芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

掌説うためいろ 焚き火とごん狐のお話

2015年10月22日 | エッセイ
                                                          

 現代の子どもたちは実に清潔である。洟垂れ小僧も全く見かけなくなった。顔に斑のたむしや白癬の子も見かけなくなった。
 冬、かつて子どもたちは手に白い息を吹きかけながら登校したものだ。「ぴいぷう」と吹く北風に、彼らの手足の指や耳たぶは、しもやけで赤かったものだ。ズック靴の爪先に唐辛子を入れていた子どももいた。家で水仕事を手伝ったり、池や川やバケツに張った氷を割って投げ合ったり、軒の氷柱を折ってチャンバラをする子どもたちの手には、あかぎれができた。今、子どもたちの手に、しもやけもあかぎれも全く見かけなくなった。
 自宅と学校までの道筋の、庭のある家々の生垣には、よく常緑の木が見受けられた。イヌマキやラカンマキ、カイヅカイブキ、ウバメガシ、アラカシ、カラタチ、サツキ、ツバキと、喬木から灌木までいろいろある。生垣の上には高い落葉樹が、その枝を冬空に延ばしていた(葉をすっかり落とし冬空に聳える欅の万枝を「神経叢」と書いたのは辻まことだった)。詩人が選んだ生垣は、真冬でも明るく花を咲かせるサザンカであった。
 その道筋は、よく青白い霧のような煙が漂っていたものである。住人たちが庭や道の掃き掃除をし、その生垣の内や外で焚き火をしていたからである。
また左右の田畑でも、野良仕事をする人が火を焚いていたものである。その煙は少し目に煙いが、時に香ばしい匂いもする。薩摩芋などを焼いているからである。学校帰り、子どもたちは焚き火に道草をした。煙から顔を逸らしながら、火に手をかざすと、その温かさに思わず微笑みが浮かんだ。その火の主の大人が、
「もうすぐ芋が焼けるよ。食べるか?」
と言うと、子供たちは破顔一笑、頷いたものである。
 詩人が描いたのは、そういう時代の冬の温かな一情景である。それは日本の冬の時代であった。

 詩人の名は巽聖歌である。本名は野村七蔵、明治三十八年の厳冬に、岩手県紫波郡日詰町に生まれた。父の市兵衛は、周囲が田や畑の「村の鍛冶屋」を営んでいた。農具を作る野鍛冶である。七蔵は四男だが三人の姉がおり、市兵衛とトメの七番目の子であった。生後八ヶ月の時、その父を失った。
 家業の鍛冶屋は長兄の吉蔵が継ぎ、父代わりになって、母のトメと共に七蔵ら弟妹を育てた。鍛冶屋だけでは生計が立たず、トメが養蚕をやっていた。七蔵の想い出は、働きずくめで、子どもをかまう暇もない母の姿である。七蔵の子守や面倒は、すぐ上の二人の姉たちが見た。彼の生まれる前だが、吉蔵兄は日露戦争に出征して黒溝台で足に重傷を負った。吉蔵帰郷の際、父の市兵衛は駅舎まで人力車を曳いて出迎え、家まで乗せて帰ったという。吉蔵の足には障害が残った。七蔵の想い出は、足を引きずり、鍛冶仕事に精を出す寡黙で朴直な兄の姿である。
 七蔵は友達の家で「赤い鳥」という雑誌を初めて知った。その「赤い鳥」と、先輩の平野直(ただし)等の影響を受けて、童謡の詩や童話を書き始め、やがて友人たちとガリ版刷りの童謡童話雑誌に熱中した。七蔵少年は、暗算坊と渾名されるほど暗算が得意で、成績も抜群だった。大正六年に日詰尋常小学校を卒業すると進学せずに、吉蔵の鍛冶仕事を手伝った。かたわら、ガリ版刷りの同人誌や、時事新報社の雑誌「少年」や「童話」「赤い鳥」等にせっせと投稿し続けた。
 大正十二年、「少年」に投稿した童話「山羊と善兵衛さんの死」が掲載された。彼は編集長の安倍季雄に宛て、時事新報社に入社させて欲しいと手紙を出した。しかし年齢が若過ぎて採用はならなかった。
 七蔵はその年、横須賀にいた平野直を頼って出郷し、海軍工廠会計部で働きながら衣笠中学校の夜間部で学んだ。かたわら童謡童話雑誌に詩や童話を投稿した。翌年、ようやく時事新報社で働けるようになった。
 ちなみに、平野直は明治三十五年の生まれである。後、民話の採集や再話に功績を残し、「すねこ・たんぽこ」「岩手の伝説」「やまなしもぎ」「遠野物語の国へ」を書き、また童謡「春の満州里」を作詞している。

