芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

光陰、馬のごとし 香具師の血統論

2015年10月09日 | 競馬エッセイ
     

 ハイセイコーが日本ダービーで3着に敗れてから一週間ほどたった頃、私は川崎駅前の地下道でハイセイコーの名前を耳にした。現在はすっかり様変わりしているが、サイカ屋の店頭に出る、どこか薄暗く汚い地下通路だった。

 声の主は潰した段ボールをゴザ代わりにし、同じく潰した段ボールを何枚も通路の壁に立て掛け、何やら色々な紙を貼り付けて黒板代わりにしていた。男は初老の、予想屋のオジサンと思われた。一人の男が彼の前にしゃがみ込み、もう一人の男は腕組みをして微笑みながら立っていた。
「だから私はハイセイコーは負けると言った!」パパンパンパン!
 そのオジサンは段ボールで作った手製の張り扇で路面を叩いた。その音は地下通路に反響した。…私も入れてオジサンの聴衆は三人となった。
「私がなぜハイセイコーは負けると言ったのか…」
 オジサンは私を見た。私は頷いていた。
「いいかい、ハイセイコーのお父っあんはチャイナロックだ。チャイナロックの子どもたちを知ってるかい。先ずは元祖怪物、天皇賞馬タケシバオーだ。そして天皇賞馬がもう一頭、メジロタイヨウを思い出しとくれ。ご存知天皇賞は3200の長丁場。…そして忘れちゃいけない淀の長距離3000メートル、あの野武士と呼ばれた菊花賞馬アカネテンリュウもチャイナロックの孝行息子だ!」パパンパンパン!
「そうよ兄さんチャイナロックはステイヤーだ」パパンパン!
「だけどハイセイコーも兄さんも、おっ母さんがいなけりゃこの世にゃ生まれないのは理の当然、当たりマエダのなんとやら」パンパパンパン!
「ハイセイコーのおっ母さんはハイユウだ。ハイユウのお父っあんはカリムだよ。そうよ桜花賞馬の快速タマミが代表的なカリムの娘。だけどカリムがヨーロッパに残した子どもたちは皆1400メートルまでしか勝てない短距離馬よ。カリム自身も1400が最も得意な距離だった」…
「いいかい、チャイナロックの得意な距離を3000とする、そしてカリムを1400とする。兄さん算数得意かい。足して二で割ったら幾つだい。…そうよ兄さんあんたはエライ、学がある。足して二で割りゃ2200よ」パパンパン!
「だから私はハイセイコーは負けると言った!」パパンパンパンパン!
「皐月賞は2000メートル、ダービートライアルのNHK杯も2000メートル、 だからハイセイコーは勝てたのよ」パパンパン!
「しかし東京優駿、通称日本ダービーは2400!」パンパパン!
「ここだよ兄さん、だから私はハイセイコーは負けると言った!」パパンパンパン!
 
 もちろんその後に私は、血統とその馬の最適距離、限界距離はそんな単純なものではないと知るのだが…、その当時、競馬歴二年の私は、ソーなんだアと妙な感銘を受けてしまったのだ。その時以来、私は俄然サラブレッドの血統というものに強い興味を抱いてしまったのである。  
 オジサンの話は、間に入る手製の段ボールの張り扇と共に、リズムと、そこはかとないユーモアに溢れて地下通路にこだました。私はオジサンの香具師(やし)のような口上に、言いしれぬ郷愁と感動を覚えていた。それは初老の少し嗄れ声のフーテンの寅さんを思い浮かべてもらえばよいだろう。オジサンの口上は香具師のタク売そのものだった。  
 ひとくさりの口上が済むと、オジサンは私たち三人の聴衆に、オジサン手製の「現役馬血統解説」という本を勧めた。私は買わなかった。もうそれが幾らだったか忘れたが、私には持ち合わせがなかったのである。  
 でもオジサン、楽しかった。オジサン、私はあなたの口上をうまく再現できないことを残念に思う。
 
