平和の為に何をやれるか、愚行積善備忘録、園田幸二のブログ

人間『死ぬまでの暇潰し』と思ってみても、日本人として、日本文化を愛し、歴史伝統を護りたい。日本の安寧祈願。旅

食事は品格

2017-11-04 12:26:07 | 日本人の思想
昨日、久しぶりに、
超久しぶりに、
游玄亭へ、
別に游玄亭に行くような事する?
必要はないのだが、

Yが『僕が全部出すから』
『行きましょう』
『こんな日は美味しいのさっと食べて帰りましょう』

それにしても、
游玄亭じゃなくてもいい、

【まあ、行きつけの店舗に連れて行きたいにだろう】

まあ、行くか?
タクシー嫌いの奴もむりやり
肉と言って乗せた。

注文も全て、主催者(連れ来た人)に任せた、

游玄亭のオリジナル赤ワイン
(コレ、美味くない、知ってる)
サラダもない
特上カルビ2人前、
特上ロース2人前

スープもない、
ご飯も無い、
キムチもナムルも無い、

御馳走してくれるから
全て、任せ、

それにしても、
游玄亭は料理はそんな良くない
叙々苑と変わりない、
しかし、
個室ぽい、
完全個室
着物が売り物


主催者
酔って、着物の店員に絡む、
絡む、
絡み方は
顰蹙モノ、

もう一緒に居て、
恥ずかしいぜ、

サッサと帰ろ~
としたら、
主催者
会計しようとしない、

着物着たスタッフ
困惑顔、

仕方ない
はい、
会計票見て
3万円出した、

そしたら、
主催者、
その着物のスタッフが持った伝票だけ、
無理やり見る。
(下品そのもの)
【見ている方も恥ずかし】

支払いするわけではない
帰ろ~
そのあとがまた悲惨、

もう恥ずかしい、

店員に、
すいません
すいません
と言いながら出た。

お腹の中は脂だらけ、
旨くない肉だった事だけは確か?

脂の多いカルビ、
ロースも脂が多かった、

そんな上等な物ではない、
生で食べれる肉ぐらい出して欲しい
1皿5000円程度なのだから、

それにして、
酔って、
恥ずかしい行いは決してしてはならない
このこの主催者を眺めていて
思った、

昔、
叙々苑には1500回位は行った、
それ以上かも
毎日、
目黒、中目黒、等々力、
歌舞伎町とか、
浜田山もか

入院した時、
病院の個室に
特上のハラミ弁当の差し入れを叙々苑の
スタッフが持って来てくれた、
懐かしい



存じ折のお店は
何処に食べに行っても、
好かれる
よくしてもらえる、
人と人とのつながり、
それが一番


最近は高級割烹や高級焼肉
高級レストラン行ってないなぁ~
今は、
一井の中で静かに楽しく
気持ち楽しく、
美味しく食べれるのが一番
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台湾の武士、ご冥福を

2017-07-18 23:14:25 | 日本人の思想
蔡焜燦氏を悼む
本年一番の『訃報』

「公」に尽くす日本精神を貫いた台湾人、
『日本人を叱咤した台湾人』

司馬遼太郎さんと超仲良しになった台湾人

よくぞ、戦中から生き延び、
よくぞ、日本を愛し続けて、
良き昔の日本人を体現していた人

さぞや、
李登輝先生も悲しんでおられる事だろう、

綺麗な日本人の精神を持った人物、
その人生は
『凄い』
そして、美しい、


『台湾紀行』で知り、
蔡焜燦氏の著書を読んだ、
『これは素晴らしい日本人』
日本の来られた時、
二度お会いした、
もう、そのオーラに携帯で写真撮るのも
憚られた。

以下『産経新聞より』

史上最長とされる38年もの「戒厳令」の
解除から30年を迎えた15日の
夏空を見届けるかのようにして、
蔡焜燦氏が17日、
台湾で90年の生涯を閉じた。

司馬遼太郎著「台湾紀行」に
博覧強記の「老台北」として登場するこの実業家。
戦後の台湾を強権支配した中国国民党政権の重圧を、
戦前の日本統治時代に受けた教育ではねのけて生きてきた。
 