 大正十三年、「赤い鳥」に七蔵が投稿した詩「母はとっとと」が掲載された。喜びも束の間、その年の暮、経営が行き詰まった時事新報社は、「少年」「少女」などの雑誌を他の出版社に譲渡してしまった。
 翌年春、七蔵は失意のうちに帰郷した。七蔵は日詰の教会に通い、やがて受洗した。彼の創作意欲は高まるばかりだった。冷たい山背(やませ)が吹く厳しい風土で、彼は熱く燃えさかっていた。彼の詩「お山の広っぱ」「からたち」が、「赤い鳥」に続けて掲載された。
 鋭い棘をもった「からたち」もよく生垣に見受けられる木である。「母はとっとと」「お山の広っぱ」「からたち」は、後の昭和六年にアルスより刊行された詩集「雪と驢馬」の中で、「家垣根(いぐね)のそば」の章にまとめられている。「いぐね」とは彼の故郷での呼び方なのである。彼はこれらの「家垣根のそば」の章の詩を「童詩」と呼んだ。また「水田(みずた)」の章には「家垣根路(いぐねみち)で」という詩もある。彼にとって、田と家垣根は、故郷の風景そのものなのであった。
 
 その年、七蔵は初めて巽聖歌という筆名を使って、「水口(みなくち)」という詩を「赤い鳥」に投稿した。俳句のように、贅句を削ぎ落とした詩である。

     野芹が   咲く日の   水口。 
     蛙の   こどもら   かへろよ。
     尾をとる   相談   尽きせず。 
     あかねの   雲うく   水口。

 岩手や青森の太平洋岸は、夏に山から吹きおろす北東風の山背に悩まされる。この冷たい風が故郷に冷害をもたらすのだ。山背から田の稲を守るためには、頻繁に田水の量を調整しなければならない。水の中の方が風の運ぶ冷気より温かなのだ。河川の水がいったん溜め池で温められ、緩やかに小川に流されて、そこからちょろちょろと田に注がれたり、抜かれたりするのである。その注排水口が水口で、ここからドジョウやメダカのような小さな魚が小川と田を行き来するのである。水口付近は酸素も十分にある。陽差しを受けて温んだ水口あたりに、オタマジャクシが集まっている。まるで尾をとる相談でもしているようではないか…。
「おっとりしていい気品のある芸術童謡です。めづらしいほどいい。」…
「水口」は、北原白秋の高い評価を受けて「赤い鳥」に掲載された。それは童謡として歌うための詩ではなく、読んで味わうための詩である。巽聖歌の名は一躍詩壇に知られるようになった。以来聖歌は白秋に師事した。
 昭和三年、聖歌は再び上京した。彼は白秋の弟の鐵雄が経営する出版社アルスで、編集者として働くことになった。さらに白秋に勧められて、他の白秋門下の仲間たちと共に「赤い鳥童謡会」をつくり、親しい与田準一と「乳樹」を創刊した。「乳樹」はその後「チチノキ」となったが、これに新美南吉が童話を投稿したことから、聖歌と南吉の兄弟のような付き合いが始まったのである。南吉は「乳樹」の同人となり、白秋門下となった。

 新美南吉は大正二年、愛知県半田市岩滑(やなべ)に畳職人の渡辺多蔵、りゑの二男として生まれた。多蔵とりゑの長男・正八は生後間もなく亡くなっていたため、彼はそのまま長兄と同じ名を付けられた。その名には多蔵の思いがあったのだ。正八が四歳のときに母のりゑが亡くなり、六歳のおり多蔵は後妻の志んを迎えた。志んはすぐ弟の益吉を生んだが、二年半ばかりで多蔵と離縁し、幼児の益吉を連れて家を出た。正八は生母りゑの実家の祖母・新美志もと暮らすことになった。彼は志もの養子になり、新美姓を継いだ。八歳の時である。複雑な家庭事情があったのだろう。
 その「おばあさんというのは、夫に死に別れ、息子に死に別れ、嫁に出ていかれ、そしてたった一人ぼっちで長い間をその寂莫の中に生きて来たためだらうか、私が側によっても私のひ弱な子供心をあたためてくれる柔い温いものをもっていなかった」のである。大きな家だったが光度の低い電燈が一つしかなかった。他の部屋にいく時は、カンテラを灯すのである。家は村の一番北にあって、背戸には深い竹薮が迫ってざあざあと鳴り、実に寂しい所であったらしい。昼でも寂しく背戸山で狢のなく声がした。正八はこの祖母と二人きりの、寂しい日々を過ごした。
 正八は身体の弱い大人しい子どもだったが、学業は優秀であった。その後、父の多蔵は志んと復縁し、正八も新美姓のまま再び渡辺の家に戻った。祖母の志もは、人も立ち寄らぬような、村はずれの背戸の竹藪がざあざあなる大きな家で、再び独り暮らしに戻ったのである。

