今年、アンティークコインへの投資に関する本が出ていた。2冊ほど今年発刊されたようだ。
地元の大型書店に立ち寄ったら置いてあった。斜陽の我が地方都市では、コイン関係の書籍はほとんど皆無状態なのに投資となれば
コインの本でも買う人がいるのか。
アンティークコインにぶち込め…などといったタイトルである。
アンティークコインへの投資は、資産運用の一手段として欧米では富裕層には昔からある定着した方法なのであろう。
わが国ではその層が薄いかもしれないが、骨董品への投資がそれに当たるだろうか?
私が知りもしないような博物館級の希少な、高価なコインがこの世にはあるのである。それらへの投資を通じて資産運用の一手段としようとするのは、インフレヘッジの意味もあれば、通貨というものの信用力に対する先手を打った防御という意味もあろう。なんらかの信用不安が起き通貨の信用力が落ちても、古くから珍重される希少なコインは資産保全の有効な手段となりうると考えられるのであろう。
古くから侵略と略奪、ハイパーインフレを経験してきた欧州やアジア諸国ではこうした現物主義ともいえる感覚があると思われる。
中国人やアラブ人が金を身につけるのと根底では共通していると思う。以前穴のあいたコインの話を取り上げたことがあるが、
いざとなれば持って逃げることができると言うのである。
本の内容については読者諸氏も既に周知のことと思う。なにしろレビューを見るといいことずくめのようで、
私でさえも高価なコイン購入を想像してしまう。アンティークコインへの投資についてテレビでも紹介されたようだ。
しかし…
こうした類の本が出てきて、それがテレビなどでも紹介され、取り沙汰されるようになっている時、
それは往々にして、買い時ではない。むしろ株や為替の世界でいえばそれは売り時なのである。
それまでコインにはまるで興味のない人たちが集まってき、知らぬがままにガイド本を片手に買いに走る。
資産運用に最適とか、持っているだけで値が上がるとか、誰でもが容易に信じてしまいそうな説が流布されている時、
そうした説を容易に信じて買う人に対して、売る人がいるのだ。
投資の世界では、ガイド本の類を出す者の裏には、往々にして煽動の意図がある。
アンティークコインへの投資も、同じ投資の世界だと考えておいた方がいいだろう。
投資の世界での原則は、常に大多数の意見とは反対にいることだ。
だから、全員が買いに走る時は静かに立ち去るべき時なのだ。
決してバンドワゴンの最後列に並んではならない。
また、こうした穿った見方をしてしまう理由の一つに、金と銀の大相場のピークアウトが過ぎているのではないか?
との感じもある。アンティークコイン高騰の追い風に金銀の大相場があったことは紛れもなかろう。
いずれにせよ私には無縁だ。興味もない。
よって、今回もまた、陰鬱な矮小なコレクションとは完全に無縁な硬貨である。執拗にこうした硬貨を取り上げる。
というわけで、今回のコインもこれまた百数十円で買えるチープな小銭。
大戦中のオランダの5セント亜鉛貨である。
このコイン、形状は恰もイギリスの海峡植民地やセイロンあたりの角型のコインのごときであるが、
発行はナチ占領下のオランダである。
しかし質は戦時下の物らしくずっと悪質で、亜鉛でできており当然写真の物も実に粗悪、劣悪である。
白く錆が出始めており憂鬱な表面である。表面の絵も何だかわからないくらいすり減っているというよりもむしろ
自身で崩れていきつつあるかのような、良くないエッジの崩れ方とでもいうか、妙なすり減りがある。
そのため絵は見にくく、どういう絵柄なのか判別しにくく凝視しなけらばならない。
カタログとnumistaを見ると、額面記載のある面は左に海の9つの波を表す波線模様、右には麦の穂をあしらっている。
5cの表記の上下で年号が分割表記。上に19、下に42といった具合である。
裏面は二頭の交差された馬の頭部のシンボルと太陽の絵。
2.6g、18mmである。
その周囲にデコラティブに配置された線模様。エングレーバーはN.デ・ハースなる人物である。この人物はネットで見る限り
不明である。
このコイン、劣悪だがデ・ハースの絵自体は独特のアジがあり良いものである。
これが青銅貨あたりで作られていたらと思うと、デ・ハースは無念でなかったか。
ナチ統治下で発行されたこの戦時貨幣は、同時に1、2.5、5、10、25セント貨が作られ、デザインは全てデ・ハースが手掛けた。