憲法停止により政治活動や言論が弾圧され、
「白色テロ」と呼ばれる市民の一方的な逮捕や投獄が横行した時代。
高校生だった2歳年下の実弟、
焜霖氏がいわれなき罪で連行された1951年のこと。
拘束された建物の周囲で蔡氏は何週間も、
弟に聞こえるように日本語で名を呼んだり、
日本の歌を歌ったりした、
と話してくれたことがある。

国民党が中国大陸から連れてきた守衛らは日本語が理解できない。
「オレが必ず助けてやると焜霖に伝えるには、日本語で叫ぶのがいい」
と考えた。
だが、叫びもむなしく、
国民党政権に反発する文書を書いたとして、
焜霖氏は離島の監獄に10年間も監禁された。
 蔡氏は、
「助け出せなかった無念はいまも残る。
だが、
日本時代の教育を受けた台湾人は自分が正しいと考えれば屈しない。
焜霖は歯を食いしばり、必ず戻ってくると信じていた」
とも言った。
釈放後、焜霖氏も実業家として成功した。
 自ら「愛日家」を標榜(ひょうぼう)する蔡氏。
日本や日本人がただ単純に好きだからではない。
「社会という『公』に尽くす日本の精神。

教育を通じてわれらの世代から
子供、孫、ひ孫まで台湾人に脈々と生きている。
台湾の発展は日本教育があり、
人が育ったからこそ。
万人身勝手で
『私』の利益しか考えない中国人とは完全に異なる」
との意識からだ。



「台湾紀行」が契機となって、
李登輝元総統(94)と意気投合して親交を深めたのも、
戒厳令を経て民主化が始まった戦後台湾で、
互いに「公の精神」をブレずに追い求めていたことが即座に理解できたからだ。
2人の共通語は日本語だ。
 蔡氏は、
台湾総督府で戦前、民政長官を務めた後藤新平の言葉が信条だと話していた。
すなわち、
「カネを残す人生は下。
事業を残す人生は中。
人を残す人生こそが上」だ。
1人でも多くの日本人や台湾人に、
私財をなげうってでも「公の精神」を伝えたかった。
そして数多くの「人」を残して、
蔡氏は旅立った。

(元台北支局長 河崎真澄)

心よりご冥福をお祈り申し上げます。




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雲南、日本の原風景

2017-07-11 03:37:29 | 日本人の思想
司馬遼太郎の『雲南のみち』
少数民族のショーケースと言える雲南への旅、

少数民族好きな司馬遼太郎さん、
文面に好感してる雰囲気が出てる。
いい~
この雲南の棚田が日本の棚田の原風景
この稲作がこの雲南から始まり、
日本に辿りついた、

稲作の祖と言うべきこの人々は今でも稲作りに適した河谷に住んでいる。
しかし、このような河谷が必ずしも多くない、
為に、大人口を形成しなかった。
司馬遼太郎さんは
『もし、彼らが大人口を形成していれば漢民族に対抗出来る勢力となったであろう』
と、言っている。

さて、この雲南の稲作文化が長江(揚子江)を下り、
蜀(今の四川省)へ、
そして、下流へどんどん伝わって、
海に出た。

台湾にも伝わっただろうし、
黒潮に乗り、沖縄群島~南九州~土佐~和歌山へと伝わった。

そして、
コレが面白い
ミャオ族(苗族)がその役目を果たしたのではないか?
この苗族
古代より、
剽悍さ、勇猛さその特徴、
戦闘になって、
少数になっても意気盛んな特性
まさしく、
台湾の高砂族、薩摩の隼人、
司馬遼太郎さんは
『古代苗族は薩摩隼人に似ている』
と言った。