 ちなみにその年ハイセイコーは距離3000メートルの菊花賞を鼻差で敗れ、2500の有馬記念は3着に敗れた。翌年2500のアメリカJCCは10頭立ての9着に沈んだ。もはや彼に与えられていた怪物の名は地に墜ちていた。次の1800の中山記念は2着馬が見えない大差のぶっちぎり勝ちをして見せ、3200の天皇賞は再び6着に沈んだ。  
 彼は常に1番人気で走っていた。しかしもう誰もハイセイコーには幻想を抱かなかった。距離2200の宝塚記念、彼は初めて2番人気に甘んじた。この日ハイセイコーは、それまでのレコードを2秒1短縮する驚異的日本レコードをマークし、2着馬を5馬身差に置き去りにした。  
 その後も2200メートル以内なら強い勝ち方をし、2400メートル以上では勝てなかった。ハイセイコーに関しては、オジサンの「お父っあんとおっ母さんの最適距離を、足して二で割る血統論」は正しかったのである。  
 オジサン、あの名調子、本当に楽しかったよ。


             (「光陰、馬のごとし2」に所収)
                   

光陰、馬のごとし 奇跡の子になれ

2015年10月09日 | 競馬エッセイ

 2013年夏、トウカイテイオーが死んだ。二十五歳の大往生である。そして今年の2014年、トウカイテイオーの最後の産駒が二頭誕生した。
 一頭は、びらとり牧場生産の4月10日生まれの黒鹿毛の牝駒で、「トウカイパステルの2014」として登録された。もう一頭は、遊馬ランドグラスホッパー生産の7月3日生まれの鹿毛の牡駒で「キセキノサイクロンの2014」として登録された。
 
 トウカイパステルは中央競馬、栗東の中村均厩舎に入った。なにせ父はかのサンデーサイレンス、母の父はマルゼンスキーである。
 この馬、23戦1勝の成績だが、実は25回レースに臨んで二度も発走を除外された記録がある。激しくイレ込み、ゲート入りを嫌ったものであろう。
 バステルは何故か芝の短・中距離を走っているが、その記録を見ると、サンデーサイレンスやマルゼンスキーのスピードは受け継いでいない。牝系の血統にファラモンドが入っていること等から推測するに、スピードに欠けている嫌いがあり、力馬のほうだろう。芝よりダート向き、そして短距離より中長距離向きだったのではなかろうか。その牝系の成績も不振で、二流である。
「トウカイパステルの2014」は、トウカイテイオーと同じ内村正則氏の所有馬だから、競走馬として中央か地方競馬からデビューするだろう。あるいは母の父としてのトウカイテイオーに期待して、未出走のまま繁殖入りするかも知れない。

 2003年(平成15年)、8月3日にフィリピン東海上に発生した熱帯低気圧は、巨大な勢力に発達して、7日に沖縄本島に上陸、8日に室戸市、9日に西宮市に再上陸し、衰えぬまま本州を縦断、10日に襟裳岬に再々上陸した。鵡川、沙流川、厚別川、十勝川が氾濫し、農作物や家屋を押し流した。日高の馬産地も大きな被害を受け、後に激甚災害に指定された。
 新冠の畔柳作次の牧場も激しい濁流に飲み込まれ、厩舎も馬も流されて全滅した。数日後、畔柳の牧場から4キロ下流の泥を被った牧場に、一頭の泥だらけの子馬が発見された。調べると、小柄な一歳の牝馬で、畔柳のところの馬であることが判明した。この子馬の生還は実に奇跡的なことと思われ、ニュースにも取り上げられたのである。その馬は山田祐三の所有馬として、キセキノサイクロンと名付けられた。英語に於けるサイクロンの意味は、強い暴風雨をともなう低気圧のことである。
         