それぞれの絵はなかなかアジがあり、他のオランダのコインにはない独特の風情を醸し出している。
しかし絵柄に反して、亜鉛貨という材質により黒ずみ、憂鬱な風情となっている。
戦争の陰惨さが影に染み込む。
オランダの四角形のコインはこれより以前の1913年に作られ始めた同形のものがすでにあった。
この形の物を踏襲して材質を変更して出したのがこれである。発行枚数は多く、当時小銭として使われた。1941年に
亜鉛の戦時下コインシリーズは作られはじめた。
私が買ったこの5セント亜鉛貨は1942年である。1942年にこのコインは1180万枚作られている。前年の1941年は3220万枚、
1943年は700万枚である。そして戦後新たに円形の5セント貨が出るまで中断した。ドイツ側にとって戦況が逼迫したためだろうか。
翌年には連合軍がフランス・ノルマンディーに上陸しドイツ目指し迫ってくる。
オランダは第2次大戦においては1940年にドイツ軍に降伏、ナチ統治下となる。王室およびオランダ政府は亡命。その後連合軍に
解放されるまでナチドイツ統治下におかれ、オランダ国内にもナチズムの狂気が跋扈する。
オランダに住んでいたユダヤ人たちも徐々にナチズムの暴風に飲み込まれてゆく。
アンネ・フランク一家もそうであった。
フランク家はオランダ人ではなく、もともとユダヤ系ドイツ人であった。アンネの父オットーは銀行家であり、アンネの祖父が設立した銀行
経営に携わり成功した裕福な家であった。オットーは第一次世界大戦にもドイツ軍砲兵将校として従軍し戦功により受勲もし、生き延びている。
またオットーの母は戦時国債に資産をつぎ込み、熱心な愛国者一家であった。
しかしこの戦時国債への過度の投資によりフランク家の銀行は第一次大戦後破綻する。とはいえ破綻後も凋落せず
それなりに裕福な生活を送ることができたようだ。
台頭したナチ・ドイツによるユダヤ人の圧迫がいよいよひどくなり、1933年、一家はオランダ・アムステルダムに移住する。
そしてオットーはアムステルダムで企業設立と経営に携わり、一息つくことができた。
しかしナチス・ドイツはオランダを1940年占領、オランダ在住のユダヤ人へも迫害を開始する。オットーはオランダまでナチに蹂躙されるとは予想していなかったという。(アメリカに脱出しなかったことを悔いたと思われるが、高齢の母がいたため余りの遠距離は無理だったという)
第二次大戦が進行するにつれてユダヤ人迫害は残酷にエスカレートしてゆく。1942年、一家は生命の危険が高まり、今も残る有名な隠れ家に(「後ろの家」と呼ばれる)移った。オットーの経営する会社の社屋にひそかにオットーによってつくられた屋根裏のような隠れ場所である。そこに息をひそめて1942年の夏から1944年8月のSSによる検挙まで隠れ家生活を送ることになる。そのさなかに書かれた日記のことについては言及するまでもなかろう。
1944年の8月に、不明の密告者によって全員ナチ親衛隊によって検挙拘束された。そして強制収容所で
アンネの父オットーを除くフランク家の家族全員、および同居のユダヤ人たちも死亡するのであった。
日記は隠れ家に残されていたものがオットーの会社の従業員が保存し、戦後生還したオットーに渡され、オットーの手により出版された。
アンネの日記出版までのいきさつは、本人も隠れ家生活の間、戦後に本を出すことを望んでいたとはいえ、偶然が幸運にも
重なり世に出されている。
アンネが強制収容所に連行された直後に放置された日記が協力者の社員によって保存され、また、オットーが唯一地獄の強制収容所から生還できたこともある。
隠れ家生活をしていたフランク家の人々の他、もうひとつの家族や歯科医の男性など、まず全員死亡していたら、
日記は誰にも手渡されなかったかもしれない。さらに生還したのがアンネと信頼関係が深かった父フランクであったこと。
もしフランク以外の、特にフランク家ではない他の同居人が生還していたら日記を目にしても出版されず忘却されていたかもしれない。
(あまり意味のない想像でもある。もとより不明の密告人さえいなければアンネも同居人たちも死なずに済んだかもしれない、そうであったならばアンネの日記ももしかすると世に出ていなかったかもしれない。)
アンネは母よりも父に懐いていたようだ。母に対する批判が日記に出てくることは有名である。
しかしこれは思春期的反抗もあるかとおもうのだが、彼ら、彼女たちが強制収容所に送られてからは
