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A Diary

本と音楽についてのメモ

カメラ目線

2005-12-02 00:45:48 | 日々のこと
最近とみに、監視カメラが増えてきた。たとえば、毎日歩く新宿の街には防犯用のカメラが多数あるのに気がつく。ロンドンの街には驚くくらい監視カメラが設置されていたが(オーウェルの『1984年』みたいに・・・ただし音声は拾っていないと思うが)、東京にもそういうカメラが目立ってきた。

別に悪いことをするわけでもないのに自分の姿が撮影されているのは、あまり気分のいいものではない。銀行のATMに防犯カメラがあるのは、場所の性質上、まあよしとしよう。駅の改札口にもカメラがついているが、あれはきっと、ばっちり録画されていると思う。仕事をサボって電車に乗って出かけたりすると、本気で調べられたりしたら、自分の行動がばれてしまうわけだ。コンビニにも監視カメラは必ず設置されているし、道路にもカメラはついていたりする。エレベーターの中にもマンションの入り口にもある。ファミレスにも牛丼屋にも。もはや、何にも記録されずに行動するのは不可能な世の中のようだ。

こんなことを書きつつ、実は僕の職場自体が24時間監視カメラで録画されている。その結果、僕の1日の仕事ぶりも完全に録画されている(カメラの死角が多少あるのは確かで、そこに逃げ込むこともあるが)。先日、その録画を再生する必要が生じて、ついでに自分自身の仕事ぶりを観察してみたのだが・・・自分の姿勢とか、話し方とかが気になる。もっと背筋を伸ばしたほうがいいかな、とか。今回再生が必要な場面には幸運にも入っていなかったようだが、後輩たちとしゃべったりして、仕事中にくつろいでいる様子もちゃんと録画されているはずだ。気をつけないと。

「再生する必要が生じて」と書いたが、この件は僕自身が勤務中に警察署へ行ってくるような、実はなかなかの事態だった。32歳にして生まれて初めて警察署なる建物に入り(既にたくさん警察にお邪魔した経験があったりしたら、それはあまりよろしくない)、警察署というものに関して多少感想も持ったのだがそれはまた別の話。ちなみに僕が悪いことをしたのではないので、くれぐれも誤解のないようによろしくどうぞ。そして、その録画した画面は証拠として警察に提出することになった。従って、僕の真面目な(・・・あるいは、正確には、くつろいだ)仕事ぶりもまた警察署の証拠物件倉庫の中で、公に数年間保管されることだろう。

ということで、現代人の一員として、僕もまた常に撮影されているという心構え、俳優のような心構えを持って生活すべきなのだろうか。ときどきカメラ目線を送ってみたりしながら。うーん・・・絶対無理、間違いなく。そういう、肩こりがひどくなるような事態は勘弁してほしい。僕にできるのは、監視カメラをそっと睨み返してみることぐらいが関の山。

『パーマネント・ウェイ』

2005-11-30 02:03:56 | 日々のこと
少し前のこと。某自動車メーカーが欠陥を隠蔽していたことが問題となった。さらに、問題発覚後の対処の手際もまずく、そのメーカーの売上は激減し、経営危機にまでいたったことはまだ記憶に新しい。企業の経営が行き詰まるのも大変だろうが、このメーカーの欠陥車のせいで交通事故が発生し、実際に死者も出ているのだ。人命が失われているのだ。

さらにそれ以前のこと。某有名乳業メーカーの製品から大規模な食中毒事件が発生。その後、そのメーカーのずさんな衛生管理が露呈し、工場の閉鎖、スーパーなどからの製品の締め出しが起きた。その後、グループ企業の食肉偽装事件もあって、この企業グループは再編を余儀なくされた。この問題の発端となった食中毒事件では、死者こそ出なかったが、なんと13,420人もの人が健康を害し、食中毒と認定されたのだ。

今現在、マンションなどの建築物に関する耐震強度偽装問題が起きているが、経緯を見ていてもわかるとおり、もはや責任のなすり合いになっている。関係する建設会社は既に不渡りを出したそうだが、今後もマンション販売会社などの経営が行き詰まる公算が高い。そして、一番損をするのは結局マンションの購入者だろう。経済的な面もそうだが、強い地震が突然襲ったらどうなってしまうのか。

いずれのケースも、企業の提供する製品やサービスのせいで「お客様」が犠牲者となる。そして原因は結局、企業の持つ無責任体質。責任の押し付け合い。無気力やいい加減さ。

現代イギリスの劇作家デイヴィッド・ヘアーの手による『パーマネント・ウェイ』の上演を先日観てきた(三軒茶屋のシアタートラムにて)。この劇は、イギリスの鉄道民営化後に連続して起こった鉄道事故について、その犠牲者の遺族や、鉄道関係者の声をそのまま生かして台本にしたもの。民営化に関する関係者の政治的・経済的な思惑から、鉄道会社の経営者の立場、さらに息子を失った悲しみに暮れる母親の声まで、幅広いコメントが集約されて一幕の劇になっている。

