ハーベスト・タイム『収穫の時』

毎月発行の月刊紙『収穫のとき』掲載の聖書のお話など。

愛の随想録(6)「逆説的成功」

2007-06-06 | 愛の随想録
◆6月号◆愛の随想録(6)「逆説的成功」

神の交渉術
 『スティーブ・ジョブズ 神の交渉術』(竹内一正著、経済界)という本が今年の二月に出版された。スティーブ・ジョブズとは、アップルコンピュータのCEO(経営最高責任者)で、破天荒な手腕で何度となく窮地から這い上がってきたすご腕の経営者である。それにしても、「神の交渉術」とはたいそうな書名を付けたものである。著者の竹内氏は、ジョブズの「驚異の交渉術」にスポットを当ててこの本を書いたという。
 書名もさることながら、各章ごとのタイトルにも驚かされる。一章「『正義』は最悪の武器である!」、二章「棍棒を突きつければ敵も協力者になりたがる」、三章「『正しい答え』より『目新しい答え』を言え」などなど。まるで、マキャヴェリズム(権謀術数)の教科書のようである。マキャヴェリズムとは、『君主論』の著者マキャヴェッリに由来する言葉で、通常は「目的のためには手段を選ばない」とか、「目的は手段を正当化する」といった意味に理解されている(もちろんこれは、マキャヴェッリの真意を誤解したものである)。この本を読む限り、ジョブズの交渉術は状況に応じて変化自在、相手に勝つことだけが目的の冷徹なものであることを感じる。その交渉術を貫いている原則は、「ビジネスの世界では、いかなる手段を使ってでも勝つことが重要である」という価値観であろう。確かに、このような交渉術によって大成功を収めることがあるかもしれない。しかし、その結果何が残るというのか。

悪徳への投資
 現在米国には、「社会に貢献している企業」にのみ投資を行う投資信託が、百五十種類ほどあるという。ところが、二〇〇二年にそれとは正反対の投資基準をうたい文句にした投資信託が登場した。「悪徳投資信託」として知られる一連の投資信託がそれである。その理念は、「社会的に問題があると考えられる企業」に投資するというもので、対象となるのは、嗜好品、ギャンブル、軍事物資関連の企業などである。この投資信託の企画者たちは、「人間の弱点や暗部に訴えかける企業は、不況にあっても倒産することはない」と深く確信しているのである。
 ダン・アーレンスという人物は、「悪徳投資信託」の元マネージャーであるが、新たに「ゲームとカジノ投資信託」を始めた。その経緯を、彼は『悪徳への投資』という本の中で紹介している。彼の信念は、不況が来ても人間の悪癖は直らない、株式市場でどのようなことが起ころうとも、人々は悪徳を求め続けるであろうというものである。さらに彼は、戦争には経済的利益が伴うとも書いている。今のところ、この種の投資信託は確かに成果を上げている。「悪徳投資信託」はこの五年間で二十パーセント以上の配当を行っているのだ(Omaha Sunday World-Herald 7-16-06)。
 問題は、このような投資がいつまでも順調に果実を生み続けるかどうかである。いずれ、どのような投資が正しかったのかが明らかになる日が来るであろう。

逆説的成功
 聖書が教える成功とは、「逆説的成功」とでも呼ぶべきものである。「自分を捨てれば命を見出す」、「謙遜になれば上に引き上げられる」、「隣人にとって益となることをすれば、自分も豊かになる」などがそれである。極めつけは、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」(マタイ20・26)であろう。
 これを書きながら、かつてハーベスト・タイムのゲストにもなってくださった資生堂の元社長(現相談役)、池田守男氏のことを思い出した。池田氏は、資生堂の業績をV字回復させたことでよく知られている経営者である。資生堂の業績が低迷する中で、池田氏が採用した方策は、「逆ピラミッド型」組織の構築であった。つまり、組織図の一番上にお客様を置き、次に販売の第一線に立つ社員を現場の上司が支え、さらにそれを部門の上司が支えるというものである。そして、組織図の一番下で全体を支えるのが社長の役割だというわけである。このような組織の長のあり方を「サーバント・リーダーシップ」という。池田氏は、「会社や社員は、組織やその長に奉仕するのではなく、お客様とその先にある社会に奉仕するもの。会社は社会の中で生かされているということは奉仕者の精神で意識され鮮明になる」と語っている。
 「サーバント・リーダーシップ」の精神は、聖書が教える「逆説的成功」と軌を一にするものである。

人としての道
 以下は、米国オレゴン州のポートランドでの話である。
 この町にはホームレスがたくさんいる。毎週金曜日の夜になると、近隣の教会のクリスチャンたちが大挙してバーンサイド橋の下に集まり、そのホームレスたちのために奉仕活動を行っている。温かい食事を出すだけでなく、散髪や髭剃りの奉仕もしている。その上、洗足までしているのだ。奉仕者たちは、ホームレスの足を湯の中につけ、あかを洗い落とし、タオルでぬぐってからパウダーをはたき、清潔なソックスを履かせるそうである。足を洗ってもらったホームレスたちは、この喜びを言葉で表現することはできないと、異口同音に感想を述べている。その様子を取材したトム・クラッテンマーカーという記者(USA TODAY)は、感動の余りこう書いている。
 「奉仕者たちがここでしていることは、今まで私が見た中で最も憐れみと謙遜に満ちた行為である。誰かの足を洗うためには、膝を折って屈まねばならない。彼らは、ホームレスの前にひざまずき、悪臭が立ち上ってくる足を洗うのである。これ以上の謙遜があろうか」
 この教会の牧師は、信徒を奉仕に送り出す前にこうメッセージをしている。
 「今夜の奉仕では、主イエスを捜してほしい。皆さんは、酔っ払いやホームレスの目の中に、主イエスを見出すことであろう。……いずれにしても、私たちが出かける目的は、隣人を愛するためである」

 この話を読んだ時、私も脳天を叩かれたような感動を覚えた。自分には到底できない奉仕かもしれない。しかし、今の世の中にこのような人たちがいることに励ましを感じた。そして、歩みはのろくても、真の奉仕者への道を歩みたいと心から願った。
「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒20・35)