地平線の向こうに行くのに、
海図も無く、行くあてすらない?
小舟に籾殻を入れた袋と水、
海に押し出し、黒潮に流され、
進む、
もう、勇猛と言うより、
蛮勇~命知らず、

海の道で古代より日本と繋がっていた
大陸~台湾~沖縄群島~そして九州、

確かに言える事は
この雲南発祥の稲作文化は日本迄来た。
これは事実、
その冒険的に新天地を目指して来たのが
苗族ではないか?
多分、そうなのだろうと推察出来る。


雲南の少数民族の風習が旧い日本の面影を司馬さん見た。
そこに言いしれぬ愛情を持った目で見る司馬さん、
この本は面白い、
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池波先生~~

2016-05-03 22:09:38 | 日本人の思想
浅草は人だらけ、

池波正太郎 氏が眠るお墓へ向かう。

お供えはやはり日本酒、
27年。
もう。そうかあ

お墓参りにを終え、
遠回りをして、
浅草の中心街を避ける。


お好み焼き、
風流 染太郎~
この時期、
行列が出来てる~う~

どぜう(泥鰌)料理の飯田屋へ、行こうかあ~



故人が幼い頃行っていた
『蛇骨湯』

故人は 
オジさんに銭湯によく連れて行ってもらった
銭湯の後、
並木の藪蕎麦へ

何度も改装に改装を重ね、
今では綺麗な一戸建て、
今は禁煙、

懐かしい
故人の好きで飲んでいた
樽酒はしっかり
鎮座していた。

行列が出来て大変~


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台湾大地震に寄せて

2016-02-17 22:14:00 | 日本人の思想
台湾地震、
◎ 思い出されるの前回の台湾大地震

総統で有る李登輝さんは
即、本人が陣頭指揮に出た。

阪神淡路大震災の時に、
日本の総理大臣『村山』はなにもせず、
地元の自衛隊出動になかなか同意しなかった。

!そういえば、
阪神淡路の時は、村山左翼、
東日本大震災は、アホ管左翼、

日本を貶めようとする人間達が政権を握った時に大震災、
偶然なのだろうが、


台湾地震、思い出されるのは、
台湾の民間人から合計200億円の寄付、

余り、メディアは紹介しなかったが
台湾の80歳を超えた皆さんからの献歌。

実は、この献歌を読んで、
台湾の皆さんがこれほどまで考え、
激励してくれるのに、
日本人で有る自分達は何をしてるんだ、
との想いが強く生まれた。

是非、ゆっくり読んで頂きたい、

台湾の現在の高齢の方が親日なのは
よく知っていた。
それでも
この短歌には、
驚きと言うよりも、
旧き日本人をみた、感じた、
恐れ入った。



その時の献歌、

献詠-東北関東大震災の被災者の皆様へ

 謹んで東日本大震災でお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申しあげます。
そして被災された方々がご不自由な生活から一日も早く抜け出られますように、
日本の一日も早き復興と繁栄を台湾歌壇一同、
心よりお祈り申しております。

献花の一部 紹介

国難の 地震(なゐ)と津波に 襲はるる 祖国護れと 若人励ます     

蔡焜燦


『蔡焜燦とは、司馬遼太郎の(街道を行く・台湾編)で
台湾の案内人を務めた、老台北さん』


大地揺れ 大津波襲ふ  難さけし 東北の人に 幸あれかしと       

黄伯超

避難所の夜は 寒からう不安だらう 大震災を 凌ぐ人らよ 

高淑慎

国被ふ 災厄かも大なれど我信じゐる大和の民を          

高井敬子

福島の身を顧みず 原発に去りし 技師には 妻もあるらん 

花城可裕

『なんか万葉集の防人の詩みたい』
     

花城可裕

被災地の生と死の報道見続くる身の暖衣飽食詫びたき思ひに     
 劉玉嬌

原発に いざ立ち向かう 武士たちよ どうかご無事に 生きてくだされ
陳姿菁
『これは、凄い、この詩は、
第二原発の水蒸気爆発を止める為に
自衛隊が上空から散水した映像を観た感想、激励、』