4つの鉄道事故が取り上げられているが、それぞれの事故の原因は:
①最新の自動列車制御装置が搭載されていたが、そのスイッチが入っていなくて、さらにそもそも運転手はその装置の使い方を指導されていなかった。
②過去に何回も指摘されいていたにもかかわらず、信号機が見づらいままで、列車は赤信号を見落として進入した。
③線路に亀裂が見つかったが、そのレールは結局1年近くずっと放置されていた。
④ポイントの線路を固定するナットが外れていた。
・・・こういう理由で、命を失った人たちの気持ちはどのようなものだろう。残された遺族たちは、こういう理由を聞いてどのように思うだろう。

ちなみに、④の事故については、鉄道運行会社も、鉄道設備管理会社も、下請けの建設会社もみんな自分たちの責任を認めず、現在にいたるまで誰も遺族に陳謝していないそうだ。

ところで、ケン・リヴィングストンとか、ジョン・プレスコットといった、現在のイギリス人だった誰でも知っているような人々の名前、しかし日本ではそれほど知られていない名前が劇中に言及されたりして、こういう点ではちょっと現代イギリスの状況の理解が必要な作品かもしれない。でも、こういう、企業や組織の「無責任さ」や「やるせなさ」に国境はない。現代イギリスについての知識は『パーマネント・ウェイ』の理解に関しては必要条件ではない。

こういう内容なので、演劇として面白いかどうか、あるいは、興味深いかどうかという観点だと、ちょっと微妙かもしれない。でも、本来エンターテイメントであるべき演劇に持ち込まれてしまうくらい、鉄道の問題はイギリスでは真剣で重要だったということだ。またこういう内容は、イギリスのまじめな中流階層の人々になかなか反応が良いだろうと思う。

今年の4月に100名を越す死者を出した鉄道事故が兵庫県で起きたとき、その鉄道会社はどのように対応しただろうか。最初は「置き石が原因」と言っていたような気がするが。そして、結果的に「安全よりも利益」になってしまっていなかっただろうか・・・某自動車メーカーや乳業メーカー、そして今回のマンション設計問題と同じように。

手と手が触れ合うとき

2005-11-23 14:32:23 | 日々のこと
手と手が触れ合うとき・・・ドキドキしてしまうのだ・・・静電気に襲われるのではないかと思って。

今年もまた不快な季節がやってきた。あの、バチっとくる痛みと衝撃。人にモノを渡すとき、ドアノブに手をかけるとき・・・。もう昔からそうなのだけど、どうやら僕は帯電しやすい体質(?)のせいか、自分自身及び周囲の人々を毎冬感電させ続けてきた。

体質に関係あるのかどうかは僕の推測なのだが、比較的発汗の多い人はその水分のおかげで衣類に帯電が少ないのではと思う。僕自身の場合、汗をあまりかかないほうなので衣類に湿気も少なく、その水分による大気中への放電が少ない。しかして、電気を帯びながら生活をするはめになる。ただしこの説は何らの科学的根拠には基づいていないけれども。

誰だってそうだろうが、痛いのは好きではない。また、静電気に襲われる予感にいちいち怯えながらドアノブを掴むのもいやなことだ。ということで、今年はついに静電気軽減グッズを購入してみた。伸縮性のある生地でできたシンプルなブレスレットタイプのもの。こんなもので静電気が抑えられるのだろうか。若干、半信半疑ではあるが、もうこれにすがるしかない。

画像は小さくて見づらいが、腕に付けているわっかが静電気軽減バンド。

まだ昨日購入したばかりなので効果のほどは不明。ちなみに、家に帰って服を着替えるとき、セーターを脱ぐ際に静電気がバチバチ発生・・・欠陥品か、はたまた詐欺か・・・こういうときこそ消費生活センターの出番!と思わなくもなかったが、まあ、商品名をも静電気「防止」ではなく静電気「軽減」となっているし、もう少し使ってみて結論を出すべきだろう。参考までに、購入した商品はこちらの企業の商品でした:http://www.rally-inc.co.jp/

映画二話

2005-11-16 20:50:45 | 日々のこと
最近、映画を二本観てきたので、その感想。

まず、韓国映画の『親切なクムジャさん』。イ・ヨンエさんというきれいな女優さんが主人公の女性「クムジャさん」を演じている。彼女が自分に無実の罪をきせた男に対し、復讐を図るというのがストーリー。僕は人が銃でもろに撃たれたり、殴られたり切られたりして血がどばどば流れるようなシーンは是非とも避けたいのだけれども、これはまあまあ我慢できる範囲内だった。そういう場面は多々あるけれども、上品に、そしてある種の皮肉さというか、コミカルさを添えて描かれている。

映像も凝っていて、よく考えて作られている映画だとは思う。ただ、ストーリーが少し掴みづらいのが難点かもしれない。進行中のストーリーの合間に、過去のエピソードが挟まれたりして、時間が前後する点がこの映画をわかりづらくしている点か。でもまあ、楽しめる映画だと思う。添えられた音楽も淡々と進む復讐劇にマッチして味わい深い。ただし、感動して泣ける映画だとか、観たあとにしみじみするとか、そういう点を期待していると裏切られる。

