僕の平成オナペット史

少年からおっさんに至るまでの僕の性欲を満たしてくれた、平成期のオナペットを振り返る

「お菓子系」全盛期の回顧

2020-04-19 16:29:32 | 日記
 僕の自慰素材が主に十五歳から十八歳までなのを決定づけたのは、九〇年代後半に隆盛を極めた「お菓子系」との出会いだ。素人の少女による体操服(ブルマー)と学生服、スクール水着、下着を模した白ビキニのグラビアという非常にシンプルでクラシカルな構成に、マイナー志向の僕はすぐにはまってしまった。初めて買ったのはナンバーのない「クリーム写真集」だ。

 九〇年代前半から「すッぴん」を愛読している僕にとって、「お菓子系」の虜になるのは当然の流れで、以降AVを素材としての自慰はめっきり減ることになる。裸体よりも水着姿の女性に性的興奮を覚える同好の士は、当時僕の周りにいなかった。しょっちゅう下宿先に出入りしていた同級生に「クリーム写真集」での自慰を勧めると、彼は露骨に拒否反応を示すほどだったので、僕は誰にも自らの性的嗜好を打ち明けなくなった。

 会社勤めになってからも、「お菓子系」は僕の性欲を満たしてくれた。その頃になると、ワッフルだのホイップだの類似の雑誌も発刊され、モデルも掛け持ちするほど市場が広がった。彼女たちはアイドルではないため、歌唱力も演技力もトーク力も必要とせず、普段着ているものと違った学生服や体操着、水着を身にまとうだけでギャラがもらえ、僕はその雑誌を買うだけで満足した。

 しかし、撮影会に参加したモデルが性犯罪に巻き込まれたという報道に加え、モデルがセクシー女優に転じたという事実を知るにつれ、僕は「お菓子系」が当時の援助交際と紙一重なのでは、ときな臭さを感じるようになった。小規模の出版社が安い制作費でグラビア界に新たなジャンルを築いた功績は大きいが、小遣い感覚で集まった十八歳以下の素人を利用しようとする大人たちの悪巧みも誌面から感じ取っていた。

 九九年の児童ポルノ法施行に伴い、モデルから十八歳以下の女性がいっせいに姿を消し、市場は壊滅状態となる。競合誌は姿を消し、唯一残った「クリーム」も着エロまがいの誌面構成に僕は愕然とし、すっかり興味を失ってしまった。翌年は個室ビデオ店に出入りしてAVを物色したり、十八歳以上のグラビアアイドルを素材にしたりと、オナペット探しは迷走した。

 どういうわけか、十八歳以下のモデルは〇一年頃にしれっと復活し、僕も「クリーム」出身のグラビアアイドルをオナペットにするのだが、それ以降は「お菓子系」にかぎらず、芸能プロダクションも十八歳以下のモデルを抱えて各種媒体に売り込むようになり、「クリーム」を読まなくてもオナペットが探せるようになった。紙媒体で数ページのグラビアが掲載されても、すぐにイメージビデオが発売されるので、雑誌を買う必要性は薄れた。

 「クリーム」は児童ポルノ法改正の弾圧にも屈さず、現在でも隔月刊ながら「お菓子系」の孤塁を守っているが、僕が夢中だった「クリーム」のモデルはコスプレイヤーではなく、どこにでもいそうな素人で、しかも短い活動期間で去っていった人たちだ。中には一度きりの掲載にもかかわらず、長年にわたって僕の性欲を放出させてくれたモデルもいる。彼女たちの名前は永遠に忘れないだろう。

 「クリーム」を毎月書店でチェックしたのは九〇年代後半の約四年間で、いろいろなモデルのお世話になったが、特に印象的だったオナペットを振り返る。

古き良きAV女優

2020-04-19 16:21:27 | 日記
 僕の自慰素材のほとんどは十五歳から十八歳までの女性だが、五、六年周期でAVを用いたくなる。とはいえ、一、二回使わせてもらっただけで飽きてしまい、再びお世話になることはない。唯一、忘れた頃に見返してしまうのは「体育倉庫」という盗撮物で、六分足らずの尺にもかかわらず高校生カップルの性交の様子が生々しく、僕が初めて見てから四年以上経ってもネット上で拡散され続けているほど、女子校生好きにはたまらないコンテンツだ。

