天北線は、北海道中川郡音威子府村の音威子府駅から稚内市の南稚内駅までを結んでいた全長148.9kmの全線単線非電化のローカル線でした。
(音威子府)-上音威子府ー小頓別ー上頓別ー恵野ー敏音知ー周麿ー松音知ー上駒ー中頓別ー寿ー新弥生ー下頓別ー常盤ー浜頓別ー山軽ー安別ー飛行場前ー浅茅野ー猿払ー芦野ー鬼志別ー小石ー曲淵ー沼川ー樺岡ー恵北ー声問ー宇遠内ー(南稚内)
天北線は、日本統治下の南樺太への連絡鉄道として建設された宗谷本線の当初のルートでした。音威子府から稚内へは天塩線ルートの方が短距離であるにもかかわらず、大きく迂回する北見線ルートが先行し、1922(大正11)年11月1日に稚内まで全通しました。
しかし、1926(大正15)年9月25日に音威子府~南稚内間に、より距離の短い天塩線が幌延経由のルートで開通すると、1930(昭和5)年4月1日に天塩線が宗谷本線に編入され、音威子府~浜頓別経由~稚内の旧来のルートは北見線として分離されました。
そして、1942(昭和17)年6月10日に常呂郡野付牛町が市制施行して北見市となり、網走本線の野付牛駅も同年10月1日に北見駅に改称されていたことから、1961(昭和36)年10月1日の全国的なダイヤ改正を機に北見線は天北線に改称されました。さらに、稚内駅から札幌駅直通の急行「天北」も走り始め、当初は連日満員の盛況ぶりでした。
しかし、天北線は昭和40年頃から貨物・利用者共にが減少し、1981年の営業係数(100円の売り上げを得るために必要な費用)は887にまでなっていました。そのため、1980(昭和55)年12月27日の国鉄再建法(日本国有鉄道経営再建促進特別措置法)施行による特定地方交通線選定の際には第2次特定地方交通線に選定されますが、営業キロが148.9kmもあった長大路線であったため地元の自治体が特別な配慮を求めたことや、沿線道路が未整備だったため、冬季の代替輸送に問題があるとして一時廃止承認が保留されたものの、その後、運輸省(現・国土交通省)の調査結果を受けて1985(昭和60)年8月2日に追加廃止承認されてしまいます。 沿線自治体は天北線対策協議会を開いて存続運動を展開しますが、1988(昭和63)年に開かれた第4回対策協議会でやむなくバス転換を受け入れました。
そして天北線は、1987(昭和62)年4月1日の国鉄分割民営化により北海道旅客鉄道(JR北海道)に承継された後、1989(平成元)年5月1日に廃止されました。
ちなみに、廃止時まで急行「天北(札幌~稚内)」が運行されていましたが、第三セクター鉄道など他の事業者に運営を引き継ぐことなく、優等列車が運行された状態で全線廃止となった路線は、国鉄・JRの歴史上当線が初めてでした。
(上音威子府駅)
(小頓別駅)
(上頓別駅)
(敏音知駅)
(松音知駅)
(中頓別駅)
(下頓別駅)
(浜頓別駅)
(飛行場前駅)
(浅茅野駅)
(猿 払 駅)
(芦 野 駅)
(鬼志別駅)
(小 石 駅)
(曲 淵 駅)
(沼 川 駅)
(樺 岡 駅)
(恵 北 駅)