この映画に敢えて文学的な解釈をしてみるとしたら「白」という色と「ケーキ」がポイントだろうか。『親切なクムジャさん』では、豆腐や雪、生クリームといった白色のもので、罪や復讐心というものの対極にある「白さ=無垢さ(イノセンス)」をわかりやすく象徴している。また、個人的にはたびたび登場するケーキも気になった(食いしん坊だからではない・・・でも、確かにおいしそうではあったが)。映画では、怒りや悲しみ、恨みや復讐心といった感情が支配する状況が描かれる。そしてその中でケーキの持つ「甘さ」「幸せさ」を暗示することで、その苦くて悲しい状況と鋭い対比を引き起こし、悲しみや怒りの感情を際立たせる効果があった。

もうひとつ観た映画は『理想の女』。オスカー・ワイルドの戯曲『ウィンダミア卿夫人の扇』が原作ということで、どんなものかと思い、観てきた。

この手の映画は、原作がどのくらい尊重されているのかという点が気になるが、今回の『理想の女』の場合、時代と場所の設定が移動している。原作の『ウィンダミア卿夫人の扇』が19世紀末ロンドンであるに対し、『理想の女』では1930年、イタリアの保養地アマルフィが舞台となっている。しかし、この設定の違いを除くと、ストーリーの流れや展開は原作とほぼ同じだった。

ワイルドの戯曲に基づいているのだから、つまらないはずがないのだが、この映画もまあ楽しめた。イタリアの雰囲気がとても良いし、当時の上流階級の瀟洒な衣装やインテリアも興味深い。僕が今回注目していたのは、どんな扇が出てくるのだろうという点。『ウィンダミア卿夫人の扇』は、そのタイトルどおり、「扇」が主役なのだ。どんなものが使われるのだろうか。羽飾りがたくさんあったりしてすごく派手ものか。もしくは、形は地味だけど、上品な仕上げのものだろうか・・・これは映画を観てのお楽しみということで。ちなみに調べてみたら、今回、当時使われてれた本物の扇を撮影に使用したとのこと。なるほど。

ところで、原作『ウィンダミア卿夫人の扇』でたくさん出てくるワイルド流の警句のたぐいが、映画でも頻出しておもしろい。英語の聞き取り練習になる。

ある先生の思い出

2005-11-14 01:40:38 | 日々のこと
中学校の美術の授業で、好きな音楽を一曲選び、その曲のジャケットを描くというものがあった。周囲がTMネットワークの曲とかを選ぶ中、僕は「パッヘルベルのカノン」のイメージジャケットを描いたのだが、今思えば、まあなんというか、茨城の田舎にしては少数派のクラシック好きな変わった中学生だったと思う。

僕が変わり者だったかどうかはともかく(明らかに少し変わり者だったとは思うが)、レコードやCDには「ジャケット」があり、中に入っている内容を彷彿とさせるべく、美的センスが発揮されるのだということをその頃に知ったのだった。レコードにしてもCDにしても、近年は試聴コーナーが充実してきたとはいえ、中身は買ってからのお楽しみ。だから、タイトルやアーティスト名、はたまたどんな外見か、すなわち「ジャケット」すらが購買の重要な動機付けになる。「ジャケ買い」なる購入方法が存在する所以だ。

僕に「ジャケ買い」の経験がぜんぜんないとは言わないが、でもやっぱりあまりしない。いくら美しい装いのCDでも中身に興味がないと、ちょっと買えない・・・という感じ。しかし、問題が音楽ではなく本となると、内容がどうであれ、とにかく何でも買うという事例が自分には存在する。それは「訳者買い」とでも呼ぶべき行動で、ある翻訳者がいて、その人が訳した本なら何でも買ってしまうという習慣だ。

発端は大学時代にまで遡る。ゼミなど必修選択以外の単位取得のため、英文学のいくつかの授業は興味に従っていろいろ選ぶことができた。授業選択の際には、学生の常として「楽勝科目」とか「出席チェックなし」という側面と、真面目に勉強しようという側面が拮抗するのだが、その選んだクラスの中にたまたま海保眞夫先生の授業があった。こうして、大学時代にはいろいろ個性的な先生に教わったが、この海保先生はとくにちょっと親しみを感じることになった。

ちょっと地味な感じの人柄だが、真面目で、文学研究を地道に続けている印象。授業も訥々と語るのみ(だんだん眠くなる)。たまに授業から脱線しても、さしておもしろいとは思われないエピソード。それでも、僕は密かにいい先生だなあと尊敬した。初めて「大学の先生」という感じがしたのだ。マスコミ等で華々しく活躍する先生がいる一方で、良くも悪くも象牙の塔にこもっている感じ。所属は文学部英米文学専攻の「教授」なのだが(つまり、経済学部とか法学部の英語の先生ではないということ)、学部にはゼミを持っていなかった(大学院で指導していたらしい)。一学生の僕が言うのも僭越だが、なんだか地味な人だから、ささやかではあるけれど本を購入することで、先生を応援していきたいなと思ったのだ。