 彼女は公営の旭川競馬で走ることになった。ダートコースのみの競馬場である。その旭川競馬場も2008年秋に廃止されて今はない。
 キセキノサイクロンの父はエアダブリン、その父はトニービンである。牝系は二流である。母の父は短中距離系だが、エアダブリンはステイヤーであった。
 94年のクラシック戦線で、エアダブリンには岡部幸雄騎手が乗り、常に人気上位の有力馬だった。しかしこの年は相手が悪かった。ナリタブライアンがいたのである。それでもダービーでは2着、菊花賞は3着で入線した。古馬になってから長距離のステイヤーズステークス(3600メートル)、ダイヤモンドステークス(3200メートル)を勝ったが、春の天皇賞(3200メートル)では1番人気に推されながら勝てなかった。
 キセキノサイクロンは二歳時1000メートルの短距離戦を4戦して未勝利に終わった。内3戦がドン尻負けで、最後の一戦は12頭立ての10着であった。彼女はそのまま引退した。どちらかというと芝向きの、長距離血統エアダブリンの子が、ダートで、せわしない1000メートル戦は合わなかったのであろう。
 キセキノサイクロンは競走馬用の繁殖には供用されなかった。しかし地元の人たちは、激しい濁流から奇跡的に助かったこの馬に、特別の想いを抱いていると思われる。
 彼女が引き取られた先は「遊馬ランドグラスホッパー」である。この施設の代表は女性の獣医さんで、馬の歯医者さんとしても名高い荒井亜紀さんである。そこは外乗中心の乗馬クラブで、子どもたちと一緒に遊べるミニチュアホースもいる。また「(株)ノマドック」として、故障した馬のリハビリや先端医療、代替医療の技術開発も行っているという。
 キセキノサイクロンはこれまで純血アラブ種の馬に掛け合わされ、何頭かの子どもを産んだ。その子たちはおそらく乗馬用に調教され、グラスホッパーの売りであるトレイルライディング等に活躍しているのだろう。
 そして2013年に初めてサラブレッドのトウカイテイオーに掛け合わされたのである。
 
 それにしても7月3日生まれとは、馬としてはいかにも遅い誕生で、1月~4月生まれの同年の馬たちと比べれば、かなりのハンデとなろう。当然、現在も同年生まれの他馬と比較して小柄らしい。
 もし競走馬デビューするとすれば、2016年の夏は無論、その晩秋にも暮れにも間に合わず、2017年春のクラシック戦線の皐月賞後、ダービー前くらいになるのではないだろうか。しかし荒井亜紀さんや遊馬ランドグラスホッパーを応援している人たちは、この馬の成長と、競走馬として活躍することを楽しみにしているらしい。
 トウカイテイオーのファンも思っているだろう。このトウカイテイオー最後の牡駒が、中央競馬に行って並み居るサンデーサイレンス系の良血馬を蹴散らし、やがて種牡馬となって、曾祖父パーソロン、祖父シンボリルドルフ、父トウカイテイオーの父系の血を後世に伝えて欲しいと…。
 かつて「奇跡の復活」を遂げた父トウカイテイオー。濁流から「奇跡の生還」を遂げた母キセキノサイクロン。さあ、お前も「奇跡の子」になれ。

               (「光陰、馬のごとし1」に所収)
                               

光陰、馬のごとし 漆黒の馬

2015年10月09日 | 競馬エッセイ
                                                  

「ここには、全世界からの金の流れと共に死がやって来ます。精神の不在をこの地ほど感じさせる所はないでしょう。…私はこの目で、ドル紙幣の最後の滓、死んだ金の奔流が海に向かって流れていくのを見ました。いろいろ自殺した人とか気絶した人を見たことがありますが、この時ほど、真の死、希望なき死、腐食そのもの以外の何物でもない死というものを感じさせられたことはありません。」
 
 1929年の夏、スペインの詩人が旅の途次にニューヨークを訪れた。彼はこの大きな都市、特にウォール街についてこう語ったのである。詩人の感性はまことに鋭い。
 さて、詩人と歴史と時代と馬の、とりとめのない連想の物語である。
 1936年。この年の2月、スペインでは選挙で人民戦線派が圧勝した。人民戦線は欧州で反ナチズム、反ファシズム、反ヒトラーを掲げた社会主義・共産主義の連帯的な政治運動だった。日本では2・26事件が起こった。
 4月29日に開催された東京優駿(日本ダービー)に勝ったのはトクマサである。父 はトゥルヌソル(向日葵)である。トゥルヌソルは1926年にイギリスから日本に輸入された。毛色は鹿毛である。その子トクマサは明るい栗毛であった。
 世界は全く異質で無関係なことどもも、当然のことながら、このように全く同時に進行しているのである。
 スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットが鋭く分析・予言したごとく 、国は資本家階級と労働者階級に分裂し、市民と軍隊の間も分裂し、カタルーニャやバスクの独立運動で国そのものが分裂していくのだ。その本質は、各集団が自己を部分として感じない。他者にも全体にも配慮はなく、自己の利益、自分が属する集団の利益のみが全てだと思いなすことにある。それらの実現のために、暴力や、軍事力や、民意という名の独裁が忍び寄る。その風は不意にやってくるように思われるが、そうではない。  
 時代は急を告げ、それは詩人の歌にも鋭く反映した。アンダルシアの、窓辺や壁に可 憐な花々が咲き乱れる、静まりかえったジプシーの町の、夜らしい夜である。