 正八は大正十五年、半田中学の二年の時から童謡、童話を書き、雑誌に投稿を始めた。新美南吉を名乗り、やがて投稿を通じて巽聖歌や与田準一と知り合った。彼らは繁く文通をするようになった。ときに南吉は、原稿を聖歌に送って文章の添削を依頼してきたりもした。
 昭和六年春、南吉は岡崎師範学校を受験したが体格検査で不合格となった。彼は半田第二尋常小学校の代用教員となった。この年の「赤い鳥」五月号に初めて彼の童謡「窓」が掲載された。その秋に半田小を辞し、東京師範学校受験のために上京し、下北沢の巽聖歌の下宿で共に暮らすようになった。聖歌は南吉を実の弟のように面倒を見た。
 南吉は書いた原稿を聖歌に読んでもらい、その意見を取り入れて書き直した。どちらかと言えば、南吉の文章は長く綴られ、聖歌のは贅句を削り、読点を多用した意味が取りやすい文章なのである。無論それらのことは、個性の違いとも言えた。
 南吉は「ごん狐」を書き始めた。その「ごん狐」は鈴木三重吉に高く評価され、翌年一月の「赤い鳥」に掲載された。それを自分のことのように手放しで喜んだのは聖歌であった。
 南吉は受験志望を竹橋にあった東京外国語学校の英文科に変えた。南吉はひとりで合格発表を見に行ったが、戻ってくると、聖歌に自分の番号があったことを伝え
「番号は私のらしいけれど、見誤りでないかと心配なんです。一緒に行って見てください」
と、「泣き出しそうな顔をして、じたばたした」。仕方なく聖歌は彼の合格を確認しに出かけた。南吉の東京外国語学校合格を一番喜んだのは聖歌だった。泣き出しそうな顔で、じたばたしていた南吉は「意気軒昂」となった。聖歌はこんな南吉が可愛く、腹を抱えるほど可笑しく思えた。

 聖歌は中野区の上高田に家を借り、聖歌が結婚するまで、南吉もここで共に暮らした。当時、その家の周辺は田畑と屋敷林で囲まれた、旧い農家が点在する長閑な田園地帯だったのである。聖歌の家の近くにも、何本もの樹齢三百年の大ケヤキや、カシ、ムクノキが聳える家があった。ケヤキやカシやムクノキの大木は、サザンカの生垣の上に聳えていた。
 やがて聖歌が結婚し、南吉は独り下宿住まいをすることになった。南吉は勉学にいそしむと同時に、せっせと幼年童話と小説を書いた。学校でも文学や芸術について語り合える多くの友人ができ、「赤い鳥」の仲間たちとの交流も盛んになった。そんなある日、南吉は突然喀血した。そういえば、微熱が続き、びっしょりと寝汗をかくことが多くなっていた。
 師走の十二月二十四日、南吉は聖歌に誘われて白秋の家に行った。白秋は顔色の優れぬ南吉に
「独り暮らしではろくなものを食っておらんだろう。少し栄養を摂らせてやろう」
と言って、菊子夫人に
「おい、うんと滋養のあるものを、な」
と頼んだ。彼らは晩ご飯をご馳走になった。南吉が白秋先生とこんなに話し込んだのは初めてだった。
 南吉は昭和九年に東京外国語学校を卒業した。神田の貿易会社に勤めていたが再び喀血し、晩秋に本格的に療養するため半田に戻ることになった。聖歌は駅まで南吉を見送り、「いいか、無理をするなよ。でも書き続けろよ。大丈夫、そのうち良い薬もできる」と励ました。南吉の病気を一番心配し、その帰郷を一番寂しがったのは聖歌だった。

 南吉は翌年の春から河和小学校の代用教員になったが、その夏には退職せざるをえなかった。たびたび学校を休んでいたからである。秋から鶏などの飼料を製造する鴉根山の農場に住み込みで働くことになった。この鴉根山での生活は、南吉の身体には良かったようである。だいぶ、体の調子が良いように思えた。 
 南吉は昭和十一年の春から安城高等女学校の教員となり、英語と国語と農業の授業を受け持った。国語の時間には、生徒たちに詩や童話などの創作の楽しさを教え、彼女たちの詩と自分の詩を、聖歌が紹介してくれた哈爾賓日々新聞に掲載してもらった。しかし南吉の体調は再び悪化し、彼の体力は落ちていった。
 昭和十六年、聖歌の紹介で学習社から初めての単行本「良寛物語 手鞠と鉢の子」が刊行された。

