平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

幻の都 安土をゆく その5 私的にみる安土城放火の真犯人。

2006年03月17日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

安土城放火は織田信雄でも明智秀満でもないとすれば・・・。
おそらく秀吉でしょう。

重要参考人、羽柴秀吉には、この時点で、織田家の天下を簒奪しようと言う明確な意図があったことは間違いなく、となれば、安土に代わって、自家の「大坂に人々の耳目を集めるような城を造る」という構想云々以前に、人々の耳目を集めるような前政権の遺物があるということは、至極、迷惑な話であり、かといって、表だって、大恩ある亡き主君の城に火を掛けるということも憚られ、それなら、事態が混沌としているうちに・・・と。

こういうと、「いくら何でも考えすぎでは・・・。」と思われるかもしれませんが、あの、目端の利いた秀吉なら、このどさくさの中で、いや、どさくさの中だからこそ、配下に命じて、火を掛けるなんてことやりかねませんよ。
それに、燃えたのは山崎合戦光秀が敗れた後ですから、この時点でなら、秀吉じゃなくとも、ちょいと機転が利いた人間ならば、「こんな余計な物、今のうちに燃やしてしまえ!」と考えたとしても、それほど驚くには値しないように思えます。


(↑安土城天主閣跡・・・。)

実際、発掘調査では、天主閣の一部が大きく燃えているそうですから、即ち、城下から火が出た失火などではなく、あくまで、ここに火を付ければ天主閣が自重で崩壊するという、周到な計算の元で、誰かが意図的に放火したと言っていいのではないでしょうか・・・。
だとすれば、犯人は、相当に城の構造計算に熟知している人物か、もしくは、城への放火に慣れた人物(というよりも集団)だったか・・・。
少なくとも、姉歯建築士の関与はないようですね(笑)。

秀吉には、それを裏付ける状況証拠もあります。
先日も述べましたように、この後、安土を領有した秀吉の甥、秀次は、安土に拠点を構えず、隣の近江八幡へ新たな城を築きますが、そのとき、安土では、天主以外の建物のいくつかはまだ残っていたそうです。
秀次は、それらを(石垣なども含め)解体して移築したのは元より、不可解なのは、城下町ごと近江八幡へ移住させたとか・・・。
当時の城の建築には、よく、他の廃城の部材を再利用していたそうですから、建物や石垣の再利用自体は別に驚くことではないのですが、城下町ごと移転となると、普通に考えるなら、そこまでするくらいなら、安土城を修復した方が早いんじゃないのって気が・・・。
それをせずに、町ごと移転させるなどというのは、まるで、織田家というものがそこにあった痕跡さえ隠滅させる意図があるかのような印象さえ受けます。
まあ、秀吉でなくとも、専制君主にというものにとっては、圧政への裏返しで、民心に前政権時代を懐かしんでもらっては困るわけで、そうなると、いずれにしても、遅かれ早かれ安土城というのは消されてしまう運命だったのでしょうね。
(その意味では、明治新政府は、まあ、天守閣こそ無かったものの、よく、江戸城をそのまま、残しましたよね。)

ついでに、城の火災という点では、日本三名城の一つ、熊本城西南戦争開戦前夜、突然、不審火にて、炎上しております。
これは、犯人は未だに不明ということになってますが、ほぼ、間違いなく、熊本城に籠もっていた熊本鎮台司令官谷 干城の指示によるものだと思われます。
加藤清正が築いた戦国の名城も、明治の御代ともなると、兵器の進歩などで、石垣はまだしも、天守閣は逆に戦闘中に敵の砲撃などで自軍兵士の上に崩れ落ちる危険極まりない、まったくの無用の長物となっていたようです。
となれば、鎮台兵としては、何としても開戦前にこれを取り除いておく必要があり・・・。
つまり、城の不審火というものが、基本的にどういうものなのかが、おわかり頂けたかと思います。

もっとも、新政府側も、隠密裡に事を運ばないと、それでなくとも扱いにくいので有名な熊本人を敵に廻す恐れがあったことから・・・となったとか。
現に、熊本城が炎上したときの熊本市民の怒りは凄まじく、一気に、「薩摩憎し!」の気運が高まったと言います。

ということで、明日はどっちだ~♪(←昔持ってた「あしたのジョー」のレコードの中の「ジョーの子守歌」の一節です。・・・って、誰も知りませんよね・・・。やっぱ、違う話題がいいような気がして・・・。)

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