 僕がAVを素材に用いていたのは、大学生活と社会人になってからのほんの一時期だ。九〇年代前半は飯島愛や憂木瞳、桜樹ルイなどが代表的だったが、僕はAVでもマイナー志向を貫き、彼女たちの作品を一度も借りたことがなかった。一週間レンタルが可能な旧作で新人第一作を好み、同じ女優の作品を複数借りた経験は少ないから、今となってはそれらの作品の展開をかすかに覚えていても、女優の名前はすっかり忘れてしまった。

 記憶を紐解くと、三人の名前が挙がる。

 まず、鈴木奈緒だ。僕が借りた鈴木の作品の展開は、どういうわけか今でも鮮明に覚えている。OLに扮した鈴木が、同じ会社に勤めている男と同棲し、勤務時間中にもかかわらず複写室で性交に及び、その際に複写機が何度も作動する。鈴木は男のために会社内で不正を働くが、上司に見つかってセクハラの餌食となる。その様子を男が盗撮(盗聴?)していたため上司は失脚、鈴木と男が再び絡み合って幕を閉じる。鈴木の喘ぎ声が複写機の作動音とかぶるのと、上司の射精の飛距離が見事な演出だ。

 次に三森杏奈だ。「初恋ゼリー」という作品名でデビューした三森は、AV出演が家族にばれてしまったのを理由に即引退となってしまった。作品の終わりにテロップで引退の経緯を流したのに後味の悪さを覚え、三森は家族との関係がより険悪になってしまうのでは、と僕は勝手に心配した。

 巨乳とロリータフェイスを併せ持った三森は、一回目の絡みでパイズリと本番を経て射精した様子に、「大量だね」と感想を漏らしながら安堵の表情を見せ、三回目の絡みでは彼氏役の男優と乳繰り合っている際、「一日何回オナニーしてるの」と訊いた。出演を強要されているような素振りはなく、三森本人も楽しそうに撮影に参加しているのが画面越しで伝わるのに、デビュー即引退とは惜しいかぎりだ。

 もう一人は白鳥美香(桜井涼子)だ。旧作しか借りたことがない僕が、ジャケットを見て初めて新作を借りずにはいられなくなったのが白鳥のデビュー作「処女宮」で、男優に胸や陰部をいじられながらインタビューに答え、彼氏の家での初体験に「感激した」と何の躊躇いもなく打ち明けた後、本番へと移る。僕が白鳥に夢中になったのはスリムな体型には不釣り合いな大きな胸で、次作も借りるほどお世話になった。

 三人のほかにも、男優のペニスをいじっている最中に泣き出したり、男優が学生服のスカートに射精したり、いやらしい喘ぎ声と被さった潮吹きの際に男優(吉田潤)が「土へんじゃなくてさんずいのシオだよ」と説明してくれたりした作品を覚えているが、出演女優の名前が出てこない。いずれも有名にならなかった新人の第一作だと思うので、今後も特定するのは難しいだろう。



最後のアイドル歌手

2020-04-19 16:12:58 | 日記
 一九九三年三月。

 僕は大学進学のため、独り暮らしの準備を始めた。引っ越し用の荷物を整理する際、数日前に買った一冊の写真集を段ボールの底に忍ばせた。自慰用素材として生まれて初めて買った写真集は、新島弥生の「楽園をさがして」だ。

 新島は前年から僕のオナペットだった。書店で売られていたアイドル雑誌「BOMB!」で初めて新島の存在を知った僕は、ワンピースで胸の立体感がわかる彼女の表紙を見た途端、買わずにいられなくなった。裏表紙は新作シングルの広告だったはずで、CDの販促の一環として所属事務所が出版社に売り込んだのだろう。僕は歌手としての新島にまったく興味がなく、性欲処理の対象としか見ていなかった。

 思えば、僕にとって新島はアイドル歌手として最後のオナペットだ。九〇年代初めまで、アイドルといえば歌手だった。新島以外にも寺尾友美や井上晴美などを素材として用いていたが、彼女たちも歌手としてデビューしている。しかし、当時「冬の時代」と呼ばれたように、歌唱力のあるアイドルを育成できるほどの懐の広さは芸能界にはなく、アイドルはアイドルでもオナペットに特化したグラビアアイドルが市場として確立していった。