そうした心理、一般社会の親子の間によくある類の親に対するティーンエイジの子の理由なき反抗とか苛立ちなどといった
ある意味健全な人間的心理は、すべて雲散したと思われる。飢餓と病、暴力の恐怖によって。
彼等は全員囚人となった。1944年の8月以降…
そして同居人同士の痴話喧嘩、苛立ちや不満、食べ物や生活のやりとり、そうでないときの語らいやささやかな喜びといった類の人間的なものは消えたのである。アンネがびっしりと記述したものすべてが。
おそらくアンネも坊主頭にされ、縞の囚人服を着せられ、朝はコーヒーと呼ばれる濁った液体、昼は具のないうすいスープ、夜はわずかなパンとバターを齧り、虱にたかられ、骨と皮になるまで衰弱していたに違いない。
当初、アンネは母と姉とともにいることができたが、母と別れてアウシュビッツからベルゲン・ベルゼンへ移送され、そこで1945年2月ないし3月(推定)にチフスによって死亡。姉も数日前に死亡したと言われる。遺体は穴の中に他のユダヤ人死亡者とともに灰にされて遺棄されたと言われるが定かではない。
アンネの日記に目を通すと、思春期らしく性への関心事が書かれている。当初日記は自分自身のために書いていたのだから
書かれていて自然であろう。むしろ率直に性について書くところが聡明である。そして、こうした思春期の少女の心理の揺れがあったことが胸を打つ。恋愛をすることもなく強制収容所の露と消えたのである。
父フランクは銀行家であり富裕なユダヤ人であり、芸術や自然への愛好があり、アンネのよき理解者であった。アンネと衝突する母エリザベートとも仲の良い夫婦であった。母も芸術や自然への愛好があったという。
有名な隠れ家生活は1942年に始まった。ちょうど70年前。ちなみに隠れ家生活は1942年の7月からである。
アンネも数回は亜鉛のコインを手にして買い物をしたことがあったかもしれない。
今年中に取り上げたかったコインである。
地元の大型書店に立ち寄ったら置いてあった。斜陽の我が地方都市では、コイン関係の書籍はほとんど皆無状態なのに投資となれば
コインの本でも買う人がいるのか。
アンティークコインにぶち込め…などといったタイトルである。
アンティークコインへの投資は、資産運用の一手段として欧米では富裕層には昔からある定着した方法なのであろう。
わが国ではその層が薄いかもしれないが、骨董品への投資がそれに当たるだろうか?
私が知りもしないような博物館級の希少な、高価なコインがこの世にはあるのである。それらへの投資を通じて資産運用の一手段としようとするのは、インフレヘッジの意味もあれば、通貨というものの信用力に対する先手を打った防御という意味もあろう。なんらかの信用不安が起き通貨の信用力が落ちても、古くから珍重される希少なコインは資産保全の有効な手段となりうると考えられるのであろう。
古くから侵略と略奪、ハイパーインフレを経験してきた欧州やアジア諸国ではこうした現物主義ともいえる感覚があると思われる。
中国人やアラブ人が金を身につけるのと根底では共通していると思う。以前穴のあいたコインの話を取り上げたことがあるが、
いざとなれば持って逃げることができると言うのである。
本の内容については読者諸氏も既に周知のことと思う。なにしろレビューを見るといいことずくめのようで、
私でさえも高価なコイン購入を想像してしまう。アンティークコインへの投資についてテレビでも紹介されたようだ。
しかし…
こうした類の本が出てきて、それがテレビなどでも紹介され、取り沙汰されるようになっている時、
それは往々にして、買い時ではない。むしろ株や為替の世界でいえばそれは売り時なのである。
それまでコインにはまるで興味のない人たちが集まってき、知らぬがままにガイド本を片手に買いに走る。
資産運用に最適とか、持っているだけで値が上がるとか、誰でもが容易に信じてしまいそうな説が流布されている時、
そうした説を容易に信じて買う人に対して、売る人がいるのだ。
投資の世界では、ガイド本の類を出す者の裏には、往々にして煽動の意図がある。
アンティークコインへの投資も、同じ投資の世界だと考えておいた方がいいだろう。
投資の世界での原則は、常に大多数の意見とは反対にいることだ。
だから、全員が買いに走る時は静かに立ち去るべき時なのだ。
決してバンドワゴンの最後列に並んではならない。
また、こうした穿った見方をしてしまう理由の一つに、金と銀の大相場のピークアウトが過ぎているのではないか?
