初めてではなかった。調理場にいると、しょっちゅうパートの女性からちょっかいを掛けられる。大半が生真面目な将太を揶揄するものだったが、中には本気で迫る相手もいる。佳美もその一人だった。とてもからかっているとは思えない。その判断が間違っているかどうかは別にして、近頃の将太は求められたら迷わず応じてしまいかねない。
最近、妻の若菜は三人の子どもの育児に忙しくて、将太の扱いを後回しにする。三人も子供を産ませたら当然の成り行きなのだが、男は好きな女に邪険にされるのには耐えられない。といって、母親になった女は強くなる。下手に口や手を出そうものなら、そのしっぺ返しは容赦がない。結局押し黙って我慢を強いられるしかないのが男のサガである。
将太は寂しかった。だから、さっき佳美にふらつき掛けたのは自然の理だった。
「どうしたの?」
佳美だった。トリ小屋から出てこない将太に何かを察知したのだろう。もうひと押しとばかりに、佳美の目は怪しく光って見えた。
「いや、別に。盛り付け場が忙しい時間やで、みんな入ってくるさかい……」
「いいやないの。見せつけたったら面白いで」
佳美は意味ありげに笑った。マスクで隠れた顔の中で覗いている目が、そう見えた。将太は言葉を失った。めまぐるしく頭を働かせた。防衛本能が危険信号を点滅した。
「もうみんな知ってるもん」
「え?何を……」
「わたしが坂手さんと、おかしいって」
佳美は「クククッ」と笑った。
将太はショックを受けた。みんなが知っている……?俺と佳美がおかしい……?冗談じゃない。そんな仲じゃないぞ!
「初心(ウブ)なんだから、坂手さんて。だから好きなのよ。
佳美の手が伸びて来た。
「やめてくれ!」
将太は佳美の手を逃れてトリ小屋を出た。
「待ってよ。どうするの?」
「休憩や。胡瓜台が出来たら、もうこっちはええから盛り付けに戻ってや」
素気なく言ってのけた。大げさではなく魔女の毒牙を防げたと思った。
将太は調理場の裏ドアから外に出ると、自動販売機に向かった。缶コーヒーを買う。気が動転していたせいでボタンを押し間違えた。熱いコーヒーを飲まないとやってられないほどの寒さの中、将太の手には冷たい缶コーヒーがあった。慌てて小銭を出すと、熱いのを買った。ポケットに押し込んだ缶の冷たさで腿が痺れる。熱いのを飲み干してやっと人心地がついた。冷たさと熱さのやり取りは将太を冷静にさせる薬となった。
携帯の電源を入れた。作業中は切っている。メールを開けると、若菜からだった。
『いま仕事の真っ最中だよね。お疲れさま。こちらは三人ともやっと寝てくれたよ。みんなあなたにそっくりの寝顔。もうおかしくて。くだらない事メールしちゃったかな?明日の朝、好きなもの作っておくから、食べて下さい。以上です。頑張れ、おとうさん!』
(馬鹿やろう……なにが、おとうさんや)
将太は軽く毒づいた。その胸の内に温かいものが広がる。早く家に帰って、若菜と子どもらの顔が見たくなった。もうひと頑張りだ。
(……さあ、やるぞ!おとうさんは)
将太は空き缶を専用箱に放り込んだ。
調理場に戻ると、佳美がパート仲間と喋りながら胡瓜台を作っている。あれでは仕事ははかどらない。自分が、初心な男がまな板に乗せられて面白おかしく話題にされているのかも知れない。(勝手にやってろ!)
将太はマグロの刺身にかかった。あと三百切れ。邪魔が入らなければ瞬く間だ。
(おわり)
最近、妻の若菜は三人の子どもの育児に忙しくて、将太の扱いを後回しにする。三人も子供を産ませたら当然の成り行きなのだが、男は好きな女に邪険にされるのには耐えられない。といって、母親になった女は強くなる。下手に口や手を出そうものなら、そのしっぺ返しは容赦がない。結局押し黙って我慢を強いられるしかないのが男のサガである。
将太は寂しかった。だから、さっき佳美にふらつき掛けたのは自然の理だった。
「どうしたの?」
佳美だった。トリ小屋から出てこない将太に何かを察知したのだろう。もうひと押しとばかりに、佳美の目は怪しく光って見えた。
「いや、別に。盛り付け場が忙しい時間やで、みんな入ってくるさかい……」
「いいやないの。見せつけたったら面白いで」
佳美は意味ありげに笑った。マスクで隠れた顔の中で覗いている目が、そう見えた。将太は言葉を失った。めまぐるしく頭を働かせた。防衛本能が危険信号を点滅した。
「もうみんな知ってるもん」
「え?何を……」
「わたしが坂手さんと、おかしいって」
佳美は「クククッ」と笑った。
将太はショックを受けた。みんなが知っている……?俺と佳美がおかしい……?冗談じゃない。そんな仲じゃないぞ!
「初心(ウブ)なんだから、坂手さんて。だから好きなのよ。
佳美の手が伸びて来た。
「やめてくれ!」
将太は佳美の手を逃れてトリ小屋を出た。
「待ってよ。どうするの?」
「休憩や。胡瓜台が出来たら、もうこっちはええから盛り付けに戻ってや」
素気なく言ってのけた。大げさではなく魔女の毒牙を防げたと思った。
将太は調理場の裏ドアから外に出ると、自動販売機に向かった。缶コーヒーを買う。気が動転していたせいでボタンを押し間違えた。熱いコーヒーを飲まないとやってられないほどの寒さの中、将太の手には冷たい缶コーヒーがあった。慌てて小銭を出すと、熱いのを買った。ポケットに押し込んだ缶の冷たさで腿が痺れる。熱いのを飲み干してやっと人心地がついた。冷たさと熱さのやり取りは将太を冷静にさせる薬となった。
携帯の電源を入れた。作業中は切っている。メールを開けると、若菜からだった。
『いま仕事の真っ最中だよね。お疲れさま。こちらは三人ともやっと寝てくれたよ。みんなあなたにそっくりの寝顔。もうおかしくて。くだらない事メールしちゃったかな?明日の朝、好きなもの作っておくから、食べて下さい。以上です。頑張れ、おとうさん!』
(馬鹿やろう……なにが、おとうさんや)
将太は軽く毒づいた。その胸の内に温かいものが広がる。早く家に帰って、若菜と子どもらの顔が見たくなった。もうひと頑張りだ。
(……さあ、やるぞ!おとうさんは)
将太は空き缶を専用箱に放り込んだ。
調理場に戻ると、佳美がパート仲間と喋りながら胡瓜台を作っている。あれでは仕事ははかどらない。自分が、初心な男がまな板に乗せられて面白おかしく話題にされているのかも知れない。(勝手にやってろ!)
将太はマグロの刺身にかかった。あと三百切れ。邪魔が入らなければ瞬く間だ。
(おわり)
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