永はクラシック戦線で、服部厩舎の良血馬ニホンピロポリシーに騎乗することが決まっていたため、次走から武田文吾厩舎の大先輩・松本善登が騎乗することになった。
 禍福はどこにあるか分からない。福永はその後のレース事故で植物人間となってしまったのだ。松本は不遇な人である。武田厩舎には天才と呼ばれた栗田勝が主戦騎手として君臨していた。松本は常にその控え騎手であった。栗田はシンザンの出走をめぐって武田師と衝突し、深酒を続けた挙げ句、シンザン最後のレース有馬記念を棒に振った。その代打として騎乗したのが松本だった。
 この有馬記念の直線は日本競馬史上最も劇的なものであった。松本とシンザンは加賀騎手のミハルカスを振り切って勝ち、五冠馬となった。松本は下手な騎手ではない。調教での騎乗技術は高く評価されていたが、レースでの騎乗は 栗田に回るのである。しかし松本は腐らず「仏の善さん」と皆から慕われていた。栗田に衰えが見えはじめた頃、武田厩舎に福永洋一が入り、彼はたちまち天才騎手として頭角を現した(※)。松本はまた福永の控え騎手に甘んじた。そしていつしか松本は現役最年長騎手になっていたのである。
 (※)武田師は天才と呼ばれた栗田と福永の比較を尋ねられ、「栗田の方が何割も上だよ」と言った。
 カツラノハイセイコは松本を背に激しいレースをした。細い首を鶴ッ首にして目を血走らせ、チャカチャカとイレ込み、股は汗で真っ白な塩をふいた。胴は牝馬のように細く巻き上がり、あばら骨が浮き出し一見ガレているかのようである。蹴り癖があるため尾に要注意の標として赤いリボンが付けられていた。馬体重は430~440キ ロ台である。実はこれが彼のベスト体重であった。レースでは横に来た馬には絶対抜かせず、僅かな間隙を割って前の馬に襲いかかる。まるで馬群を切り裂くような進出の仕方である。
 皐月賞はビンゴガルーとゴールまで激しく競り合い、頭差及ばぬ2着だった。 ダービーは1番人気になったが、これはたぶんに父ハイセイコーファンの心情馬券を集めたものである。レースは激しいもので、直線、抜け出しながら斜行したテルテンリュウの500キロの馬体に弾き飛ばされ、その不利を受けたリキアイオーが沈む中踏ん張って先頭に抜け出し、テルテンリュウのあおりを受けたリンドプルバンの猛追を鼻差かわして優勝した。
 松本は45歳11ヶ月の、日本ダービー史上最年長優勝騎手になったのである。騎手となって25年、控え騎手松本善登のクラシック初制覇だった。しかしこの頃から、松本の身体に異変が起こっていた。
 秋、ハイセイコは熱発で体調を崩し、京都新聞杯を大敗した。さらに脚部不安と肺炎で、一年近くの長期休養を余儀なくされた。松本の体調も思わしくない。古馬となって復帰してきたハイセイコの鞍上は河内洋になった。肺に癌が見つかった松本が闘病生活に入ったからである。河内は福永洋一去った後に台頭した関西の「乗れる騎手」である。話を割愛する。
 ハイセイコは実が入って馬体重も460キロ前後になっており、目黒記念を鮮やかに強い勝ち方をして見せた。ところが肝心の天皇賞では不良馬場の中、牝馬のプリティキャストに大逃げをうたれ、ホウヨウボーイと牽制し合う間にまんまと逃げ切られて、泥だらけの6着という惨敗に終わった。次の有馬記念はホウヨウボーイに鼻差(僅か1センチ)の2着に泣いた。
 翌年、マイラーズCを最後方から馬群を切り裂いて優勝。今は亡き名騎手・名調教師の野平祐二をして「いま日本で一番素軽い馬」と感歎させたのである。続く不良馬場の大阪杯はゲート内で暴れ鼻出血し六着に惨敗。ハイセイコーの子に似ず、重馬場は嫌いだったのだろう。目標の春の天皇賞は、当日の朝に馬房で大暴れした挙げ句、壁板で尻を擦りむき、カンカン(馬体重を計る秤)の上でも大暴れしたという。彼は尻に赤チンを塗って登場した。2番人気に押されたが、関係者は一様に諦めていたという。レース前にそんな大暴れした馬が勝てるわけがなかった。しかし馬群を割って先頭に立つと、カツアー ルを押さえ込んで優勝した。強い勝ち方だった。続く宝塚記念は後方から馬群を切り裂いて飛んできたが、カツアールに届かなかった。この後再び体調を崩し、秋も深まった11月、引退していったのである。ともあれカツラノハイセイコは、父が超えられなかった距離2400メートル以上の大レースを二つ制覇したのだ。そしてハイセ イコが引退してから一月後、松本善登も48歳の生涯を閉じた。
 2000年になって、河内洋は宿願のダービーをアグネスフライトで制覇した。そして2003年2月に30年の騎手生活にピリオドを打った。通算勝利度数2111勝。まさに名人芸の職人だった。彼の記者会見が行われた。記者たちは「一番思い出に残る馬は何ですか?」と質問した。記者たちは河内の答えを予想していた。初勝利の馬か、メジロラモーヌか、ダービー優勝馬の名を挙げるだろう。しかし河内は「カツラノハイセイコです」と即答した。記者たちは意表をつかれた。「どうしてですか?」と質問が飛んだ。河内は独り言のように言った。
「あの馬は恐かったよ。ほんまに恐ろしい馬やった。あの馬はいつも怒ってたよ」
 記者の質問が続いた。「一番印象に残っているレースは何ですか?」…記者たちは当然アグネスフライトのダービーという答えを予想していた。河内は答えた。
「カツラノハイセイコで負けた有馬記念だね。あれは悔しかった。あれは僕の騎乗ミスやったんや。僕のせいで、ハイセイコをグランプリホースにさせてやれへんかったんや…あれが今でも一番悔しい…」
 河内がカツラノハイセイコを「恐ろしい」と言った理由は、レース映像を見ると分かる。横に馬がいればカーっとなって競り合いに応じ、決して引くことはない。それは勝負根性と言われる。ハイセイコは直線に向いた馬群の中で、わずか4、50センチの間隙でも見つけると、騎手の意志や指示など無視して、その間に自ら割って突き進むような馬だったという。騎手にとって、これほど恐ろしいことはない。そしてハイセイコは、ゲート内で暴れ鼻をしたたかに打ちつけ、馬房で暴れて羽目板を蹴り破り、カンカンの上で暴れて尻餅をつき、とにかくいつも怒っていた恐ろしい馬だったのだ。

        (この一文は2009年4月20日に書かれたものです。)
            「光陰、馬のごとし1」に所収