 この年の晩夏、聖歌はNHKラジオの幼児番組用の作詞を依頼された。寒い十二月に放送予定のものらしい。彼は「たきび」という詩を書いた。
 聖歌は土産を持ち見舞いを兼ねて南吉を訪ね、その話をした。
「そうですか、NHKラジオで全国に放送されるんですね。それはすごいなあ」
と南吉は喜んだり、羨んだりした。
「冬に放送されるんですね。十二月ですか。それは楽しみだなあ。十二月まで生きていたいなあ」
と南吉は言った。
「おいおい、心細いことを言っちゃあいかんよ。病に対しては気を強く持たなくちゃあいけないよ」
と聖歌は南吉をたしなめた。
 聖歌は話を逸らすように、その詩の着想を話した。
「この『たきび』という詩はね、ほら、中野の家の近くに大欅の家があっただろう、山茶花の生垣に囲まれてた家さ」
「ありました、ありました。樹齢何百年という巨木でしたねえ」
「あそこの家のご主人はいつも焚き火をしてただろう」
「してました、してました。懐かしいなあ」
「あれを思い出してね。こんどの詩に書いたのさ」
「懐かしいなあ。もういちど、あの辺りを歩き回りたいなあ」
と南吉はしょんぼりした。
 聖歌はまた話を変えた。
「君も童話がだいぶたまったね。そろそろ童話集を出さないか。『おぢいさんのランプ』とか『ごんごろ鐘』とか…。出版社は俺に任しておけ。装丁や挿絵も、いい人がいるんだ」
「それはうれしいなあ、ぜひお願いします。何編くらいでいきますかね」
と、南吉はだいぶ元気を取り戻した。
 
 さて、聖歌が書いた詩「たきび」は、田畑の中に屋敷林で囲まれた農家が点在した中野区上高田辺りの情景である。聖歌は、樹齢三百年の大ケヤキが聳えサザンカの生垣に囲まれた家の前を通り道とした。巨樹の枯れ葉は掻き集められて、畑の肥料として撒かれ鋤込まれたり、焼かれたりしていた。その灰も肥料として撒かれるのである。焚き火は周辺を霧のように煙らせていた。しかしそれは田園の住宅地の日常風景で、誰も苦情を言う人はいなかったのである。この家垣根も焚き火も、聖歌にとって懐郷につながる風景なのであった。

     かきねの、かきねの まがりかど、
     たきびだ、たきびだ おちばたき。
     「あたろうか。」「あたろうよ。」
     きたかぜ、ぴいぷう ふいてくる。

     さざんか、さざんか さいたみち、
     たきびだ、たきびだ おちばたき。
     「あたろうか。」「あたろうよ。」
     しもやけ、おててが もう、かゆい。

     こがらし、こがらし さむいみち、
     たきびだ、たきびだ おちばたき。
     「あたろうか。」「あたろうよ。」
     そうだんしながら あるいてく。
 
 「たきび」と題された詩は、すぐに作曲家の渡辺茂のところに持ち込まれた。前年の皇紀二千六百年記念歌の作曲コンクールで次点になった渡辺茂は、当時二十九歳の注目の若手作曲家であった。茂は聖歌の「たきび」が気に入った。
 彼は明治四十五年、本郷の林町に生まれた。聖歌の詩を読みながら、茂の脳裏に焚き火の温かで懐かしい想い出が甦った。
 家の近くの寺の境内で、正月の門松を燃やしていたときの情景である。子どもも大人もパチパチと竹がはぜる火を取り囲んで、何故か心がほっこりとした記憶なのだ。女の子の誰かが「雪よ雪よ」と空を見上げた。それは灰が雪のように舞い落ちてきたものである。小さな子どもがお姉さんの少女を真似て「雪だ雪だ」と、空に両手をかざした。子どもたちの頭に灰が雪片のようにのった。大人たちが笑った。「雪だ雪だ」と小さな子らが境内を走り回った。その中に茂もいた。
 
 「たきび」は日本放送出版協会の放送テキスト「ラジオ少国民」十二月号に載った。放送は十二月九日から三日間、朝十時の短いニュースの直後「幼児の時間 ウタノオケイコ」で流される予定だった。初日の九日は放送されたが、あとの二日は中止となった。大日本帝国が八日未明ハワイの真珠湾を奇襲し、アメリカと戦端を開いたからである。
 九日の放送直後、軍部からNHKに強硬な申し入れがあった。
「この非常時に焚き火とはけしからん。万一敵機襲来あらば、焚き火はたちまち敵爆撃機の格好の攻撃目標となってしまう。たとえ少国民といえども、今や大人と合力し、お国を護るために戦うときである。こんな歌を歌わせてはならぬ!」
「それにたとえ落ち葉といえど、この非常時に於いては貴重な燃料である。風呂ぐらいは沸かすことができよう」
「ついでに言わせてもらうが、あの巽聖歌なる国籍不明のふざけた名前は実にもってけしからん。本名の野村七蔵に戻せ!」…。
巽聖歌は当惑した。嫌な時代になったものである。
 南吉は学校を休みがちであった。その日も南吉は休みをとり、布団の上に身を起こして、朝からラジオのくぐもったような、波打ち、うねるような音声に耳を傾けていた。「幼児の時間 ウタノオケイコ」で聖歌の「たきび」が流れた。いい詩だ、いい曲だと南吉は思った。その「たきび」が三日間放送されると聞いていたので、次の日もその次の日も楽しみにラジオに耳を傾けたのだが、その歌は九日の朝の一回しか流れなかった。日本と米国とが戦争に突入した非常時なので、仕方のないことかも知れなかったが…。