ということで、「海保眞夫訳」の本は目に付き次第、内容にかかわらずどんどん買うこととした。もちろん英文学の先生なのだから、極端に英文学とかけ離れたものはなかったけれども。でも『ボルジア家―悪徳と策謀の一族』なんて本もあったから、このルネッサンス期イタリアの権謀術数に長けた一族に、妙に詳しくなってしまったりもした。その後、大学を卒業してからも先生の翻訳を購入するこの習慣は続いた。やがて先生の訳が岩波文庫からも出るに至り、尊敬の念がますます強まったのは言うまでもない。

非常に残念なことに、先生は近年亡くなられた。これ以上「訳者買い」をする機会は失われてしまったのだ。そういえば、授業でミルトンの「Areopagitica」の抜粋を読んだときは、あまりの英語の難解さに閉口したが、それも今ではいい思い出。

こちら側のどこからでも・・・

2005-11-08 23:54:47 | 日々のこと
今日はちょっとどうでもいいことなのだが、最近の自分の苦手について。

何でもいいのだけど、ビニールの袋状のパッケージに入っているものを想像してほしい。お刺身を買ってきたときについている小さい醤油のパックとか、とんかつをお惣菜に買ってきたときのソースのパックとか。納豆の中に入っている小さい醤油のパックでもいい。とにかく、最近ああいうものを開けようとすると、よく、こう書いてある:

「こちら側のどこからでも開けられます」

たしか、「マジックカット」とか何とか、商標登録があるようだが、詳しくはよく知らない。とにかく、今までみたいに開封用の切り込みがなくて、どこでも開けられるというあれ。しかし・・・僕には、これがなぜかうまく開けられないのだ。

人に言わせると、僕が上手くできない原因は「気合が足りない」からだという。気合!?そんな、力んで、気合を入れないと開かないという仕組みなのだろうか。そんなのだったら、以前みたいに切り口が付いているほうがいいのだけど。

そういうわけで、最近「こちら側のどこからでも開けられます」に遭遇するたびに、ちょっと緊張するのだ。鬼門というか、苦手というのか。ちゃんと開くだろうか。それとも結局、鋏を使う羽目になるのだろうか。毎回、ちょっとした運試しのような状態になっている。

西大門勅額

2005-11-02 23:59:08 | 日々のこと
奈良国立博物館では「正倉院展」が行われているけど、そちらは大混雑で、とりあえず見るのがやっとという感じ。むしろ平常展のほうを堪能してしまった。

その平常展のなかで、興福寺からの立像(乾漆十大弟子立像)のうちの2体と、岡寺の「木心乾漆伝義淵僧正坐像」がよかった。表情がとても興味深い。仏教的にも重要なのだろうが、純粋に人物像としての完成度の高さが目をひく。岡寺の坐像はとくにその表情がいい。ここに挙げた3点ともに言えるのだが、見た目がきれいであったり、美しかったりするわけではない。むしろ一般的に言ったら醜いというくらい。しかし、じっと見ていたくなってしまうというか、引き寄せられる何か強い印象が残る。

今回、僕にとって一番見て興味深かったのは「西大門勅額」だった。彫刻された仏像に囲まれる額の中に、楷書体で「金光明四天王護国之寺」と彫られた字体もいい。門に掲げる寺名の額には格式と、何かしら圧倒するような存在感が必要だと思うが、東大寺にふさわしい大きさと品格だった。

「金光明四天王護国之寺」という文字のうち、「国」という字は、くちがまえの四角の中が「玉」ではなく「王」だった。というかそもそも、「国」の旧字体は「國」ではなかったか。どうして「王」なのか、何か意味があるに違いないから調べたら面白いだろうが、これはそのうち機会があったら。

BBC訛り

2005-11-01 01:11:50 | 日々のこと
夜まで仕事をしてから、新幹線に乗って大阪へ。翌朝から仕事。慌ただしく出張が始まった。

到着するのは夜11時過ぎだし、もうあんまり出かけるという時間ではない。そこで、ホテルの部屋の窓から大阪の街を眺めるのもいいが、今晩は、こういう出張での僕の楽しみひとつを実行してみる…それは、ホテルのテレビでBBCワールドを観ること。たまには普段はあまり聴くことのない、BBC訛りの英語にちょっと浸ってみるのだ。

BBCが観られるようなホテルなら必ずCNNも入る。聴きくらべてみればわかるはず・・・これがBBC訛りだ。要するに、クイーンズイングリッシュというか、とにかくイギリス式発音の英語なんだけど、BBCのアナウンサー及びリポーターたちの発音はとくに独特。僕にはとてもクリアーに聞こえて、なにか心地よい。

イギリスに住んでいたから聞き慣れているし、かなり贔屓があるのも確か。CNNを聞き取るには倍近くの集中力が必要な感じがする。疲れる。じゃあ、両者が具体的にどう違うのかと言われてもうまく説明できない。聴き比べてくださいとしか言えない。