   彼らの馬は黒
   蹄鉄まで真っ黒  
   マントに光る
   インクと蝋の染み  
   鉛製の頭蓋骨
   彼らに涙はない
   人造皮の魂ひっさげ
   街道をやってくる
   セムシで夜行性
   どこでだろうと
   ひっかきまわす命令
   暗いゴムの沈黙
   こまかい砂の恐怖
   気ままにとおりすぎる
   どろどろのピストルの
   わけのわからぬ天文学
   頭の中に隠して
   
   戸をみんな叩いていた
   重傷の馬一頭
   ガラスの雄鶏
   歌っていた
   ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ
   風は素っ裸で
   不意打ちの街角まがる
   夜 銀の夜 夜
   夜々の深い夜  
             ※ロルカ詩集(長谷川四郎訳 みすず書房)

 傷ついた馬の、毛色は何色だったのか。夜陰にまぎれ、静かなジプシーの町、ヘレス・デ・フロンテーラに忍び寄るスペイン警察隊の馬の毛色は、闇の色に似た漆黒であるらしい。暴力と血と死の匂いが、夜らしい夜に、静かに眠るジプシーの町に忍び寄る。  
 7月、スペインに内乱が起こった。世界各地から人民戦線に参加する義勇兵がやって きた。アーネスト・ヘミングウェイもその一人であった。その後、彼は「誰がために鐘は鳴る」を書いた。スペイン内乱には何人かの日本人も参戦している。彼らは反ファシズム、反ナチズムに共鳴し、日本では不可能な自由と民主主義と社会主義の可能性を見たのかも知れなかった。
 8月19日、ロルカが死んだ。
 その報せをパリで聞いたダリは、勇敢で華麗な闘牛士に掛けるように、「オーレ!」と叫んだ。それが親友の壮烈な死への、サルバドール・ ダリらしい表現だったのだ。
 ガルシア・ロルカの銃殺は、軍服を着た右翼のファランヘ党による。この政党は後に フランシスコ・フランコ将軍によって王党派と合体して、彼の独裁政権の元となった。
 ヒトラーやムッソリーニはフランコを支持した。ムッソリーニやヒトラーが倒された後も、フランコ将軍はその独裁政権を強固に維持し続けていた。そのためスペインでは暫くの間、国民的詩人ガルシア・ロルカの詩は発禁の措置がとられたままだった。
 ところで冒頭に挙げた言葉は、ロルカがある講演でニューヨークの印象について述べたものである。それは金融資本主義が人間の精神にもたらす、死の予言であった。
 
 ロルカは漆黒の馬に不吉なイメージを重ねたが、ちなみに私は漆黒の馬が大好きある。 黒鹿毛より黒い漆黒の毛色、青毛である。青毛の競走馬は年に数頭しか生まれない。その深く黒光りする馬体は実に美しい。無論それは大好きな競走馬の話である。
 しかし、かつてロルカが歌った不吉な漆黒の馬の連隊が、我らの日常にも忍び寄っているのではなかろうか。もう裸の風とともに街角を曲がったところではなかろうか。それは不意にやって来る。

…彼らの頭蓋骨は鉛製。だから涙も流さない。…

                    (この一文は2008年4月26日に書かれたものです。)
                                                  

競馬エッセイ 文豪と競馬

2015年10月09日 | 競馬エッセイ
      

 エミール・ゾラは多作だった。彼はまるで競走馬の血統の系譜を作成するように、複数家系の数世代の物語を書き続けた。「居酒屋」も「ナナ」もその中の物語のひとつなのだ。
 ナナはバリの貧民街から出て女優となった。彼女に演技力などはない。しかしその美しい肉体は求心力を持っていた。ナナはヴァリエテ座の「金髪のヴィーナス」で、その蠱惑的な肉体を曝し、劇場の観客を夢中にさせ、熱狂させていく。その強烈なエロチシズムは、どんな演技力も超えるものだったのだ。
「凄い!」と男たちは息を飲んだ。舞台の幕が降りると「ナナ! ナナ!」の名が、劇場全体を興奮と熱狂の嵐となって包み込んだ。ナナは、観客を群衆に変え、舞台を、劇場を、男たちを制圧した。
…やがて女優ナナは上流階級の男たちの高級娼婦ともなり、貴族のような生活に耽っていく。
 ゾラは「群衆」の得体の知れぬエネルギーを描き出した。それは多数の人間が一箇所に集まり、ひしめき合い、一つの同じ関心事に興奮する「群衆」という巨大な塊となる。そして怪物のように、一つの集合意志となってうねり出すのだ。その中に呑み込まれた個人は、混雑そのものに興奮し、その一体感に我を忘れ、熱狂する。