(これも陳姿青さんだ)

日本人よ くじけないで 悲しみの 倍の喜び 返ってくるまで

(同上)

筆談で「日本どうか」と聴く 爺の手を 取りぎゅっと 唇噛み締む       

舘量子

被災地に 何かをすべきと 思へども 非力な我は 寄付と節電 
坂口隆裕

美しき 心のふるさと くずれ落つ サイコロのよう 只黙祷を          

鄭 昌

神あらば 心の祖国の 災難を とくとく鎮め 幸ぞ賜はれ           
 林禎慧

大なゐに津波にも負けぬ日の本の雄雄しき友どち立ち直れかし      
(同上)

再三の国難に 遭ひし我が友よ 春はそこま で近づきしものを        
(同上)

冬されば 春遠からじと人の言ふ日本の友よいざ団結のあれ        
(同上)

神風の 生れ代りか 原発を護る 勇士らに 神の加護あれ            
陳瑞卿

『自衛隊の事を激励してる詩』

大地震津波襲へる友邦に両手を合はせ無事を祈らん           
 江槐邨

未曾有なる大災難に秩序正し日本民族は世界の典範           
同上)

一瞬にて村諸共に影消ゆる遥かより謹みて黙祷捧げむ          
黄培根

テレビ見て心痛みただ涙ぐむ一日も早く復国あれかし           
高寶雪

東北の大地震津波の情報をテレビで見つつ我涙する            
謝白雲

幾度も電話にて無事確かむる昔なつかしき日の本の友へ         
 林百合

九度地震津波襲ひし日の本の友ら明るく生くるを祈る          
 陳珠璋

黙々と天災地変に耐へ抜きて復興に励む人ぞ美はし           
 李英茂

わが涙悲涙と感涙こもごもに被災にめげず生き抜く人ら         
(同上)

石巻の大地震と津波独り居の卒寿の師母は如何にぞと聞く         
林蘇綿

志して 励めよ復興 美しの日の本の国 不屈の魂               
陳清波

大地震原発事故の国難に従容として立ち向かふ日本            
荘進源

巨大なる 地震に命取られたる 御霊の冥福 只ただ祈る            
荘淑貞

国挙げて 未曾有の国難 対処する大和魂 存亡の秋              
姚望林

『時に秋(とき)を使うなんざ、いいね~~』

大地震相次ぐ津波「艱難汝を玉にす」頑張れ!日本            
林燧生

悲惨なる 災害なれど 日本の友よ 畏れず出せ底力 
林碧宮

涙のみ震災に挑む日本の友よしつかり頑張れ復興近し          
(同上)

被災地の皆さまよ気を落さずに諸人こぞりて慰問を捧ぐ          
蔡佩香

日の本の 被災の民に神々の 御加護あれかしと ひたすら祈る 

呉順江

持ち家もカーも ことごと流れゆく テレビニュースに 瞼がにじむ       

李錦上

地震津波跡 形も無く 痛ましき 慰めの言 只祈るのみ 
(同上)

荒れ狂ふ 津波に退避 報道す 大和女の 勲雄雄しき 
(同上)

『これはあの、逃げずに避難放送を繰り返し、
亡くなった女性の事を詠ったんだろうな』


日の本の民よ 頑張れ麗しき故郷(さと) 復興の日ぞ遠からじ

黄振聲

何もかも失はれても勇ましく立ち上がる人に賛歌惜しまず        
(同上)

雪の夜は如何に過すや校舎にて竦む避難者よ我も眠れず         
(同上)

敗戦を乗り越えて来し日本なり震災復興遠くにあらず          
 高淑慎

団結と 正義名高き 日の本に 神の御加護の 永遠に絶えざり         
 林聿修

未曾有なる苦難の冬過ぎ春近し復興の日の早きを祈りて         
(同上)