との感じもある。アンティークコイン高騰の追い風に金銀の大相場があったことは紛れもなかろう。
いずれにせよ私には無縁だ。興味もない。
よって、今回もまた、陰鬱な矮小なコレクションとは完全に無縁な硬貨である。執拗にこうした硬貨を取り上げる。
というわけで、今回のコインもこれまた百数十円で買えるチープな小銭。
大戦中のオランダの5セント亜鉛貨である。
このコイン、形状は恰もイギリスの海峡植民地やセイロンあたりの角型のコインのごときであるが、
発行はナチ占領下のオランダである。
しかし質は戦時下の物らしくずっと悪質で、亜鉛でできており当然写真の物も実に粗悪、劣悪である。
白く錆が出始めており憂鬱な表面である。表面の絵も何だかわからないくらいすり減っているというよりもむしろ
自身で崩れていきつつあるかのような、良くないエッジの崩れ方とでもいうか、妙なすり減りがある。
そのため絵は見にくく、どういう絵柄なのか判別しにくく凝視しなけらばならない。
カタログとnumistaを見ると、額面記載のある面は左に海の9つの波を表す波線模様、右には麦の穂をあしらっている。
5cの表記の上下で年号が分割表記。上に19、下に42といった具合である。
裏面は二頭の交差された馬の頭部のシンボルと太陽の絵。
2.6g、18mmである。
その周囲にデコラティブに配置された線模様。エングレーバーはN.デ・ハースなる人物である。この人物はネットで見る限り
不明である。
このコイン、劣悪だがデ・ハースの絵自体は独特のアジがあり良いものである。
これが青銅貨あたりで作られていたらと思うと、デ・ハースは無念でなかったか。
ナチ統治下で発行されたこの戦時貨幣は、同時に1、2.5、5、10、25セント貨が作られ、デザインは全てデ・ハースが手掛けた。
それぞれの絵はなかなかアジがあり、他のオランダのコインにはない独特の風情を醸し出している。
しかし絵柄に反して、亜鉛貨という材質により黒ずみ、憂鬱な風情となっている。
戦争の陰惨さが影に染み込む。
オランダの四角形のコインはこれより以前の1913年に作られ始めた同形のものがすでにあった。
この形の物を踏襲して材質を変更して出したのがこれである。発行枚数は多く、当時小銭として使われた。1941年に
亜鉛の戦時下コインシリーズは作られはじめた。
私が買ったこの5セント亜鉛貨は1942年である。1942年にこのコインは1180万枚作られている。前年の1941年は3220万枚、
1943年は700万枚である。そして戦後新たに円形の5セント貨が出るまで中断した。ドイツ側にとって戦況が逼迫したためだろうか。
翌年には連合軍がフランス・ノルマンディーに上陸しドイツ目指し迫ってくる。
オランダは第2次大戦においては1940年にドイツ軍に降伏、ナチ統治下となる。王室およびオランダ政府は亡命。その後連合軍に
解放されるまでナチドイツ統治下におかれ、オランダ国内にもナチズムの狂気が跋扈する。
オランダに住んでいたユダヤ人たちも徐々にナチズムの暴風に飲み込まれてゆく。
アンネ・フランク一家もそうであった。
フランク家はオランダ人ではなく、もともとユダヤ系ドイツ人であった。アンネの父オットーは銀行家であり、アンネの祖父が設立した銀行
経営に携わり成功した裕福な家であった。オットーは第一次世界大戦にもドイツ軍砲兵将校として従軍し戦功により受勲もし、生き延びている。
またオットーの母は戦時国債に資産をつぎ込み、熱心な愛国者一家であった。
しかしこの戦時国債への過度の投資によりフランク家の銀行は第一次大戦後破綻する。とはいえ破綻後も凋落せず
それなりに裕福な生活を送ることができたようだ。
台頭したナチ・ドイツによるユダヤ人の圧迫がいよいよひどくなり、1933年、一家はオランダ・アムステルダムに移住する。
そしてオットーはアムステルダムで企業設立と経営に携わり、一息つくことができた。
しかしナチス・ドイツはオランダを1940年占領、オランダ在住のユダヤ人へも迫害を開始する。オットーはオランダまでナチに蹂躙されるとは予想していなかったという。(アメリカに脱出しなかったことを悔いたと思われるが、高齢の母がいたため余りの遠距離は無理だったという)