 1869年、ナナはパトロンに連れられ、馬車に乗って、第7回パリ大賞典を観戦に行った。このレースにパトロンの所有馬が本命として出走するが、彼が所有するもう一頭の牝馬も出走させていた。その馬にはナナと同じ名前がつけられていた。しかし馬のナナは最低人気だった。
 ナナはパトロンの助言に従い本命馬を買った。最も手強い相手はイギリス馬のスピリットであった。多くの人たちは愛国的な気持ちからフランス馬の馬券を買うが、ある人は競馬に相当詳しいらしく、フランス馬はイギリス馬にかなわないと言うのである。
…レースはいよいよ最後の直線に入る。誰もがあまり期待していなかったナナが、何と先頭争いを演じながらゴールを目指している。馬群がゴールに近づくにつれ、十万人もの観衆の熱狂が高まっていく。馬群は雷のような地響きを立て、群衆の前に迫ってくる。群衆は柵際に詰めかけ、口々に叫び、どよめく潮騒に似た。ナナはイギリス馬スピリットをクビ差斥け、予想外の勝利を挙げた。
 十万人の観衆はどよめき、やがてギャロップに移った馬たち、そしてナナに向かってその名を呼び始めた。「ナナ! ナナ! ナナ!」…その野獣の雄叫びに似た声の総和が一体となって、潮騒の轟きに変じ、競馬場全体に広がっていく。ナナ! ナナ! ナナ!… 群衆の熱狂と興奮は高まるばかりであった。フランス万歳! イギリスくたばれ! ナナ! ナナ! ナナ!
 しかし群衆の心を占めているその名が、馬のナナなのか、あの有名な女優ナナなのか、無我夢中の興奮状態で分からなくなっていった。ナナにもそれは分からず、彼女は青いドレスをまとい、美しい金髪をなびかせ、まるで民衆の歓呼に応える女王のように、馬車の御者台の上に立ち上がった。
 ナナ! ナナ! ナナ!…歓呼の潮騒はますます高まり、ブローニュの森の奥から、モン=ヴァレリアンへ、ロンシャンの牧草地からブローニュの平野へと広がっていった。
 ナナは拍手喝采の熱狂と、降り注ぐ日差しの中で、太陽に似た金髪を風にまかせた。彼女はこの歓呼の熱狂は自分に向けられているのだと錯覚していた。ナナは、統制を失った群衆の上に君臨していた。
 ゾラが描いたこの「群衆」は、やがてフランスの戦争に熱狂するリヴァイアサンのような「群衆」として描かれる。開戦、戦争は国民という群衆を盲目的に熱狂させるのだ。
…それにしても「ナナ」における競馬場のシーンは素晴らしい。おそらくゾラは競馬が大好きだったに違いない。

 アーネスト・ヘミングウェイは1917年にイリノイ州のハイスクールを卒業後に、カンザスシティ・スター紙で半年ばかり働き、第一次世界大戦の赤十字社の運転手に志願した。彼は翌年、砲弾が炸裂するパリに着き、数日後には北イタリアの戦線に従軍した。しかし重傷を負ってミラノの病院に収容されてしまった。この体験が後年「武器よさらば」となる。
 やがて帰国したヘミングウェイは、1921年に最初の妻エリザベス・ハドリー・リチャードソンと結婚した。彼はトロント・スター紙の特派記者として再び大西洋を渡ることになった。ヘミングウェイはハドリーと共に、あの20年代のパリに暮らした。パリの日々は、まるで「移動祝祭日」のようであった。
 ヘミングウェイ夫妻は貧しかった。食事を抜き、いつも空腹だった。彼は本を買う金もなかった。ヘミングウェイはオデオン街十二番地の貸本屋兼書店のシェイクスピア書店に行って本を借りたが、その貸本文庫の支払いにも苦労した。彼はよく画家や音楽家や作家たちの溜まり場でもあるスタイン女史のサロンに顔を出し、彼女と文学の話をした。彼女はヘミングウェイに言った。「あなたはロスト・ジェネレーションなのよ」
 ヘミングウェイとハドリーは夫婦仲が良かった。貧しいながら南仏やイタリアなどにも旅行している。ミラノのサン・シロ競馬場にも足を伸ばしているようである。この競馬場で出会った男を、パリ近郊の競馬場でも見かけている。このサン・シロ競馬場は真に底力のあるステイヤーでないと勝てないコースで知られ、フェデリコ・テシオ生産の名馬リボー(16戦16勝)は、ここで12勝を挙げている。
 パリでもヘミングウェイはハドリーを伴って、パリ近郊のアンギャン競馬場やオートゥーユ競馬場などに行っている。彼は競馬を「内職」と呼んだ。彼等が暮らす貧しい界隈でも競馬新聞くらいは売っている。
 