遠き日の母国日本の被災地に桜早よ咲け幸ともなひて          
(同上)

美しき祖国の沿海呑みこみて大津波すべてを攫ひ尽くしぬ        
 黄教子

世界中が見てゐる応援してゐると伝へてあげたき避難所の        
(同上)

恐怖不安寒さに耐へて秩序ある日本と言はれ悲しくもうれし       
(同上)

この先の 長き苦難の 道の辺に咲く 四季の花やさしく あれかし       
(同上)

曾ての日「吾が国」と 呼びし土地なれば 此の災害の身 に沁みていたし   
 鄭埌耀

理(ことわり)を忘れし神かや諍はず平和のみ願ふをかくも痛むる 
(同上)

なんど読んでも、
感慨深きものにて候、
心が洗われる想い、

台湾の現在の高齢の方が親日なのは
よく知っていた。
それでも
この短歌には、
驚きと言うよりも、
旧き日本人をみた、感じた、
恐れ入った。
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2015-05-06 22:13:35 | 日本人の思想
井上和彦談

かつて台湾は日本の植民地だったが、
親日を超えた「愛日家」を自任する台湾人男性が蔡焜燦(さい・こんさん)氏だ。
今年4月に、
14年前に小学館文庫から発刊された著書『台湾人と日本精神(リップンチェンシン)』が日本の読者の反響を呼び、
単行本の「新装版」として発刊されることになった。

そんな蔡氏が日本精神を失いつつある日本に警鐘を鳴らす。

 昨今、日本の警察や医療機関の不祥事、
さらには教育現場の荒廃を耳にすることが多い。
それでは先に述べたような「中国式(精神)」(日本精神と対義語で嘘、不正、自分勝手などの意)に染まった戦後台湾の腐敗と何も変わらない。


外交も同じだ。
日本と中国の間には数々の政治的、領土的、あるいは経済的な懸案を抱えているが、
そうした問題が起きるたびに中国に媚びるような発言を日本の政治家や経済人が口にする。
それを聞くと、
日本という国そのものが「中国式」に毒されているように感じてならない。


そうした原因が、戦後の日本で徹底された自虐史観と呼ばれる教育にあることは間違いない。
政治家も官僚も教育者も、そしてNHKや朝日新聞をはじめとするマスコミも感化されているのだろう。
だが、戦後70年間、中国の脅威に晒され続けている台湾では、
日本統治下で育まれた勤勉、正直、約束を守る、公を大事にするといった善行を意味する「日本精神」が今でも語り継がれ、子々孫々の代にも高く評価されていることを忘れないでほしい。



 戦後70年、
すなわち台湾が日本でなくなってから70年の歳月が流れたが、
私は米寿を迎えた今でも台湾を訪れる日本人にこう訴えている。


「日本という国は、現代に生きる日本人だけのものではない。
我々のような“元日本人”のものでもあるのだ。
先人たちが実践した、
日本精神を取り戻してほしい」

 この“遺言”が現代の日本人に届いてくれることを心より願うばかりである。


蔡焜燦:1927年、台湾生まれ。
台中州立彰化商業学校卒業。
1945年、岐阜陸軍整備学校奈良教育隊入校。
終戦後、台湾で体育教師となるが、後に実業界に転身。
半導体デザイン会社「偉詮電子股分有限公司」会長などを務める。
司馬遼太郎が『台湾紀行』の取材をする際に案内役を務め、同作中に「老台北」として登場したことでも知られる。
短歌を愛好する「台湾歌壇」の代表として日本文化を広く紹介してきた功績が評価され、
2014年春の叙勲で旭日双光章を受章。

●構成/井上和彦(ジャーナリスト)

一度、お会いした事が有る、
とてもいい感じ紳士
日本の良き時代の紳士
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陳瞬臣さん、ご冥福をお祈り申し上げます。