強いて例を挙げれば、ニュースによく出てくる「year」あるいは「years」という単語の発音。アメリカ式だと明らかにRの音が響くが、BBC訛りでは、イでもアでもエでもない不思議な音が伸ばされるように聞こえる。うーん、でもやっぱり言葉じゃうまく説明できない。

ちなみに、同じBBCのアナウンサーやリポーターでも個人によって微妙に話し方や発音が違う。日本のアナウンサーでもおそらく個人ごとに発音が違っているのだろうが、日本語だと無意識に理解できてしまうせいか、こういう差異にほとんど気がつかない。外国語だと、とても敏感になるらしい。

さて明日(もう今日だけど)は仕事。英語がどうのこうのどころではなかった!要睡眠。

納豆の賞味期限

2005-10-29 23:42:47 | 日々のこと
納豆は元から腐ってるというか、発酵させてる食品なんだから日持ちがいいのかと思いきや、意外にも賞味期限が短い。買ってみると、一週間くらいで食べなきゃならなかったりする。

それはまあ、気をつけていればいいのだけど、その賞味期限の表示がいつも気になる。納豆は、二つとか三つのパックをビニールのカバーでひとまとめにして売ってることが多い。だから、実際に食べるときには、そのカバーを外して、それぞれのパックをばらすことになる。しかし、賞味期限は個々のパックには印刷されていなくて、全部をひっくるめたビニールカバーの表面にしか示されていない。そしてそのカバーを捨ててしまうと、もう、賞味期限はわからなくなる。

普通、食事一回あたりの納豆標準摂取量は、一人一パックだろう。僕にとって納豆は積極的に食べるほど好物ではないから、この数字は少なめかもしれない。でもやはり普通は一回で二つも三つも食べるものではあるまい。従って、食べきれない残りは冷蔵庫に入れて保存しておくこととなる。

その際、各パックをまとめていたビニールカバーは、最初のパックを食べるとき外され、すでに捨てられている。カバーなんて取っておいてもしかたないし。ただしそのビニールには賞味期限が印刷されているのだ。一方の、冷蔵庫に残された納豆パック本体には賞味期限表示がない。だから、カバーを外して冷蔵庫に入れたら最後、残された納豆の賞味期限はわからなくなってしまう。

これはつまり、賞味期限は暗記しておけ、ということなのだろうか。納豆メーカーは、消費者の賞味期限に関する記憶能力を著しく高く評価しているようだ。子供の頃に「納豆を食べると頭が良くなる」という説を聞いたことがあるが、メーカー側としては、そういう、納豆に親しんだ消費者の高度な記憶能力を期待しているのかもしれない。あるいは記憶能力開発中の納豆愛好者のために、暗記力トレーニングの機会を毎回提供しているのかもしれない。まったく親切なことだ。

ところで、賞味期限には、「いついつまでに食べないとお腹が痛くなるよ!」という実際的な目的のほかに、「期限が迫っているから、早く食べましょう!」という、一種の食欲増進作用もある。お腹がいっぱいだったりしても、もったいないから食べなきゃって思わせる面からすると、消費促進効果とか、冷蔵庫クリーンアップ作用というべきかもしれない。とにかく、冷蔵庫をゴソゴソ物色して、賞味期限寸前という食材が目に入れば、それじゃすぐに食べようという気になる。

しかし、賞味期限が明記されてないせいで、そういう消費促進作用から取り残され、冷蔵庫の中で忘れ去られる可能性が生じてくる。せっかくの納豆が、冷蔵庫で永遠の眠りについてしまうのだ。これは、もったいないことではないか。惜しまれる事態だ。

あれこれ書いたが、要するに、納豆の個々のパッケージにも賞味期限を入れて欲しいということ。手間やコスト面の問題はあるのだろうが、入っていれば、古いものを誤って食べてしまうのを避けるという健康衛生面でも、いつまでに食べるべきかわからなくなって結局捨てるという経済的損失面でも、また、食べものを粗末にしてしまうという倫理的面でも、改善が見込めるわけだ。

ちなみに、市販の納豆の全部にこのような問題があるわけではない。メーカーや商品によっては、すでに気を利かせて、個々のパッケージにちゃんと賞味期限を入れているものがある。ということは、僕がこうやって主張するのではなく、賞味期限に気遣いのある納豆だけを買って、だめなものを市場から淘汰していけばよいのかもしれない。ただ、僕一人では、残念ながら市場を左右するほど納豆を食べられないので。

ゲーム「モーニングトン・クレセント」

2005-10-27 01:04:13 | 日々のこと
かつてロンドン滞在中、地元の友人と地下鉄ノーザン・ラインに乗っているとき、その電車はモーニングトン・クレセント駅に近づいた。

「The next station is Mornington Crescent.」と女性の声の自動アナウンスがかかる。すると隣にいた友人はニヤニヤして、おかしくて仕方がないというような顔をした。「何がおかしいの?」と聞くと、「ラジオの番組で、『モーニングトン・クレセント』っていうゲームがあるんだけど、それがとてもおかしくて。この駅名を聞いたらいつも思い出すよ」と言う。