 アンギャンはパリから汽車で7マイルの保養地である。湖と温泉と大金持ちの別荘と、カジノと競馬場があった。アンギャンの競馬場は八百長で金をまきあげると噂されていた。
 オートゥーユ競馬場は障害レース専門の競馬場である。ヨーロッパにはこういった競馬場がいくつもある。北駅から汽車に乗り、その町の一番汚い一番悲しい場所を通り、待避線を歩いて競馬場に行った。
 ある日の午後、その競馬場でハドリーは1対120という大穴の、黄金の山羊(シェーヴル・ドール)という馬に賭けた。博才も度胸も彼女のほうがあるらしい。
 シェーヴル・ドールは他馬を二十馬身も離して独走していた。このままいけば二人の半年分の生活費が手に入る。二人は立ち上がって馬の姿を追った。…しかし黄金の山羊は最後の障害で転倒してしまった。
 
 彼等はオートゥーユ競馬場の草地にヘミングウェイのレインコートを敷き、二人坐って昼食を食べ、葡萄酒を壜から交互に飲み、古びた正面観覧席や木造の馬券売り場、トラックの緑の芝生や濃い緑のハードル、褐色に光って見える水壕や、白い漆喰塗りの石塀、緑の木々と芝地や集合所の馬たち、ハードルを跳ぶ馬たちを眺め、昼寝を楽しんだ。
 レースを走り終わった馬たちが、びっしょりと汗で濡れ、鼻の穴を大きく開いて息をしながら馬道を帰るのを見送り、再び競馬新聞に目を落とし、次のレースの検討に入る。…日本の競馬場の情景とは異なる、のんびりと大らかな競馬観戦である。

               
 

競馬エッセイ 戦争と馬

2015年10月09日 | 競馬エッセイ
      

 だいぶ昔、闘将・加賀武見が騎手として絶頂期で勝ちまくっていた頃のことである。彼はある雑誌のインタビューで趣味を問われ「映画を観る」と答えた。「どんな映画ですか?」「西部劇だね。馬が出ているからね」…私は思わず微笑んでしまった。騎手になる前は青森の牧場で働き、毎朝暗い内から馬の世話をした。騎手修業時代もそれは変わらず、毎日休まずに馬に乗って、騎手としては遅い23歳でデビューした。毎日毎日馬漬けの男が、たまの息抜きに馬が出る映画を好んで見る。「やはり馬が気になる」…スターやストーリーより馬なのだ。さすがリーディングジョッキー加賀である、よほど馬が好きなのだろうと感心したものである。
 おそらく彼は、インディアンや騎兵隊が馬を疾駆させるシーンや、騎射を繰り広げる戦闘シーンを、あの強い目力で、食い入るように見入っていたに違いない。彼の関心はその手綱の長さ、手綱さばき、騎乗姿勢、馬の追い方、馬の脚元、その馬体、ハミがかり、アブミの長さ、拍車の使い方などであったろう。

