ハーベスト・タイム『収穫の時』

毎月発行の月刊紙『収穫のとき』掲載の聖書のお話など。

◆5月号◆ 愛の随想録(28)「健康と不健康の差」

2009-05-01 | 愛の随想録
買い物をする場合
 日本のクリスチャン人口はなぜ増えないのか。外国に行くと、この質問をよく受ける。こちらが答えを教えてほしいほどである。原因は種々考えられると思うが、その中の一つに、「必要性を感じない」というものがある。
 買い物のことを考えてみよう。買い物をする場合、二種類の買い方がある(衝動買いは除いて)。一つは、何が必要かを知っていて、それを探して買う場合である。数か月前に、使っているノートパソコンが古くなって誤作動を起こし始めたので、新しいものに買い換えた。高価な買い物なので、慎重に機種選びをした。これは、何が必要かを知っていて買う場合の例である。もう一つは、商品カタログを見ているうちに、これが欲しかった、これが必要だった、これがあれば便利だ、などと気づかされ、その結果購入する場合である。今朝私は、男性向けの雑誌を繰っていて、折りたたみ可能なパナマ帽があることを知った。これがあると、夏日の外出には便利だろうと考え、急にそれが欲しくなった。この場合は、知らされて初めて必要に気づいたのである。専門的には、「潜在的需要が喚起された」ということであろうか。
 以上の例を福音宣教に置き換えてみよう。最初の例は、自分には救いが必要であることを自覚し、自発的に真理を求めている人のことである。いわゆる「求道者」がそれに当たる。次の例は、救いの必要性に気づいていないが、どこか(誰か)から福音に関する情報を得たために、必要性に気づいた、興味を持った、という人である。日本では、前者の例は少数なので、後者の例が多くなるように努力する必要がある。つまり、霊的な文脈の中で、どうすれば「潜在的需要の喚起」が可能かを考える努力をするということである。

無知であることの悲劇
 オークブルック・キリスト教会(米国イリノイ州)の牧師であるダニエル・マイヤー師は、最近の説教の中で、次のような体験談を語っている。
 「何年も前のことであるが、エクアドルの山地を二週間ほど旅したことがある。そこには、クチュア族というインディオたちが住んでいる。彼らは、信じられないほど劣悪な環境の中で生活していた。病人や、体が変形した人を、あちこちで見かけた。そのような人たちと出会うたびに、心が痛んだ。害虫はどこにでもおり、悪臭が生活圏の中に立ち込めていた。インディオたちは、地面に掘った穴に住み、それを『家』と呼んでいた。彼らは、日常的に腐った食物を食べており、生ゴミを宝物のように大事にしていた。それがいかに不衛生なことであるか、知らないのだ。どうしてそうなっているのか。それは、誰もがそのように生きており、それ以外の生き方を知らないからだ。彼らは、健康な生活をしている人間を見たことがない。そのため、豊かな人生とはどのようなものなのか、知らないのだ。
 私たちもまた、これと同じ問題を抱えている。ほとんどの人が自分のことを、『そんなに悪い人間ではない』と考えている。つまり、自分が霊的に病気で異常な状態にあることには、気づいていないのだ。キリストの十字架に関心を示さないのは、そのためである。
 ダビデは、詩篇一四篇で、宇宙で唯一健康なお方が、異常な状態にある私たち人間を見ておられると書いている。
 『主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない』
 言い換えると、私たち人間は、有罪判決を受けているが、それに気づいていないのである」

 マイヤー師の主張は、そのまま日本の状況にも当てはまる。私たちは、日本という島国の中で「常識」とされているライフスタイルに従って生きている。外見は奇抜な格好をしたり、斬新なものを造ったりしても、中身はなかなか「常識の範囲」を超えることができないでいる。つまり、日本人の大半が、「みんなと同じように生きていれば安心だ」という世界に住んでいるのである。

信仰は聞くことから
 ローマ人への手紙一〇章一四節には、次のように書かれている。
 「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう」
 まったくその通りで、福音という情報を伝達する人がいないなら、誰も、罪の赦しや永遠のいのちについて聞くことはできない。さらに、聞かなければ信仰は生まれないし、信仰がないなら、神に祈ることもないわけである。
 私は、この聖句からチャレンジを受けている。そして、「宣べ伝える人」としての責任を、精一杯果たしたいと願っている。一昨年の九月から東京の恵比寿でハーベストフォーラム東京の定例会を始めたのも、そのためである。「宣べ伝える人」には、忠実であることが要求される。つまり、いくら話が面白くても、それが人間から出た情報に留まっているなら、エンターテインメント(娯楽)に過ぎないということである。そのため、ハーベストフォーラム東京の定例会では、聖書を解説することに徹してメッセージを語っている。大網を打って大漁になるというわけにはいかない。どこまで行っても、一本釣りである。しかし、「神のことばはむなしく、神のところに帰っては行かない」(イザヤ書55・11参照)とある通り、徐々に成果は上がり始めている。

 クチュア族の中から、健康な生活がどのようなものであるかを体験する人が一人でも出たら、どうであろうか。その人が、懸命に「健康と不健康の差」を説き続けるなら、クチュア族全体の将来が激変することであろう。私たちも、この日本にあって、「健康と不健康の差」を説き続ける人にならせていただこうではないか。