詳しく聞いてみると、「モーニングトン・クレセント」というのは、BBCのラジオ局のひとつRADIO4で放送される人気エンターテイメント番組「I’m Sorry I Haven’t a Clue」というものの中で取り上げられるゲームのひとつ。で、実際どんなゲームかというと、出演しているパネラーたちが、次々と地下鉄の駅名を挙げていき、最終的にモーニングトン・クレセント駅に到達すればよいらしい。別に、路線に従って正確に順番に駅名を挙げていくのではない。なんとなく、ただ純粋におもしろいように、駅名をみんなで適当に言い合っていくだけだ。最後に「モーニングトン・クレセント」でゲームはおしまい。

「何がおもしろいんだかぜんぜん理解できないね」
「僕もこれを言葉でちゃんと説明するのは無理。ちょっとsurrealなおかしさなんだよ」

実際に日曜日の昼間にラジオの前で待ち構えて「I’m Sorry I Haven’t a Clue」を聴いてみた。毎週「モーニングトン・クレセント」のゲームをやるわけではない。違うゲームに終始する回もたくさんある。そんなこんなで何週か待ち、ついに聴くことができたが・・・。残念ながら結局何が面白いのだか、よくわからなかった。しかし、この番組は公開録音なのだけど、モーニングトン・クレセントが始まると、会場内は特に大喝采。やっぱり何かがあるのだ、おもしろい理由が。

もちろん僕の英語聴取能力にも一因があったと思う。でも、おかしさを理解できない原因は、もうちょっと根本的なところにありそうだ。イギリスにはイギリスの、いろいろな文化的な経緯があるのだ。かなり強引にこの番組をたとえると、ラジオでやる「笑点」だとも言えなくもない。パネラーがいて、言葉や音楽のゲーム(遊び)をする。仮に私が外国人だったとして、日本の「笑点」の面白さを理解するにはどうだろう、ただ一回観ただけでわかるだろうか。「歌丸さんの座布団全部持っていって!」と言うと会場が爆笑するが、座布団を持っていってしまうこと自体が、そんなにおもしろいだろうか。そう、これは歌丸さんの人柄とか、座布団を集めていくこととか、いろいろな経緯がわかっているから笑えるのだ。

ということで、僕は普段イギリスの小説でおもしろかったものなどを、あたかもわかったかのようにあれこれ書いているけど、これは危険なことだ。いろいろな経緯や由来を、理解しないで読書している可能性が高い。趣味や遊びで読んでいるのだからいいじゃんとは思うけど、ある程度の謙虚さは、より本を楽しむためにも必要。

最後に、この「I’m Sorry I Haven’t a Clue」という番組にはサマンサ(Samantha)というキャラクターが出てくるらしいのだが、かの友人は「サマンサという女性がいるんだよ」と言って楽しそうな顔をする。どうやら、名前だけ出てきて実際にはどういう人なのだかわからない・・・とかなんとか、そういう面がおかしいらしいが、よくわからずじまい。誰かこの「サマンサ」について教えてください。

ベルク

2005-10-24 14:43:46 | 日々のこと
新宿の西口の駅ビル『マイシティ』の地下1階に、ベルク(BERG)という名前のお店がある。何のお店かというと、コーヒーしか頼まない僕にとっては間違いなく喫茶店というか、コーヒー屋さんなのだが、おいしそうなホットドッグやカレーもある。また、メニューを眺めてると、何やらこだわりの感じられるワインやビールが目に入る。きっと、夜になればお店の趣向が変わって楽しそうなのだが、あいにくそういう時間のベルクについてはまだ試したことがない。

新宿で仕事するようになってから4年目に入るが、朝ちょっと早めに到着したときに立ち寄ることが多い。店は小さくて、座席もあるが僕はカウンターの愛用派。座るほどゆっくりできないけど、時間は少々ある、というときに重宝している。もちろん、コーヒー好きの僕もちゃんと満足できるホットコーヒーが出てくることも重要なポイント。

毎朝どたばた慌ただしく家を出てくるので、ベルクに立ち寄れるほど早く新宿に着く機会はそれほど多くない。先日久しぶりに行ってみたら、かわいい野良猫の写真がたくさん店内を飾っていた。ベルクでは、「社会派」という感じの写真が月替わりで展示されていて、それが、たまにしか行かないけど、僕のベルクでの楽しみのひとつ。一人でコーヒーを飲んでいても、壁の写真を眺めていれば、無理して携帯電話を取り出さなくても手持ちぶさたなんてことはない。

今月は街に暮らす猫の写真が掛けられていて、猫好きの自分としてはとてもよかった。とくに、4、5匹の猫がレンズに背を向けて、一心不乱にご飯を食べてる写真がかわいらしくていい。