2015-01-23 02:47:13 | 日本人の思想
台湾人で生まれ、日本人として終わった。
陳さん

陳瞬臣の小説は凄い、
その細かさ、恐れ入る。
微に入り、細に入り、
よくもここまで調べたもんだ、
小説以外にも、素晴らしいモノを残した。

司馬遼太郎の言葉を借りれば、
 なんと言ったか忘れた??アレ??
とにかく、司馬遼太郎が尊敬した人物である事は確か、

ともかく、司馬遼太郎と同じ、大阪外語大、
台湾人として、素晴らしい人物、

司馬遼太郎が敬った程だから、
何冊か読んだが、
まあ、驚き、

90歳を過ぎに、遂に旅立った。
司馬遼太郎と一歳違いの筈、

昭和生まれの最後の文豪とすら言えなくもない、

村上春樹なんざ、足元にも及ばない。
その心、思想、

あの世で、池波正太郎、司馬遼太郎と旅の話でもしてね~~

それにしても
神戸に生まれ、神戸を愛し、
大震災から20年、
新聞で知ったが、
亡くなった時間が、震災時刻と同じ
午前5時46分。
だとは、

洒落た事をする医者もいたもんだ。

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神仏に祈願、

2014-10-23 20:09:59 | 日本人の思想

行人坂途中の 大黒天


病魔退散、


祈願成就の成就院、




最後は目黒不動尊、

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 

度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 

空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相 

不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 

無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 

無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽 

乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 

以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 

究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 

得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 

是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 

能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 

即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 

菩提薩婆訶 般若心経 


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雨上がり後の散歩

2014-05-13 15:23:56 | 日本人の思想
散策散歩、たまにはいい、
駐車場で薔薇を沢山育ててるお家が有る
種類が豊富で、まるで薔薇図鑑、

一つ頂戴と言いたいが、

檸檬の花、

ブルーベリーの花、
今年も出来る、食べる、


玄関先には黄色い花は必須。

つらつら考えるに、世につける薬の無い患者が沢山いるんだなあ~~

もう何年前だっただろう。

麻友の母親は癌告知、余命半年と宣告されても、
それでも、
その後も働いていた、
お金持ちも家に生まれたのでお金は充分持って嫁に来てたのに、
何故、
三人の娘には
『お母さんの事は大丈夫、それぞれこれからの自分の事は自分で考え、進んで行ってね』
と明るく微笑みながら言った。

母親が倒れ、麻友は付き添いで毎日病院へ、
入院から2ヶ月程たった或る日、
久しぶりに目黒に来た、
一緒にご飯食べたが、
泣いてばかりだった、
『最後まで付き添い、頑張らな!お前が泣いてどうする』

その日の帰りの電車の中で、麻友は母親の訃報に接した。

涙が止まらず、泣いたメール、

なんで、またまた出かけた日に、
なんと


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啼ける話

2013-12-05 21:25:00 | 日本人の思想
インド パール判事の話、

インド代表の東京裁判判事として、日本人被告全員の無罪を主張したことで知られるパール博士は、裁判後の昭和27年にも来日している。

この時、日本の教科書を見て嘆いたという。

「日本は侵略戦争を行った」と書かれていたからである


 ▼産経新聞社『教科書が教えない歴史』によれば、博士は「子供たちが歪(ゆが)められた罪悪感を背負って卑屈、荒廃に流されていくのを、見過ごすわけにはいかない」と訴えた。
こんなに早くから日本の歴史教育の問題点を見抜いた外国の識者がいたとは、驚くべきことだ。

 ▼パール博士だけではない。
恐らく戦前からの日本の歴史を日本人以上に正当に評価し、好意を寄せてくれたのはインドの人々だ。
まだ占領下にあった昭和24年には、東京の子供たちの願いを聞いてネール首相がゾウの「インディラ」を上野動物園にプレゼントした。

 ▼昭和35年、皇太子・同妃時代の天皇、皇后両陛下がインドを訪問されたとき、そのネール首相はこう演説した。
「日本の政策には同意できたもの、できなかったものもあったが、つねにわれわれは日本と日本国民、その美徳を尊敬してきた。日本は偉大である」。
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三島由紀夫 没後43年

2013-11-23 13:55:03 | 日本人の思想
11月25日は「憂国忌」です!