第二次大戦が進行するにつれてユダヤ人迫害は残酷にエスカレートしてゆく。1942年、一家は生命の危険が高まり、今も残る有名な隠れ家に(「後ろの家」と呼ばれる)移った。オットーの経営する会社の社屋にひそかにオットーによってつくられた屋根裏のような隠れ場所である。そこに息をひそめて1942年の夏から1944年8月のSSによる検挙まで隠れ家生活を送ることになる。そのさなかに書かれた日記のことについては言及するまでもなかろう。
1944年の8月に、不明の密告者によって全員ナチ親衛隊によって検挙拘束された。そして強制収容所で
アンネの父オットーを除くフランク家の家族全員、および同居のユダヤ人たちも死亡するのであった。
日記は隠れ家に残されていたものがオットーの会社の従業員が保存し、戦後生還したオットーに渡され、オットーの手により出版された。
アンネの日記出版までのいきさつは、本人も隠れ家生活の間、戦後に本を出すことを望んでいたとはいえ、偶然が幸運にも
重なり世に出されている。
アンネが強制収容所に連行された直後に放置された日記が協力者の社員によって保存され、また、オットーが唯一地獄の強制収容所から生還できたこともある。
隠れ家生活をしていたフランク家の人々の他、もうひとつの家族や歯科医の男性など、まず全員死亡していたら、
日記は誰にも手渡されなかったかもしれない。さらに生還したのがアンネと信頼関係が深かった父フランクであったこと。
もしフランク以外の、特にフランク家ではない他の同居人が生還していたら日記を目にしても出版されず忘却されていたかもしれない。
(あまり意味のない想像でもある。もとより不明の密告人さえいなければアンネも同居人たちも死なずに済んだかもしれない、そうであったならばアンネの日記ももしかすると世に出ていなかったかもしれない。)
アンネは母よりも父に懐いていたようだ。母に対する批判が日記に出てくることは有名である。
しかしこれは思春期的反抗もあるかとおもうのだが、彼ら、彼女たちが強制収容所に送られてからは
そうした心理、一般社会の親子の間によくある類の親に対するティーンエイジの子の理由なき反抗とか苛立ちなどといった
ある意味健全な人間的心理は、すべて雲散したと思われる。飢餓と病、暴力の恐怖によって。
彼等は全員囚人となった。1944年の8月以降…
そして同居人同士の痴話喧嘩、苛立ちや不満、食べ物や生活のやりとり、そうでないときの語らいやささやかな喜びといった類の人間的なものは消えたのである。アンネがびっしりと記述したものすべてが。
おそらくアンネも坊主頭にされ、縞の囚人服を着せられ、朝はコーヒーと呼ばれる濁った液体、昼は具のないうすいスープ、夜はわずかなパンとバターを齧り、虱にたかられ、骨と皮になるまで衰弱していたに違いない。
当初、アンネは母と姉とともにいることができたが、母と別れてアウシュビッツからベルゲン・ベルゼンへ移送され、そこで1945年2月ないし3月(推定)にチフスによって死亡。姉も数日前に死亡したと言われる。遺体は穴の中に他のユダヤ人死亡者とともに灰にされて遺棄されたと言われるが定かではない。
アンネの日記に目を通すと、思春期らしく性への関心事が書かれている。当初日記は自分自身のために書いていたのだから
書かれていて自然であろう。むしろ率直に性について書くところが聡明である。そして、こうした思春期の少女の心理の揺れがあったことが胸を打つ。恋愛をすることもなく強制収容所の露と消えたのである。
父フランクは銀行家であり富裕なユダヤ人であり、芸術や自然への愛好があり、アンネのよき理解者であった。アンネと衝突する母エリザベートとも仲の良い夫婦であった。母も芸術や自然への愛好があったという。
有名な隠れ家生活は1942年に始まった。ちょうど70年前。ちなみに隠れ家生活は1942年の7月からである。
アンネも数回は亜鉛のコインを手にして買い物をしたことがあったかもしれない。
今年中に取り上げたかったコインである。