 翌十七年、聖歌が南吉の童話集「おぢいさんのランプ」刊行話を、どんどん進めてくれた。出版社と装丁や挿絵の手はずを調えてくれた。聖歌は棟方志功に装丁と挿絵を依頼した。上がってきた志功の装丁や挿絵を見た南吉は
「いいですねえ、やっぱりいいですねえ」
と撫でるように喜んだ。その秋、有光社から「おぢいさんのランプ」が出た。初めての童話集である。
 南吉の体力が落ち始め、彼は自分の命の蝋燭の火が消えかかっていると感じていた。十二月に入ると学校に休職願いを出した。 
 年を越した一月、病状が悪化し、南吉は安城高等女学校を退職した。やがて、もうすぐ桜のつぼみが開こうかという頃、彼は静かに息を引き取った。まだ二十九歳だった。駆けつけた聖歌は、人目も憚らず慟哭した。
 南吉の葬儀が済むと、聖歌は彼の残した原稿を全て預かり、その整理に入った。南吉をもっと知ってもらいたい。彼をもっと世に出したい。南吉の全ての作品を出版してあげたい。聖歌は南吉の原稿に手を入れた。こうすればもっと良くなる。こう表現した方がもっと子どもの心に伝わるだろう。ここを削れば、もっとすっきりする。…聖歌は詩人であり、物書きであり、編集者だったのだ。 
 彼は奔走し、紙の入手も困難になった昭和十八年の秋、立て続けに二冊の南吉の童話集を刊行した。「牛をつないだ椿の木」「花のき村と盗人たち」である。聖歌は、それを南吉の仏前に献じて報告した。

 …仏檀に飾られた南吉の小さな遺影が、自分の童話集が二冊も出たことを、とても喜んでくれているようで、聖歌はすこしうれしく思いました。南吉の童話集の世間の評判も上々で、このことも聖歌はうれしく思いました。そしてその本を出すために、自分ががんばったことに、世間がちょっと気づいてくれてもいいのになと、少しさびしくも思いました。…

 戦後も巽聖歌は新美南吉の作品を広めるために尽力した。やがて南吉は宮沢賢治に比され、童話作家としての評価を得ていった。聖歌はそれをとてもうれしく思った。
 ある日、聖歌は愕然とした。彼が勝手に新美南吉の原稿に手を加えたとして批判の的になったからである。その批判が聖歌を痛撃した。

 …聖歌はおどろき、深く傷つきました。そしてとても悲しくなりました。自分が良かれと思ってやったことは、いけなかったのだろうか。
 やがて聖歌が南吉を弟のように可愛がり、南吉の作品をもっと良いものにしたい、そしてもっと世に出したい、という強い思いから、南吉の原稿に手を入れたことを、世間の人は知るようになりました。世間の人は聖歌の思いや、やさしさに気づき、そうだったのかと言いました。聖歌は静かに目をつむったまま、うなづきました。焚き火の青いけむりが、周辺に霧のように漂っていました。…
 時に無償の親切な行為が、逆に相手に迷惑をかけることになったり、理解されず誤解を招くことになったりするのだった。…それが「ごん狐」の、ちょっぴり切ないお話しなのでした。 
 それは、こころの温かな「たきび」の詩人と、その弟分のような、若くして亡くなった童話作家の、だいぶ昔のお話で、わたしも子どもの頃に、村のことなら何でも知っているお婆さんから聞いたのです。そのお婆さんは、村の一番北はずれの、山茶花の家垣根に囲まれた大きな家に、たった独りで暮らしていました。背戸の竹藪がざあざあなり、ときどき狢や狐の鳴く声が聞こえる寂しい所でした。お婆さんは、よく焚き火をしていました。その煙は辺りに青い霧のように漂って… 
               
 

