ハーベスト・タイム『収穫の時』

毎月発行の月刊紙『収穫のとき』掲載の聖書のお話など。

「続・優先順位」の法則

2006-04-13 | 魅力的な人になるためのレシピ
◆4月号◆魅力的な人になるためのレシピ(12)「続・優先順位」の法則


 前回は、仕事における「優先順位」を取り上げました。今回は、人生における「優先順位」について考えます。

 先日、大阪の八尾市でタクシーに乗った時のことです。いつものように運転手に話しかけると、気さくに身の上話を聞かせてくれました。十数年前まで不動産の仕事をしていたが、バブルで会社が倒産して今の仕事を始めたこと、最近昔の仲間が会社を再建して自分を誘ってくれたが、今のままの方がいいので断ったことなどを教えてくれました。「タクシー運転手のいいところはなんですか」と訊くと、「金儲けにこだわらないなら、これほどいい仕事はない」との返事が返ってきました。「勤務中は、まことに自由である。夜勤も含めて二十時間ほど働けば、翌日は休みになる。自分は糖尿病なので、適度な運動が必要なのだが、休日には野球やゴルフを楽しむことにしている。こんなにいい生活はない」とのことでした。
 その話を聞きながら、この人は人生の達人だなと感じ入りました。人生の優先順位をはっきりさせてそれを選び取り、生きることを楽しんでいるのです。短い時間でしたが、学ぶものがありました。

あなたの優先順位は?
 「あなたの優先順位は?」と訊かれても、なかなか答えられないものです。ほとんどの人が、普段はさほど優先順位を意識せずに生きているからです。質問を変えて、「今までで一番嬉しかったこと、一番悲しかったことは?」と訊かれると、優先順位についてより具体的なイメージが湧いてきます。喜んだり悲しんだりすることと、優先順位とは密接に関連しているからです。
 人が手に入れたいと願っているものは、仕事の成功、経済の安定、健康、自由な時間、魂の平安、家庭、円満な人間関係、名声など、実にさまざまです。しかし、それらのものは互いに相反する要素を持っており、一つを追求し始めると、他を犠牲にせねばならなくなります。すべてを手に入れることなど不可能なのです。そこで、どうしても優先順位を決めなければならなくなります。「勝ち組」「負け組」といった言葉は、ある単一の価値基準からすべての人を評価しようとするもので、優先順位が確立されている人には関係のない言葉です。優先順位がはっきりすれば、すべての人が真の意味での「勝ち組」になることができます。

 目標を決めて、それに向かって進んでいく生き方は魅力的なものです。しかし、「何を(what)」達成したいかを決めるだけでは不十分です。その際大切なことは、「なぜ(why)」その目標を達成したいと思っているのかを考えることです。その作業は、人生の優先順位を再確認することにつながります。家族を幸せにするために仕事に精を出すお父さんが、子どもと遊ぶ時間もないほど忙しいとしたらどうでしょうか。これでは、本末転倒です。金持ちになるために一生懸命に働いた人が、過労で病気になり、貯めたお金を治療のために費やしたとすると、それはほとんど笑い話です。しかし、これに近いことが私たちの人生には起こります。

最も大切なもの
 さて、先ほど上げたキーワードをもう一度見てみましょう。「仕事の成功、経済の安定、健康、自由な時間、魂の平安、家庭、円満な人間関係、名声」などがそれでした。あなたはこれらのキーワードの中で、どれを最優先させますか。最初が決まれば、後はだいたいふさわしい場所に収まるものです。私は、「魂の平安」が一番大事だと考えています。

 大学時代、人生とは何かを考えて、悩んでいた時期がありました。今から思うと、それは「優先順位」を決めるための悩みであったように思います。無神論者であった私は、すべてにおいて「自分の判断こそ最終的な基準である」という考え方で生きていました。ある時、クリスチャンの友人に誘われて教会に行き、それがきっかけで聖書を読むようになりました。難解な書だなという印象がありましたが、福音書の中にあるイエス・キリストのこのことばには感銘を受けました。

 「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう」(マタイの福音書16・26)

 キリストのこのことばは、全世界の価値(物質的な富)と人の命の価値(魂)とを比較し、後者の方がはるかに重要であると看破しています。団塊の世代の一員として、有名校に入り、有名企業に就職し、地位と済的安定を得ることだけが人生の目標のようになっていた私には、脳天を叩かれたような衝撃でした。
 さらにこのことばは、「そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう」と問いかけてきます。当然のことながら、私は考え始めました。「自分のいのちは失われているのか。もしそうなら、その状況をどのようにして変更できるのか。買い戻せるとしたら、自分は何を差し出すことができるのか」
 そういう疑問をもったことが、いわゆる求道生活の始まりとなりました。

 それからおよそ二年後、私は洗礼を受けてクリスチャンとなりました。求道生活を通して一番分かったのは、創造主から離れていては、あるいは反抗していては、「魂の平安」を得ることができないということです。また、私のいのちを買い戻すために、神の御子が人となり、十字架にかかって死んでくださったことも理解できました。不思議なことですが、そのイエスを救い主として信じた瞬間から、「魂の平安」を経験するようになりました。ですから、私の人生で最優先すべき事項は、「魂の平安」を維持し、深めることだと思っています。私にも、現実の生活の中で平安を失うような言葉を発したり、行動を起こしたりすることがたびたびあります。しかし、優先順位がはっきりしていますので、容易に軌道修正をすることができます。

 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイの福音書6・33)