「戦火の馬」(War Horse)という映画があった。原作は、イギリスのマイケル・モーパーゴが書いた児童文学で、その後舞台化され、やがて映画化されたのである。
 少年が慈しんで育てていたサラブレッドを、貧窮のため父が軍馬として売ってしまう。馬はフランスの軍馬として第一次世界大戦に駆り出されたが、ドイツ軍の手に渡ってしまう。戦争は長引き、少年も兵士として出征した。彼の部隊はドイツ軍と対峙したが、少年(青年)は戦場で愛馬と邂逅した。…やがて彼等が無事に故郷に帰還するという物語であった。
 この時代の戦争は近代と一変した。重火器類が発達して大量生産され、塹壕戦が始まり、戦場に航空機や戦車、潜水艦や化学兵器も投入された。大量生産された自動車も戦争を変えた。
 一部の戦場でその機動性が買われて運用された騎兵もあっただろうが、それは為す術もなく壊滅し、たちまち前時代のものとなった。また重砲や物資輸送に重種の馬も使役されたが、もはや時代遅れの代物だった。
 この戦争は多くの人と馬の命を消耗した。作者のモーパーゴは、第一次世界大戦でイギリスだけで百万頭の馬が死んだという話を耳にした。調べるとヨーロッパ全体で約一千万頭の馬が死んだという。そのときの悲惨な逸話をもとに「戦火の馬」が書かれたのだ。
…しかし私はこの数字に大いに疑問を持っている。それほどの数の馬が戦地に駆り出されただろうか? おそらく馬は食糧として利用されたに違いないが、それにしても膨大な数である。また、それほどの数の馬がヨーロッパにいただろうか? もはや騎兵の時代ではなく、また馬が運搬の主役を担う時代ではなかったはずだ。私の勝手な推測だが、イギリスから戦地に送られて死んだ馬は多くて十万頭、ヨーロッパ全体で多くても三百万頭くらいではなかろうか。死んだのは九百万人を超える兵士と、戦火に巻き込まれて命を落とした数百万人の市民である。

 フランスのマルセル・ブサックは、世界の競馬史に大きな足跡を残したオーナーブリーダーである。彼は家業の繊維業を継いで成功した。さらに第一次世界大戦時の軍需と、戦後の民需で繊維王として大富豪となった。ブサックは大戦勃発の年に馬主となり、牧場を開き生産も始めた。戦後牧場は大規模化していった。
 彼の牧場からトウルビヨン、ファリス、ジェベルが出て、いずれも種牡馬として大成功した。ファリスはフランス競馬史上最強の一頭とされている。
 ブサックの生産馬は主にフランスとイギリスで走り、両国のクラシックを全て制覇し、およそ1800勝を挙げたと言われる。仏ダービーを12回制し、凱旋門賞を6回制した。馬主と生産者のリーディングに十数回も輝いた。
 第二次世界大戦が勃発し、1940年にドイツ軍がフランスに侵攻した際、ブサックは馬たちをイギリスに疎開させたが、ファリス等の馬がドイツ軍に接収されてしまった。それらはドイツの地に持ち去られた。
 終戦後にファリス等は戻されたが、ブサックはドイツで生産されたファリス産駒の出生証明書へのサインを拒否した。これら血統登録を拒否された馬は、フランスの血統書では「父馬X」と記載された。馬を持ち去ったドイツに対する抗議と報復なのである。ファリスは1953年から3年連続でリーディングサイヤーとなった。
 ちなみにブサックは、1946年に独立したばかりのクリスチャン・ディオールを支援し、彼のパトロンとしてその事業を大成功に導いた。
 凱旋門賞が今日の世界最高峰のレースになったのは、ブサックの尽力によるとされている。彼は高額賞金を策定し、各国の一流馬を招致するため華やかな社交界をリードしたのである。
 ブサックはその絶頂期、銀行や新聞社、家電品製造会社なども所有していた。いつしか彼の生産・所有した馬たちの成績はその勢いをなくし、導入した種牡馬たちもことごとく失敗した。さしもの繊維王の事業本体も揺らいで、1978年に破産した。牧場もアパレル事業も新聞社も、みな人手に渡った。
 残ったのはロンシャン競馬場で開催される「マルセル・ブサック賞」くらいであった。無論、彼の大いなる功績を讃えるレースである。
 
 若い頃、軍歌に取り憑かれたことがある。その詞を何度も繰り返し読み、そして口ずさんだ。何という戦であったことか、決して勇ましい感じは受けず、むしろその戦いの不合理、兵士の置かれた過酷な不条理に打たれたのである。「討匪行」は昭和7年、関東軍参謀の八木沼丈夫の作詞である。
   いななく声もたえはてて / たおれし馬のたてがみを /
   かたみと今は別れ来ぬ
   ひづめのあとに乱れ咲く / 秋草の花雫して /
   虫がねほそき日暮空