エッセイ散歩 とりとめもなく、日本…

2015年10月22日 | エッセイ
 
 かつて永井荷風、谷崎潤一郎、堀辰雄らの文学者たちは、日本回帰をした。
 荷風は落語や歌舞伎に夢中になる傍ら、フランス語を学び、やがて遊学し「あめりか物語」「ふらんす物語」等を書いた。しかし日本人の無批判的な西洋の受容や、薄っぺらな受け売りに嫌気が差し、さらに大逆事件に接して自分の無力、勇気の無さから戯作者を決意した。荷風は江戸趣味、三味線の音色が聞こえる下町の紅灯に溺れるように身を置き、偏奇館と名付けた木造洋館や断腸亭と名付けた家に住み、断腸亭主人を名乗って、「つゆのあとさき」「墨東綺譚」「浮沈」「踊子」等を書いた。
 谷崎潤一郎はモダンな作風から出発した。「痴人の愛」の主人公の名は譲治(ジョージ)という外国人のような名前を持ち、またナオミというハイカラな名前で、まるで混血児のような美少女なのである。潤一郎はやがて「春琴抄」「武州公秘話」や、評論「陰翳礼賛」を書き、戦中から「細雪」を書き始めた。
 堀辰雄はフランス文学のラディゲ、プルースト、コクトー、モーリアック等の影響を受け、瀟洒で透明な文章を作り上げた。恋人も妻も自身も胸を病み、軽井沢などの白いサナトリウムを舞台とした小説を書いた。「ルウベンスの偽画」「風立ちぬ」「麦藁帽子」「美しい村」…。やがて日本の古典文学を題材にした「かげろふの日記」「曠野」を書き、さらに「大和路・信濃路」という名文を著した。彼等は日本の粋、陰翳の美に目覚め、日本回帰していったのである。
 
 東京オリンピック誘致の際の「お・も・て・な・し」はキーワードとなっている。オリンピック開催決定と、ほぼ時を同じくして和食、和紙もユネスコの無形文化遺産への登録が決まった。以降、日本の美、日本の自然、日本の伝統文化、伝統技術や、最新最先端の技術、その活用、運営、運用、運行システム等の礼賛番組が増えている様に思われる。
 以前からやっている「和風総本舗」は先見の明があり、日本の伝統、文化、技術礼賛番組では老舗である。「BSにっぽんプレミアム」「所さんのニッポンの出番!」や、日本の最新技術ときめ細かなシステムを取り上げる「世界が驚いたニッポン!スゴ~イデスネ!!視察団」等がある。他にも来日ガイジンへの取材番組も増えている。彼等は日本人が意識もしなかった日本の魅力を縷々(カタコトで訥々と)語るのである。
 これらの番組を見れば、日本も大したものだと見直し、少しは日本に自信が持て、誇りにも思う。それはそれでまことに結構である。しかしまた、何となく居心地の悪いある種の危惧や、過剰な自信や傲慢なナショナリズムへつながるような気味の悪さもある。これは表層的なブームではないのか、日本の伝統、文化、技術、心象や、その歴史や民族的な性向や社会の宿痾も含めて、深く語る人はいないものか。実はたくさんいるのである。

 例えば加藤周一。彼は文学・社会評論家であり、医学博士で哲学者だった。青年期を嵐のような狂信的日本主義の時代の中に過ごし、後に日本文化の雑種性、外国観、死生観を論じ、古典文学を論じた。フランス語、ドイツ語、英語に堪能な国際的知識人でありながら、日本の小学生からの英語教育に強く反対した。「先ずしっかりとやるべきは、母語である日本語教育である」
 外国人の論者では、例えばアレックス・カー。日本の書、生け花、古民家などを愛する一方、それら伝統文化を平気で棄てて踏みにじる日本に心を痛めて「美しき日本の残像」を書き、「鬼と犬」で日本に絶望しながら、「日本ブランド」を勧めている。
 例えば、ロビン・ギル。彼は三十年前来日し、みごとな日本語で「反日本人論」を書いた。この青年(当時)は、日本人が大好きな「日本人論」の蒙昧を吹き飛ばしたのである。「西洋が近代なのではない。西洋人も近代人になったのである。キリスト教もスケベだった。アメリカ人のほうが島国根性である。砂漠の民は日本人と正反対ではない。「甘えの構造」はアラブ人にもある。日本人の前に人間という生物だ…」
 例えば評論家、演劇研究者、哲学者の金両基。彼は東京生まれの在日韓国人である。カリフォルニア・インタナショナル大学教授を経て、日韓の大学で教鞭をとり、「能面のような日本人」を書いた。共著に「海峡は越えられるか」(櫻井よし子)、「日韓いがみ合いの精神分析」(岸田秀)がある。
 例えば韓国の梨花女子大学教授で文芸評論家の李御寧。「『縮み』志向の日本人」「俳句で日本を読む」「ふろしき文化のポストモダン」「蛙はなぜ古池に飛びこんだか」等を書いた。…これらの書物は膨大な数にのぼり、いちいち挙げるのは不可能に近い。
 1878年(明治11年)、ハーバード大学の掲示板に一枚の求人情報が貼り出された。日本の帝国大学で教鞭を執るエドワード・モースという人が募集したものである。アーネスト・フェノロサという青年がそれに応じた。来日した彼はどこか騒然とした日本を見た。前年に西南戦争という内戦が終結し、彼が来日する二ヶ月ほど前に大久保利通が暗殺されたからである。彼は秋から帝大で哲学や経済学を教え始めた。
 美術に関心の高かったフェノロサは、仏像、浮世絵、寺院や城などの壮大な建築物から小さな庵、庭園、屋根の甍、花生け用の竹籠や茶道具、飾り物などの工芸品など、様々な日本美術の美しさに心を奪われたのである。
「日本では全国民が美的感覚を持ち、庭園の庵や置き物、日常用品、枝に止まる小鳥にも美を見出し、最下層の労働者さえ山水を愛で花を摘む」と記した。彼は全国の古寺を旅し、また古美術品の収集や研究を始めた。ほどなく彼は強い衝撃を受ける。
 日本人は盲目的に西洋文明を崇拝し、憧れる芸術は海外の絵画や彫刻であり、日本政府は西洋化と近代化を急ぐ一方で、近代天皇制の権威確立のために廃仏毀釈に走っていた。仏像や仏画など、仏教に関するものは政府の圧力で破棄されていた。この愚かな弾圧は八年間続いた。
 大寺院は寺領を没収されて経済的危機に陥り、寺宝を安値で手放さざるを得なかった。地方の役人は出世のために廃寺の数を競い、その手柄を得意げに中央政府に報告した。役人が見守る中、僧侶が仏像を頭から叩き割らされ、焼却を強要された例もある。奈良の興福寺では寺領の没収と同時に僧は神官に転職させられ、戦国時代の兵火から再建された伽藍を再び破壊し、三重塔や五重塔も売りに出された。寺院の塀も取り払われ、寺域は鹿が遊ぶ奈良公園となった。
 琳派、四条派、狩野派も土佐派も世間から忘れ去られ、その襖絵も屏風も掛け軸も二束三文の扱いを受け、歌麿も北斎も写楽の浮世絵も、輸出用の陶器を包み、丸められ緩衝材として使われていた。それらに美術的な価値があるとは誰も思っていなかったのである。
 フェノロサは日本美術の保護に立ち上がった。自らの文化をほとんど評価しない日本人に対し、如何に素晴らしいかを熱誠を傾けて説いたのである。ちなみに彼は日本で生まれた長男にカノーと名付けた。狩野派のカノーである。
 日本人はフェノロサから「日本の美は素晴らしい」と力説されて、はじめて「へぇそうなのか」と思ったのである。その一事でロビン・ギルは「多くの日本人は真の審美眼を持っていない」と喝破した。その通りなのである。

