Gメン75
1975年から82年ころまで続いたテレビドラマ。
配役に丹波哲郎、若林豪、氾文雀なんて名前、憶えありますか?
無邪気
最近、とんでもない所にラーメン屋がオープンしているのに気付いた。
西道路を北上。泉架橋を登る直前に側道へ。側道は200m足らずで終わり飯坂街道に接続する。
側道右手は架橋の壁。左手にこの店があるのだが、直面する信号を注視しなければならないため、この店の存在を気にする余裕は無い。
更に、この側道を通る人種は限られ、ラーメンを喰いたい人種ではない。
「言っちゃ悪いけど、とんでもない所に出店したもんですね。店の前は歩けない。飯坂街道からも店は見えない。信号待ちで並んだ車の内1台が偶然にみかける程度の店ですよ。」
「なにおっしゃいます。私ら、もっと見えないところで店出してたんですよ。TUF(テレビ局)の裏の裏で。やっと日の目をみたんです。」
「へエー? そんなもんですか? ところで俺、40年ぶりで、ほんとに美味いワンタンメン喰ったです。こんな味、福島では喰えないですよ。」
「ありがとうございます。この味、私ら、横浜で修業して来たんです。」
「横浜?そうですか。40年前のラーメン屋のおやじさんも横浜で修業して来たと言ってました。いやー、この味、俺にとっては幻の味、伝説の味です。」
中町食堂
知ったかぶりが大好きな俺は、ワンタンメン1杯でこの店の奥さんに中町食堂について、延々と講釈をたれたのであります。
中町食堂は、福島県庁に向けて立つ27階建のマンションの背中のほうにあった。
メニューはラーメンとワンタンメンの2つしかなかった(と思う)
どちらも醤油がベースで、知らない客が「あのー 味噌ラーメン」などと注文しようものなら、店主は急に不機嫌になって「そんなの よそへ行け!」って怒鳴る・・・・生意気ラーメン屋だった。
中町食堂は夫婦でやっていて、味に対しては絶対の自信を持ち、生意気ラーメン屋の真骨頂だ。
この生意気度に憤慨して絶対に行かない人、俺のように優柔不断の者は、怒られないように緊張して入店した。
日生のおばちゃん
お昼ちょうどの中町食堂は日生のおばちゃんで埋っていた。今は生命保険にはネットで加入する。この時代、保険契約は中年女性に格好の職業だった。日生のおばちゃん達は中町食堂で日々情報交換していたようだ。
中町食堂は街の医院よろしく番号札を取らなければならなかった。番号で呼ばれるまではカウンターに行ってはならないのだ。
知らずにカウンター席に座るものなら「札!」って怒鳴られた。「番号札を取って待て」なんてお客を見下すラーメン屋。時代の鏡だったのか。
店の壁には*スターの色紙が誇らしげに掲げてあった。中町食堂の評判は、福島市公会堂にやってくる芸能人達にも知れ渡っていららしい。
うわさを聞いた。中町食堂には息子がいて東京のテレビ局でデレクターをやっている。と。
中町食堂のワンタンメンはホントに美味しかった。1ケ月も食べないでいると
飢餓感に襲われた。この飢餓感は「何か麻薬のようなモノを入れてんじゃねえか?」と言う者までいた。
昭和が平成に変る前に店主が突然死んだ。
口の悪い人は「毎日、スープの味見をして塩分を摂り過ぎんだべ」と揶揄した。中町食堂のご夫婦はご近所との仲がすこぶる悪かった。葬式には花環はあがらないだろうな・・・と思っていたらズラリと
こんな写真、あるわけないでしょ。俺が苦労して作った。
異様な光景だった。花環はGメン75の出演者めんめん。えっ?芸能人が死んだんか?街の人達はそんなふうに思った。息子がいて東京のテレビ局でデレクターをやっている噂は本当だった。
長い旅から戻って来たY君を冒頭の無邪気に連れて行き、ワンタンメンを食べさせた。ヤロは何の感慨もなく喰った。
ワンタンメンに関しては俺は文化を持っている。ヤロは文明だけ。