大阪市北区で行政書士・海事代理士・マンション管理士を営んでいる原田行政書士法務事務所の駅ブログ

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「伊丹」という地名のあれこれ!

2015年03月18日 | 伊丹

私は兵庫県の伊丹市で生まれ育ちましたが、文献上に“いたみ”という文字がはじめて登場するのは、権中納言忠観の日記「山槐記」の1180(治承4)年11月23日にある“伊多美武者所”の文字で、前後の文章の内容から明らかに“いたみ”だとされています。

そして、“伊丹”という文字が正式に出てくるのは、それから100年ほど後の川西の多田神社にある1303(嘉元元)年9月15日付の「出雲国守田地寄進状」という文書で、“摂津國伊丹村”と記されています。

一方、“伊丹”という名字に関しては、鎌倉時代に「伊丹」を名乗る武士が活動を始めたらしいですが、文書上で初めて出てくる伊丹姓は、1309(延慶2)年の古文書で、さらに南北朝時代の1353(文和2)年の文書には“伊丹城”という文字も出てきます。
こうしてみると、伊丹という地名が先に出てきたのか、それとも伊丹姓の名前が先なのかどちらも決め手になるものがなく謎が多いです。

ちなみに、上記の伊丹城というのは、南北朝時代に摂津国国人だった伊丹氏によって築かれた城でした。
しかし、戦国時代の1574(天正2)年11月18日に荒木村重が伊丹親興を倒して、伊丹城を惣構えの難攻不落の城に大改修したうえで有岡城と改名しました。 そしてこの改修された有岡城は、ポルトガル宣教師のルイス・フロイスが「甚だ壮大にして見事なる城」と讃えられたほどでしたが、今度は荒木村重自身が謀反を起こしたことにより織田軍に攻められ、10ヵ月にわたる攻防の末、1579(天正7)年11月19日に有岡城は落城し、翌年、池田之助が有岡城主となります。

それから3年後の1583(天正11)年に城主の池田之助が美濃の岐阜城主に国替することになり、ついに有岡城は廃城となってしまいました。

その後、その城下町は日本一の酒造の町に変身し、1715(正徳5)年には72軒もの造り酒屋がこの界隈に軒を並べていたといいます。 当時の日本酒の主流は濁り酒でしたが、伊丹は透明な清酒発祥の地とされ、「丹醸」や「伊丹諸白」は江戸でも大好評で、将軍家の御膳酒にもなりました。 そのころ、この伊丹から江戸へ出荷された清酒は、年間およそ20万樽(4斗入り)もあったそうです。

しかし、江戸末期から明治にかけて急激に衰退し、今では2軒の酒造会社が残るだけとなりました。



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