ベルクのカウンターでコーヒーを飲んでいる時、コーヒー片手にカウンターの別の場所へあちこち移動したりなんて、普通はやらない。他のお客さんもいるし。ということは、カウンターの別の場所に掛かっている写真を見るためには、もう一度コーヒーを飲みに行って、カウンターの違う位置に立つ必要がある。つまり、店内全部の写真を観るためには、何回か通う必要があるわけだ。これはベルクの深い戦略なのかもしれない。

ともあれ、自分にとっては、短い時間でもくつろげる好きなお店。いつもは一人で訪れるけど、たまには夜、気の合う人とカウンターで立飲みビールもいいかもしれない。イギリスのパブみたいに、座らないでおしゃべりとか。

ちなみに、ご関心のあるかたは、 
http://www.berg.jp/index.htm
へ、どうぞ。なんだか宣伝してしまっているが、別にまわし者ではないので。


加守田章二展

2005-10-23 11:17:05 | 日々のこと
先日、東京ステーションギャラリーで行われていた「20世紀陶芸の鬼才 加守田章二展」を観てきた。

陶芸に関心を持つようになったのも、以前にしていた仕事がきっかけ。ただし、自分で創ることには今のところ興味がなく、鑑賞したり、場合によっては購入したりするのが中心。ということで、陶芸の展覧会情報は普段から注意して探しているのだが、今回の加守田章二の展覧会は半年以上も前に知り、それからずっと楽しみにして待っていた。

日本の戦後の陶芸の流れを語るとしたら、加守田章二は絶対に欠かすことのできない存在で、死後20年経った現在でも際立って高く評価されている。僕が陶芸の仕事に関わっていたのは10年くらい前のことだから、その時点で既に彼が亡くなって10年ほど経っていて、個展で直接に作品を見るなんてことは当然できなかった。たまに散発的に1、2点作品を見かける機会があったりしたくらい。

そういうこともあって、今回のように作品の全貌を一気に鑑賞できるこの展覧会は、ほんとうに見逃すことができないチャンスだ。会場には約180点の作品が展示されているということだが、これだけの規模での展覧会は、僕の今後の人生でも、あと1回か、多くても2回しかないのではないかと思う。

若い頃の仕事から、亡くなる直前までの作品まで数多く展示されていたが、一番良かったのは1970年に発表された「曲線彫文」の作品シリーズ。硬く荒々しく焼成された素地の上に、あたかも服地の上にできたひだのような、柔らかい曲線が並ぶデザイン。発掘された縄文土器のようにほとんど彩色されず土の色のままで、他の後期の作品と比べて、一見地味な作品ではある。

しかし、男性的な荒々しく力強い素地と、女性的な優美な曲線模様が見事に調和しているところがやはり素晴らしいと思う。男性的な粗野さだけ、とか、女性的な柔和さだけとか、どちらか一方だけでは平凡だ。場合によっては矛盾し合うような、相反する二つの「男性らしさ」「女性らしさ」という要素が、一つの作品で無理なく止揚しており、そこにはある種の品格さえもが漂っている。

加守田章二は1983年に49歳で亡くなった。同世代の陶芸家の多くは最近まで普通に活躍している。もし長生きしていたらどうのような作品を創作していたのだろうか。陶芸好きなら誰もが想像してみたくなる点だ。

上品なドアの閉まり方

2005-10-19 12:01:55 | 日々のこと
「ドアを閉めるんなら、ちゃんと閉めてもらいたいものだ!」とハンス・カストルプはいった。「いつもガランガチャンだからな。だらしのない話だ」
☆トーマス・マン『魔の山』より

若者ハンス・カストルプは、このようにドアを閉めるお行儀の悪い女性、マダム・ショーシャの魅力に取り付かれてしまう。それはともかく、ドアの閉め方は日本であれ海外であれマナーのひとつで、上品に静かに閉めることがよいとされている。

日本では見かけないが、海外では閉まりかけたドアの場合、次に入ったり出たりする人のために、ドアを手でおさえて、開けておいてあげることもマナーだ。

ところで最近、上品にドアが閉まる光景を発見してしまった。

それは、毎日通勤に使う山手線のドア。僕の印象だと、電車の扉というのは、勢いよくガタガタ音を立てて閉まるものと思っていた。だから、かばんとか傘とか靴とかが挟まってしまう。ところがある朝、新宿駅で山手線を降りて、一斉に閉まる扉を横目で見ていた。するとこれがまたなんとも上品に、おっとり滑らかに、かつ、静かに閉まるのだ。次から次へと電車が到着する時間で、誰もがせかせかして慌しく動くなか、あのゆったりとしたドアの閉まり方は、僕の目には際立って優雅に思えた。

山手線だけが、あんなふうに上品にドアが閉まるのだろうか。同じ形式の電車ならみんな同じなのか。山手線はJR東日本を代表する、または、東京を代表する電車だから、特別仕様なのかもしれない。各車輌に液晶画面があるように、扉にもお金をかけているかもしれない。

