今の世の中、親殺し
、子殺し
、ストーカー、お金の為に平気で老人を欺す。
そして益々その悪行は凶悪化、巧妙化が物凄いスピードをもって進んでる。
と言える。
小さな頃からの疑問。
『人の幸せとはいったいなんなのだろう。』
ブッタは全てを無にする事が究極の幸せだと言った。
逆説からすると、人間を不幸にするのは人の欲望、
業とも言える。
その業の原因を除去出来たらイイのだろうが、
そんな事出来る人間がいるはずもない。
現在の仏教はブッタの教えからほど遠いモノとなっている
ブッタは全ての煩悩を打ち消す事で永劫の幸せを得られると言った。
その為に、自分の為の修行。
それが小乗仏教、
ところが、そのような真似は誰にも出来ない。
インド北部で発生した
仏教は北へ、東へ、
中国のシルクロードの中央、崑崙の麓辺りで、
釈迦の弟子達が住民に釈迦の教えを説いても誰も理解出来ない。
そこの住民達は弟子達に言った。
その釈迦さんはどんなんだ、
そんな偉い人か、
そこでそこの住民達が釈迦の姿を作った、
初めての仏像が産まれた。
そこでその住民達は釈迦様の真似は出来なくても、
その偉いお釈迦様をお祈りする事で幸せを得る方法を編み出した。
大乗仏教の誕生で有る。
仏様に祈りを棒げ、この世の安然、自己幸福を求める仏教が産まれた。
今の仏教の殆どはこの大乗仏教、
夏目漱石はこの世の不幸の原因を人間の欲と言ってる。
嫉妬も意地悪も恨みも全ては人間の業から生れ出る。
また
吾輩は猫で「呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする」
人にはそれぞれ悩みが有り、
深い悲しみを抱えている。
漱石は『こころ』の中で悩みを抱えたままの先生に死を選ばせた。
悲しみを表にも出さず、ただ胸の奥底に沈めて、日々生きて行くしかないのか。
心の隙間を埋めてくれるモノは何もない。
一筋の光明を何処に求めるか?
漱石が草枕の中での書き出し、
『智に働けば角が立つ、情に棹せば流される、意地を通せば窮屈だ、兎角にこの世は住みにくい』
この小説の舞台の温泉地、
熊本県、小天温泉、
そこで年末からお正月を過ごした部屋で、
横になって考えた、
縁側に座って、漱石が眺めたであろう庭を眺めて、
思う事は、
怒らず、いからず、悲しまず、心を虚しくする事、
小天温泉への旅