 新島は歌手が本業であってグラビアアイドルではない。だから、写真集の構成もすべてが水着姿ではなく、繰り返して使うには難があったので一年も持たずに処分してしまった。その頃はAVも気兼ねなく借りられるようになり、自慰の対象が十八歳以上に広がるなど、のべつ幕なしに素材を探していた。節操がない時期と言ってもよく、アルバイトやテレビゲーム、旅行などに時間を割いていたのも相まって、当時何回か用いた素材の名前は覚えているが、彼女たちをオナペットと呼ぶにはふさわしくない。

 歌手としても女優としてもメジャーになれなかった新島は、ヌード写真集でついに水着を脱いで乳房をあらわにしてしまったが、僕は二十代の彼女に興味はなく、相変わらず十五歳から十八歳までの素材探しに明け暮れた。新島は僕と同学年だが、もし彼女が五、六年あとに生まれてグラビアを本業としていたら、自慰回数の記録は伸び、もっと記憶に残っているだろう。

 「楽園をさがして」は十三、四年前に中古で再度入手した。その頃のグラビアアイドルと比較しても、水着は胸部の布面積が大きく、下半身はハイレグとはいえ臀部がしっかり覆われているという陳腐さに、僕はモデルへの演出がますます先鋭化に向かっていて、自らの性欲もそれに抗えないのだと痛感した。高校時代に性的興奮を激しく高ぶらせた新島の写真集は、三、四回使わせてもらっただけで押入れの収納棚行きとなり、引っ越しの際に処分した。

 十代後半から二十歳前後までは、女性の水着姿でも疑似本番でも漫画でも、ポルノグラフィであれば何でも自慰の素材としていたので、回数よりも記憶に残っているオナペットを厳選しないと収拾がつかなくなる。独り暮らしですっかり羽を伸ばした結果、僕にとって九〇年代前半は自慰人生の混迷期で、学業も中途半端になるなど周囲に迷惑ばかりかけることになる。



英知出版の「すッぴん」

2020-04-19 15:50:18 | 日記
 独り暮らしを始める前までは性欲に対して抑制的だった。家族の留守を見計らって自慰しなければならない煩わしさに加え、受験勉強や運動に時間と精力が分散化されていたからだ。それでも、同年代の女性に対して性的興味を持ち、性欲を満たしてくれる素材を探していた。写真集など買う金銭的余裕はなく、家族に見つかるのを極端に恐れていたので、素材はすぐに処分できる雑誌にかぎられた。その中で、英知出版の月刊誌「すッぴん」は僕の高校時代の性欲を支えてくれた一冊だ。

 「すッぴん」はメジャーアイドルを目指すモデルたちのグラビアで構成され、表紙にはモデルの名前だけでなく年齢が必ず記載されていた。十八歳未満がほとんどで、AVとのメディアミックスによるヌードもあった。この雑誌でのデビューを機に、タレントや女優にのし上がったモデルもいるほど誌面のクオリティは高かったが、このような雑誌は二〇一四年に改正された児童ポルノ法では3号に該当し、今日では所持すら禁じられている。

 僕は高校三年間、不定期で「すッぴん」を購入した。千葉麗子や三井ゆり、桜珠緒(現・さとう珠緒)、吉野公佳が巻頭の号を買った記憶があるが、彼女たちを素材に自慰した覚えはない。オナペットとして使わせてもらった中で、はっきり名前を覚えているのは高橋夏樹と小堺忍の二人だけで、あとはほとんど印象に残っていない。当時のバックナンバーを見返せば思い出せるかもしれないが、それらを今から集めたら刑事罰の対象になってしまう。

 「すッぴん」は成人誌ではなかったので、高校生の僕でも書店で買えた。大手出版社が刊行していた純粋なアイドル雑誌と明確に異なるのは、表紙にモデルの年齢が記されていたことで、十五歳から十八歳までが大多数を占めていた。高校生世代の少女を自慰の対象にしたい消費者に訴求する点においては効果的である一方、年齢を強調しなければ売れないというマイナー誌の露骨な販売戦略に、僕はますます所持が発覚するのを恐れた。

 自宅に持ち帰って家族に見つかるのを避けるために、書店で「すッぴん」を買い、帰宅途中に自慰してすぐに捨てた記憶がある。高校二年の五月か六月頃だったと思う。午後八時頃に母校である小学校に侵入し、常夜灯が一基だけある校舎の玄関で横寝の姿勢になってペニスをしごき、靴底の土砂を払い落す人工芝に射精した。人工芝の感覚とは対照的に、誰を素材にしたのかは今でも覚えていないし、今後も思い出すことはないだろう。