「露営の歌」は昭和12年、藪内喜一郎の作詞である。
   土も草木も火と燃える / 果てなき曠野ふみ分けて /
   進む日の丸鉄かぶと / 馬のたてがみなでながら /
   明日の命を誰か知る

「愛馬進軍歌」は昭和13年、久保井信夫の詞である。これは日本競馬会が馬事思想普及のために陸軍省馬政課と農林省馬政局に働きかけて募集したものである。当時の陸軍省馬政課長は栗林忠道陸軍騎兵大佐であった。「馬政課」「騎兵」…。後年、硫黄島で陸軍大将・栗林司令官とその部隊は、孤立無援の中で玉砕したことで知られる。
   くにを出てから幾月ぞ / ともに死ぬ気でこの馬と
   攻めて進んだ山や河 / とった手綱に血が通う
     昨日落としたトーチカで / 今日は仮寝の高いびき
     馬よぐっすり眠れたか / 明日の戦は手強いぞ
 
有名な「麦と兵隊」は、戦後も演歌で活躍した藤田まさとが、昭和13年に作詞したものである。大村能章が作曲し、東海林太郎が歌った。
   徐州徐州と人馬は進む / 徐州いよいか住みよいか …
 日本軍は戦地でまだ馬を使役していたわけである。泥濘の曠野は車両では身動きとれず、重砲、山砲、糧秣などの重量物は馬が担い、挽いたのだ。
 
童謡にも戦地に送られる馬が歌われる。童謡詩人・武内俊子の「船頭さん」は昭和16年に書かれている。
   村の渡しの 船頭さんは / 今年六十の おじいさん
   年はとっても お船をこぐときは / 元気いっぱい 櫓がしなる
   それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ
     雨の降る日も 岸から岸へ  / ぬれて船こぐ おじいさん
     今日も渡しで お馬が通る / あれは戦地へ 行くお馬
     それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ
 
 昭和18年の第12回東京優駿競走(日本ダービー)は、牝馬のクリフジ(繁殖名・年藤)が勝った。クリフジの鞍上で手綱をとったのは、弱冠20歳の前田長吉で、日本ダービー史上の最年少優勝騎手である(戦後、日本中央競馬会発足後のダービー最年少優勝記録は、田島良保がサラ系のヒカルイマイで勝ったときの23歳である)。
 前田長吉は翌年満州に出征し、敗戦後にシベリアに抑留されて、23歳で死亡したという。前田長吉の騎乗を知る古老たちは、戦争がなければ間違いなく大騎手になったであろう、と伝え続けた。
 二年ほど前、TV「お宝なんでも鑑定団」に前田長吉が使用していた騎乗用の長靴と、斤量調整のため鉛を入れる複数のポケット付きチョッキが出されたことがある。彼が出征前に実家(青森県三戸郡是川町)に残していったという。それを鑑定に出したのは長吉の故郷の縁者だった。鑑定金額は忘れたが、驚くほど高額だったことだけは覚えている。

 昭和19年の第13回東京優駿競走は、戦局悪化のため無観客の「能力検定競走」となった。6月18日、カイソウは橋本輝雄騎乗でレースに臨み、勝った。その後カイソウは京都で4戦したらしい。秋初戦に勝ち、菊花賞に相当する長距離特殊競走で1着になるも、このレースは全馬がコースを間違えたため不成立となった。本来なら二冠馬なのである。その後2戦を惨敗し引退することになったが、サラ系種であったため種牡馬の道は閉ざされていた。
 カイソウは最後のレースの二日後にセリに出され、陸軍名古屋師管区名古屋師団(第3師団)に落札された。温和しく賢い馬だったため、師団司令官の乗用馬になった。しかし昭和20年5月の名古屋大空襲で、その生死が不明になったという。
 なお昭和20年、21年の競馬は中止されている。

 ※ 茶木滋が昭和15年に書いた童謡詩に「馬」というのがある。
     
     馬はだまって
     戦争(いくさ)に行った
     馬はだまって
     大砲引いた。
    
     馬はたおれた
     御国のために
     それでも起とうと
     足うごかした

     兵隊さんが
     すぐ駆けよった
     それでも馬は
     もううごかない。
      
     馬は夢みた
     田舎のことを
     田ん圃をたがやす
     夢みて死んだ。