 審美眼は教養のひとつである。当時の多くの日本人に教養や審美眼が欠けていたということもあろうが、その性向として、マスヒステリーに罹りやすいということもあるかも知れない。もちろんマスヒステリーは日本人に特有なものではない。人間は誰もが煽動者の暗示にひっかかる。
 つい近年にも日本人はマスヒステリーに罹っている。アメリカ様の年次改革要望書通り、先方主導の圧力を積極的に受容した扇動政治家に、郵政民営化のワンフレーズで踊らされたのである。悪しき選挙制度も利して、扇動政治家率いる自民党は圧勝した。郵政民営化は、アメリカ様が郵貯や簡保の巨額資金を欲しがったからである。
 その後の鳩山という下らない首相の唯一の功は、年次改革要望書という日本改造協議を停止したことであろう。しかしその後政権に返り咲いた自民党は、再び日米経済調和対話という名称で、アメリカ様の主導による協議を再開した。
 財界人が望み、政治家や官僚が推し進めているTPPは、日本経済にも社会にも全く寄与せず、害と破壊のみをもたらすであろう。彼等は自動車や電気製品等の輸出が伸びると言うが、何という嘘つきだろう。生産拠点を海外に移転している今日、それらの輸出は関係なく伸びるはずもない。アメリカ様がTPPに日本を誘い込んだ理由は、金融、保険、医療等、あらゆるサービス分野で日本に進出したいためである。農業分野はほんの一分野に過ぎない。特にアメリカ様はJAの解体と民営化を望んでおり、JA預金とJA共済の巨額資金を狙っているのである。またTPPによる食糧自給率の更なる低下と地球温暖化は、食糧安全保障上、日本をより危うくすることだろう。  
 日本の政財界人のほとんどは市場原理主義者であり、自由貿易論者と思われる。多くの自由貿易論者が主張してきた「自由貿易が経済成長をもたらす」という説は「証明されていない」と近年欧米の経済学者たちが発表している。彼等は言う。経済成長すると貿易量とその総額が増えることはある、と。
 市場原理主義者はアダム・スミスを原点とし、自由貿易論者はデヴィッド・リカードの比較優位論を原点にしている。しかしA・スミスは重商主義を批判していた。リカードは愚かしくも単純な仮説ゆえに説得力を持っていたのだろう。
 彼等が信奉する比較優位論からすれば、資源のない島国の日本における比較優位は「技術」なのである。それを労働力の安さが比較優位の国に技術移転し、生産拠点も移転する。その技術は移転先の国からすぐキャッチアップされる。技術力が同じなら労働力の安さが比較優位の国に敗れるのは当然である。さらに日本の生産と技術は空洞化するわけである。
 タイの工場地帯が水浸しになり、それが少し長引くと、車もカメラもプリンターも日本では数ヶ月待ちの状態になった。ある半導体メーカーは再び日本で生産することにしたが、日本は技術のないフリーターばかりで、すでに熟練工はおらず、わざわざ数十人のタイ人の熟練工をフリーター指導に呼び寄せたのである。これは日本の技術の空洞化の一例に過ぎない。日本の財界人のほとんどは売国奴と言って過言でない。
 先端技術の話ばかりではない。伝統技術も同様なのである。かつて日本を「職人を尊ぶ国」と称えたのは、知日派として知られたフランク・ギブニーであった。その職人も後継者不足で滅びそうなのである。
 兵器である刀を、工芸品、美術品にまで昇華したのは、刀鍛冶という日本の職人である。彼等は世界に冠たる鍛冶の技術を確立した。当然、和包丁にもその高い技術は受け継がれた。その和包丁は世界一の切れ味を誇り、今や世界中の料理人から求められている。職人がその一本一本を作っているのだが、やはり危機的なのである。
 古代、中国から朝鮮半島を経て「団扇」が入ってきたが、日本の職人はその団扇の技術を洗練し、さらに折り畳み式の「扇子」にした。そして扇子の技術も磨いた。しかし現在、日本で売られている扇子のほとんどは中国製である。日本の商売人が同じように作れと中国に持ち込んだのである。とても質が良いとは言えないし、絵柄も色も品位に欠けるが、当然とても安い。日本は「職人を尊ぶ国」なのであろうか?…