 僕は母校の敷地内で二回自慰をしたことになるが、もしかしたらあと何回かあるかもしれない。当時、この学校は校庭と接している門に人一人分通れる隙間があり、僕もそこから入った。夜間とはいえ公共施設内で下半身を露出していたのだから、公然わいせつ罪と器物損壊罪に問われそうだが、性欲が先立って罪の意識を感じていなかった。また、六年生の頃に複数の教師から罵倒されるなど母校を快く思っていなかったので、汚してやろうという気持ちもあった。

 大学生になってからも「すッぴん」を自慰の素材に用い、麻生久美子や三橋加奈子が巻頭の号も所持していたが、同級生はAVや「デラべっぴん」などのアダルト雑誌を素材としていたため、僕は彼らに自分の性的趣味を打ち明けるのを憚った。この頃になると、素材は自分より年下なので、それらを素材にするのを軽蔑する同級生もいた。しかし、僕はこの時点でオナペットの対象範囲が十五歳から十八歳までの水着姿の女性にほぼ固定されてしまったので、「すッぴん」が僕の平成期の自慰遍歴に多大な影響を与えたことになる。



江崎まりと母校の片隅

2020-04-19 15:43:00 | 日記
 一九九〇年一月。

 塾の冬期講習の帰りに立ち寄った書店で、僕は「DELUXEマガジンORE」という雑誌を立ち読みし、巻頭の江崎まりに一カ月半前の高橋由美子並みの衝撃を受けた。八九年度のミスマガジングランプリ受賞者で、メジャーデビューへの布石として同じ講談社の媒体でグラビアに挑んだのだが、一学年上のお姉さんとは思えぬ成熟した肢体に、僕はすっかり虜になってしまった。

 周囲を気にしながら、僕は何度も江崎のページを見返して性的興奮を高めた。当時、その雑誌を買えるだけの現金を持ち合わせていたかどうか覚えていないが、自宅内に所持していることへの抵抗感が強かったので、結局買えずじまいだった。それでも江崎をオナペットにしたい欲求は衰えず、高校受験が終わって無事志望校に合格しても、江崎のグラビアが掲載されている雑誌をチェックする日々が続いた。

 アイドルゆえにCDデビューしたが、僕は歌手としての江崎にまったく興味がなく、オナペットとしか見ていなかった。翌年には写真集も発刊したが、当時の僕にはそれを買うだけの金と勇気がなく、手に取るだけで表紙の表裏を見返すだけだった。しかし、写真集が買えなくても、江崎のグラビアが講談社の雑誌に掲載されないことはなかったので、立ち読みの日々は続いた。

 立ち読みによって江崎の肢体を目に焼き付け、それが失われないうちに性欲を発散する。帰宅する前に書店で何度も見返し、途中の小学校の片隅でそれを思い出しながら自慰したこともある。誰かに見つかったら痴漢とみなされ、警察に通報されるほどのリスクを当時は気にせず、僕は制服のズボンを下ろし、目を瞑って江崎の水着姿を思い出し、ペニスをしごいて射精に導いた。自宅が狭く、家族間のプライバシーがなかったことへの反発が、街路灯一つない夜の小学校敷地内での自慰行為に走らせた。

 講談社から発刊された江崎の写真集「VIVAMARI」は、十五年の歳月を経て中古で手に入れた。自慰用の素材はすでに紙媒体から電子媒体へ移行していたが、高校時代に買えなかった無念を晴らそうと、アマゾンで購入した。江崎のむっちりした肢体は相変わらず僕を興奮させてくれたが、水着のデザインや布面積、それに肌の露出はその当時のグラビアアイドルに比べて陳腐さが否めず、三、四回使わせてもらっただけで押入れの収納棚行きとなり、引っ越しの際に処分した。

 江崎はグランプリの看板を背負い、講談社のバックアップでメジャー入りを目指したが、知る人ぞ知るアイドルのまま引退してしまった。たとえ無名で終わっても、僕は欲しくても買えなかった思春期の苦い思い出として、江崎を時折懐かしむ。夜の小学校の片隅で自慰に勤しみ、月明かりが小屋の壁を伝う精液を照らしていたのを、僕は終生忘れることがないだろう。