平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

バルトの楽園その8 俘虜は勤務の一形態。

2006年11月01日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ


私の今週はここ(↑)で始まりました。
東京は、日比谷公園の中の老舗、松本楼です。
モーニング代わりのハヤシライス食ってきました。
思わず、ゆっくりし過ぎて、危うく、飛行機に乗り遅れるところでした(笑)。

で、先日から、たびたび、取り上げております、「板東俘虜収容所―日独戦争と在日ドイツ俘虜」という大著にみる第一次大戦の折りのドイツ兵俘虜についてです。
まず、俘虜というものの法的身分・・・についてですが、その根拠となるのが、先日も申し上げました明治32年(1899年)に調印されたハーグ条約だそうですが、ちなみに、昭和4年(1929年)には、第一次大戦の経験に照らして、ハーグ条約を改定したジュネーブ条約が調印されたそうですが、日本はこれに「調印」はしたものの、国内措置である「批准」をしていないのだそうですね。

従って、以後の日本軍将兵にとって、「ジュネーブ条約」は、身分ないし生命保証を求めるべき法的根拠を持っていなかったのだとか・・・。
何故そんなことになったのか・・・というと、これらの条約というものは、先日も触れました、「宣誓解放」にみられるような、ヨーロッパ諸国同士の戦争を前提としていたということがあり、この点で、当時の日本人には理解しがたい条約であったということが挙げられるようです。
ヨーロッパ諸国同士の戦争・・・とは、つまり、キリスト教国同士の戦争、価値観が共有される者同士の戦争と言うことですね。
そして、それを決定的にしたのが、俘虜という概念そのものの価値観が共有出来なかったことのようです。

第一次大戦当時、日本軍であろうと、ドイツ軍であろうと、将校は月給を受け取っていたそうですが、それが、俘虜になった場合、国際条約にどう書かれていたかというと、同著曰く、「俘虜の将校は捕まえた国の、それに相当する階級の将校が受け取るのと等しい額の俸給を、捕まえた国の通貨で受け取る」ということになっていたのだとか・・・。
つまり、「ドイツ将校が日本の俘虜になれば、仮にその人が大尉であれば日本陸軍の大尉の受け取るべき月給日本円で受け取る」のだそうです。
で、「戦争が終わった後、うちはおたくの将校にいくらいくら払った……と (相互に)貸借対照表で清算」をするといういふうになっていたと・・・。
ところが、大正8年(1919年)に締結された第一次大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約はそれを実行しなかったんですね。
まあ、ドイツ帝国自体が事実上、崩壊しているわけですから、したくても出来なかったのでしょうが・・・。

しかし、当時の日本はそれほど豊かな国ではありませんでしたから、日本側としては、「やってらんねーよ」ということになるわけで、陸軍省資料「俘虜取扱顕末」という陸軍省文書の中には、「このたびの戦争で収容所に対して日本側は五百何十万の巨費を使ったのに、これを回収できなかった」という、茶者曰く、「どこか、恨めしい雰囲気が漂う記述」があるのだとか・・・。

さらに、俘虜に対する日本側と欧米諸国の考え方の違いは、太平洋戦争での日本側の「生きて虜囚の辱めを受けず」で決定的になるのでしょうが、それ以前に、欧米諸国には「俘虜は勤務の一形態」という考え方があるようです。
従って、ドイツ側では、驚くことに、俘虜になっている間に昇進したりすることさえあったそうです。
実際、チンタオ総司令官であり、総督であったワルデック大佐は、俘虜期間中に昇任して少将になっていると言います。
まあ、ドイツ側としては、「辛い俘虜生活をよく耐え抜いてくれた」・・・というところなのでしょうが、この現象も、「宣誓解放」同様、おそらく日本側からすれば、「勤務なんてしてないじゃないか。」・・・ということになるわけで・・・。
(ただし、本国政府は「中尉を大尉にした」というような通達を相手国に伝える義務を持たないとかで、だから、日本側は「ワルデック大佐」のままにしておいて一向に構わないのだとか・・・。)
日本側は、どうにも、このことは釈然としなかったようで、ドイツ人俘虜に、100%の月給を支払うところを、休職給として60%を支払っていたといいます。

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