三島由紀夫氏没後43年 追悼会「憂国忌」
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

 11月25日 午後六時開演(5時半開場予定)
       星陵会館大ホール
 http://www.seiryokai.org/kaikan/map.html
会場分担金  おひとり 二千円(賛助会員は無料ご招待)。
        ご来場のかたには記念冊子などを差し上げます。

  <プログラム>
 司会   佐波優子
 開会の辞  『三島由紀夫の憲法草案について』(富岡幸一郎)
 
シンポジウム 
『憲法改正か自主憲法か』 
(三島由紀夫の改憲への意気込み、檄文)    
 井尻千男(評論家、拓殖大学名誉教授)
 小川栄太郎(文藝評論家、『約束の日』の著者)
藤井厳喜(政治学者)
松本徹(三島文学館館長)
 映像の案内      DVD「葵上」「卒塔婆小町」について 製作者
 語り芝居「冬のゆめ」について挨拶           村松英子
 事務局より
 全員で斉唱  「海ゆかば」
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一信教の怖さ、

2013-11-10 01:16:15 | 日本人の思想
ユダヤ人差別深刻化=3割が国外移住検討―EU調査(時事通信) - goo ニュース

自分の宗教が絶対(アブソルート)となると、
他の宗教は邪教となる。
敵対関係になる。
もうどれぐらいの長きに渡り争って来てもまだ出口が見つけれれない。
モーゼもムハンマドもキリストも
今のこの状態をいかに思ってるだろうか?

小さい頃から、
宗教とは平和の為に、皆の幸せの為に存在する倫理観みたいなものだろうと思っていた。

仏教ではない考えが西洋の宗教には有る。

日本の宗教、倫理観の方がおおらか、
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子供との約束を守るのが筋

2013-08-14 03:15:38 | 日本人の思想
子供達との約束はだいじだ、

昔、池波正太郎のエッセイで読んだ、、

池波正太郎は真田家にまつわる小説を数多く書いている。
その関係で先生は長野には何度も足を運んでいた。

その池波先生、
初めて松代へ行った時、
通りがかりの小学生に道を尋ねた。
小学生は懸命に説明してくれる。
先生はその小学生がいたくお気に入りになられたのだろう。
写真を撮ってあげたそうだ、

もう40年以上も頃の話、
当時はカメラもねえ~~高価な頃、

先生は少年に、
『東京に帰ったら、送ってあげるよ』
と言って先生は少年の住所を聞いて、別れた、

少年はその約束を皆に話しました。
ところが、誰も信じてくれません。
『行きすりの人の口約束なぞ、あてにならない』

しかし、少年は熱心に、楽しみに待っていた。
『約束したんだ、必ず来る』
その時、少年は相手が小説家池波正太郎とは一切知らなかった。

写真が少年の手元に届いた。
少年は喜んだ。

それからしばらくして、池波先生の元に少年の父親からお礼の手紙が来た。
『小さな者の為に、約束を守って頂き、これは私の息子にとって写真以上の、
かけがえのないモノを頂きました』

良い話だ、
その後、先生とその御家族は便り絶やさず、
先生は自分の家族を連れそのご家族の家にまで行った事もあるそうだ。

よく、言われる。
『福島の方ですか?』と、
なんでそこまでやるのといぶかしる人もいる。

福島の子供達に、また来るね。
と言った。
その約束は口約束で守るのが正論。
約束を守りに行き続け、既に40回近くになる福島行き、




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尊敬してやまない根本博

2013-07-06 22:43:28 | 日本人の思想
戦後、生きていた武士道の具現化を果たした男、
このような人々が今の台湾と日本の関係にいまだにいい影響を及ぼしてる事を教科書に載せましょう。