 あるとき、尾形尊信という方から、教えていただいたことがある。それは創業から二百年はおろか、さらに三百年、四百年と続く老舗企業の数は、世界でも日本が最も多いというのである。その理由を聞く時間がなかったが、何故だろうと考え続けた。…世界で創業二百年超の企業数は約八千社あり、その半数を日本の老舗が占めるという。日本には千年を超える企業も数社あるらしい。
 そこに「日本式」あるいは「日本的」物づくり、商い、経営等の神髄があるのではなかろうか。おそらく、生産量の拡大や、徒に売上げ増や成長を目指さなかったからであろう。受け継いだ伝統の技術を磨き、後継者や弟子を育てるという徒弟制度と責任感。オンリーワンを作り、守り続ける家業を代々繋いでいくという日本的家意識や、それを支える日本的雇用形態もあるのかも知れない。
 また同業者同士でその業界を守ろうという日本的ギルドとも言うべき座・株仲間意識、組合意識や共助意識もあったのではなかろうか。さらに談合という日本的ワークシェアリングで、徒に消耗戦を繰り広げる競争を避けてきたこともあるのではないだろうか。一度じっくり調べてみたいとも思うのである。
 
 日本とは何かということを、雑然と、とりとめも無く考えている。
 例えば「ボトルキープ」というサービスは日本にしかないそうである。とすれば、ボトルキープという英語は日本人が造語したのであろうか。
 例えば「世間」という日本語を和英辞典で引いてみる。 The world、society、community、people、the public…などとある。太宰治の「世間というのは個人じゃないか。世間が許さないのではない。あなたが許さないのでしょう」という所に、これらの英語を当てはめてみると、どうもしっくりこない。
 例えば日本語である、これは本当に凄い言語ではないか、世界で最も難しい言語ではないか。漢字があり、ひらがながあり、カタカナがある。漢字の読み方に音読みと訓読みがある。さらに音読みに漢音と呉音がある。呉音は仏教用語に多い。カタカナは外国語の発音や、擬音などに使用される。漢字には、ひらがなやカタカナの「ルビ(ruby)」が付けられることも多い。ルビは英語のカタカナ表記であるが、本来の英語のルビには日本人が使っている「ふりがな」の意味は無い。英語のルビは5.5ポイントの活字のサイズである。日本の印刷屋が、そのサイズの活字を「ふりがな」に使用したのである。そして日本以外に「ルビ(ふりがな)」を使用する国はない。
 日本人は英語が不得手でも、決して言語能力に劣っているわけではない。むしろ、これほど難しい言語を子ども時代から習得していくのだから、凄い能力だと思うのである。また様々な日本語が持つ表現の機微や曖昧さ、その表現の幅や広さ、深さ、美しさは、全く世界に類例のない言語なのではあるまいか。
 ここ数年、何度も読み返している本がある。森本哲郎の「日本語 表と裏」である。この本は、曖昧な日本語を考究したものである。…よろしく、やっぱり、虫がいい、どうせ、いい加減、お世話さま、気のせい、まあまあ、春ガキタと春ハキタ、あげくの果て、もったいない、どうも、参った参った…まさに日本語論であり、秀逸な日本論のひとつなのである。これは名著である。森本哲郎は知の巨人ではなかろうか。