一方、僕の乗る常磐線には、どうだろう、ああいう上品なドアの開閉は、沿線イメージとちょっとそぐわないような・・・。新型の車輌が走っているから、同じようにおっとりとドアは閉まっているのかもしれないが、「常磐線」というだけで上品なイメージは払拭されてしまう。夕方以降に乗ってみるとわかるのだが、常磐線のドアには、むしろ、縄のれんが似合う。

山手線のような、ゆったりとしたドアの閉まり方だと、万一体が挟まっても痛くなさそうだ。乗降客も多いし、そういう安全上の配慮なのかもしれない。しかし、通勤電車の扉という、なんとも散文的な物事の中に、こういう上品さとか優雅さが存在するのがおもしろい。

適量の洗剤

2005-10-17 00:17:17 | 日々のこと
洗濯用の洗剤の適量って、どのくらいなのだろうか。

粉末タイプを買えば、箱の中に計量スプーンがついていて、その1杯分とか2杯分とかを指示に従って洗濯機に投入する。もし液体タイプのものならば(ここ最近我が家は液体タイプだ)、キャップを計量カップのように使って、指示された量を入れる。

しかし、きょうび、洗濯機は全自動になってしまい、電子音で終了の合図がかかるまで蓋はしまったまま。中で何が起きているのかは、まったくわからない。せいぜい水音やらモーター音で進捗状況が推測できるのみ。

従って、花王やらライオンやら、あるいはプロクター&ギャンブル社に言われたとおりに入れた洗剤の量が、果たして適量なのか確かめるすべがない。もしかしたら、もっと少なくてもきれいに洗えるのではないか。洗剤を余計にどんどん使わせて、商品の回転を良くし、売り上げを伸ばそうという魂胆があるのではないか・・・どうも僕はこういう点でケチな消費者らしいようで、少々勘ぐってしまうのだ。

同じような用途の家庭用品として、歯磨き粉(ねり歯磨き)と食器用洗剤、そしてシャンプーを考えてみたいが、これらは、自分が使用している量が適量かどうかすぐに体感できる。つまり、少なければ泡立ちが悪いし、多すぎると泡だらけになってしまう。自分自身で洗ったり磨いたりするものだから、どのくらいの量が適当なのか結果がよくわかる。一方、洗濯用の洗剤は機械が洗ってしまうので、洗剤が多いのか少ないのかよくわからないままだ。

もちろん、洗濯物の仕上がりで判断するという手もある。洗剤が少なければきれいにならないのだから。でも、テレビのコマーシャルのように、僕は泥まみれになったり、ケチャップをこぼしたりしないから、結果がわからない。普段の洗濯なら、もしかすると、洗剤を入れないで洗っても、きれいになったような気がしそうでこわい。

ということで、こういう僕には、洗剤を入れなくてもきれいになる洗濯機がいいような気がする。何年か前にどこかのメーカーから発売されたと思うが、あれはどうなったのだろう。

携帯の漢字変換

2005-10-16 14:17:10 | 日々のこと
昨日、修理に出していた携帯が戻ってきた。代替機を借りていたのは10日ばかりではあったが、使いづらくてかなりうんざりしていた。

原因は漢字変換。もうほんとうに、頭が悪すぎる。使えば使うほどいらいらしてしまう。

もちろん、使いづらさの原因としては、使い慣れない自分自身の側、あるいは、別機種に対する自分の適応力の低さ、という問題があるのかもしれない。でもむしろ今回は携帯電話のほうに明らかに非があった。

まず、なぜだか知らないが、「死ぬ」とか「殺す」という漢字変換ができないのだ。(こんな言葉を変換しようというので、僕がなんとも物騒な日々を送ってるのではないかと誤解する方もいるかもしれないが、そういうことではないのであしからず。たまたまそういう言葉を使いたい機会があったのだ。)小学生だって書ける漢字なのに、いったい何という頭の悪さ!

もしかすると、あの代替機は教育面に配慮されたタイプで、青少年の健全な発育に差しさわりのあるような暴力的表現ができないようになっていたのかもしれない。全国PTA推薦機種だったのだ、そうに違いない。くそっ。

しかし、他にも変換できない言葉があった。例えば「売る」。どうしてこういう基本語すら変換できないのだろう。ここまでくるともう、この携帯はやる気がないとしか思えない。

あるいは、代替機に期待するほうが間違ってるのだろうか。かりそめに使うだけのタイプなのだ。最新型の賢い携帯を渡されるはずがない。ここまで書いてきて思うのだけれども、僕は携帯のことを、
「頭が悪すぎる」
「やる気がない」
というふうに表現した。擬人法だ。つまり、「各社が開発にしのぎを削り、最先端のテクノロジーの結晶である携帯電話なのだから、どの機種でもそれなりに人間のように賢いのだろう」という期待が僕の中にあった。これが間違っていた。テクノロジーの結晶である携帯電話であっても、すべてが賢いわけではないのだ。機種によっては期待以下なのだ。

手元に戻ってきた僕の携帯電話。もうどこを探しても販売していない旧型だけれども、なぜか、とてもいとおしい、かわいいやつ。ついでに言えば、漢字変換は代替機種よりずっと優れている。