台湾が中国共産党から奪われずに済んだのはまさしくこの根本博のお蔭とすら言える。

現在、台湾が共産党に奪われなかった事は非常にいい事、今の台湾の民主化も無かった。

詳しくはhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E6%9C%AC%E5%8D%9A


因みにこの根本博 
福島県出身

義に殉じ、絶対強大な中国共産党に立ち向い、見事に勝利に導き、中国共産党の台湾進攻を諦めさせた男、

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隣国との問題 1

2013-05-14 23:50:11 | 日本人の思想
困った隣国問題。
世の中は意外に隣と仲が悪い場合が多い、
隣の方の性格が悪いと困った問題になるのは世の常。

さて、日本国の場合、
韓国・北朝鮮・中国との仲が悪いと言われて久しい。

何故仲が悪いのか?
何故、韓国・中国は日本は侵略国家だった、自分の国は蹂躙され大虐殺があったと喚き、
靖国神社参拝を反対し、日本の教科書に内政干渉して来るのだろうか?
そのくせ、こっそり支援金をたんまりせしめてる感じ、
中国の上海空港も中国の地下鉄も日本のお金が大量に流し込まれた。
お金も技術も日本からの影響で今の経済が有ると言えなくもないのは事実。

韓国の場合。
韓国、日本の幕末の頃、朝鮮半島には李王朝と云う政権が有った。
しかし、この王朝は国民の為になにもしない王朝と云えた。

幕末の頃、米国から政府の使者が朝鮮半島を訪ねた。
日本を経由して朝鮮に渡ったその使者は、
本国に『朝鮮半島は国の体をなしていない未開の地、国交など交わす必要なし』
との報告をしている。

人々の生活は余りにも非衛生的、道路言えない道、そこには汚物が無造作に垂れ流され、
字は読めない人々がほとんど、
名の無い人民がほとんど、
王朝は私利私欲の塊、人身売買は当然、

当時、世界は大きく動き出し、東アジアへ欧米の爪が延び出し、列強は侵略競争をしていた、
日本にもロシア、イギリス、フランス、アメリカが植民地にしようと虎視眈々と次から次へと来ていた。

日本はお金は無い、武器も旧来式、資源も乏しい、
しかし、綺羅星の如く、優秀な人材がいた、
あらゆる部門で世界に名だたる名を遺した多くの人物を排出した。
その影響で日本は侵略されずに済んだ。
それは江戸の文化が作り出した遺産と言える。

平和期に進化した各藩の独自の武士道、
それが日本を救った。
そして、明治を素晴らしい時代にしたと断言出来る。

あれ程日本が世界に対し見せつけた実力、その素晴らしさはない。
列強は驚いたと同時に恐怖した。

その一例が
東郷平八郎が読み上げた聯合艦隊解散之辞に感銘を受け、その英訳文を軍の将兵に配布している。

「軍人が太平に安心して、目前の安楽を追うならば、兵備の外見がいかに立派であっても、それはあたかも、砂上の楼閣のようなものでしかなく、ひとたび暴風にあえば、たちまち崩壊してしまうであろう。まことに心すべきことである。・・・神は平素ひたすら鍛錬につとめ、戦う前に既に戦勝を約束された者に、勝利の栄冠を授けると共に、一勝に満足し、太平に安閑としている者からは、ただちにその栄冠を取上げてしまうであろう。昔のことわざにも『勝って兜(かぶと)の緒(お)を締めよ』とある」

当時、英国のチャーチルに、その驚きを伝えている。

セオドア・ルーズベルトは親日家だった、その後のポーツマス条約で調停役を果たしてノーベル平和賞をもらうが、
徐々に日本脅威論者となって、日本を仮想敵国とみなすようになって行った。

日本はその後、帝国主義国家の仲間入りをするが、他の帝国主義国家と全く異質の性格を持った国だった。


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