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A Diary

本と音楽についてのメモ

愛しき悪役(ヴィランズ)たち

2006-02-05 00:33:06 | 日々のこと
オーランド、ディズニーワールドでの印象をひとつ。

童話『シンデレラ』の物語は、シンデレラが無事にプリンセスの地位を得たというところで「めでたしめでたし」になる。では、その後はどうなったのでしょう・・・みんな興味あるよね?という感じでそのショーは始まる。そしてシンデレラは王様からプリンセスとしての冠を授けられ、正式にプリンセスとなる・・・これがマジックキングダムで行われていた「シンデレラブレーション」というステージショー。東京ディズニーランドから来た新しいショーですと紹介されていたが、ディズニーランドに久しく遊びに行っていない僕にはまったく新鮮な内容。

この「シンデレラブレーション」で一番すごいなと思ってしまったのは、この「戴冠式」に臨席する来賓の方々。『シンデレラ』のストーリーに基づいているのに、次の方々が登場する:『白雪姫』から白雪姫と王子様、『眠れる森の美女』からオーロラ姫と王子様、『アラジンと魔法のランプ』からジャスミンとアラジン、そして『美女と野獣』からはベルと野獣に変身させられていた王子様。こんな感じでディズニーのヒロインとその王子様たちが一堂に舞台に現れて、みんな一緒にシンデレラの戴冠をお祝いするのだ。

このようにお姫様と王子様を大奮発・大盤振舞したのはきっと観客を、とくに女の子のお客さんを喜ばせる狙いだ思うが、よく考えるとこれは本来の『シンデレラ』のストーリーをハチャメチャにしてしまっている。でも、僕はこういうシュールな展開は嫌いではない。なんだか笑えてしまう。想像してみてほしい、もしこれが『日本昔話』で行われたら・・・桃太郎の鬼征伐成功と無事帰還お祝いするために、足柄山から金太郎が、月からかぐや姫が、そしてどこかの浜辺からは浦島太郎がやってきて、みんなでお祝いした・・・。想像するとかなりおかしい。「シンデレラブレーション」でいろいろお姫様が一気に登場するのも、今僕が想像した「桃太郎後日譚」もシュールさでは大差ないと思うのだが、どうなのだろう。どうせなら、シンデレラの戴冠式に、スティッチ、バズ・ライトイヤー、プーさん、チップ・アンド・デール、ないしは、グーフィーなどを登場させるのも、かなりシュールかつナンセンスで悪くないと思うのだが、さすがのディズニー社も『シンデレラ』の物語をここまでぶち壊してしまう勇気はないらしい。

本来とは別の物語のキャラクターが一気に出てくるといえば、MGMスタジオで行われている「ファンタズミック!」というショーもまた同じだった。ただしこれは何かの物語を下敷きにしているというわけではなく、ショーのためのオリジナルなストーリーだから、「シンデレラブレーション」のような原作との違和感とか、突拍子もないというシュール感はない。内容はまず、平和な世界に住むミッキーを、ディズニーの悪役(総称してヴィランズと呼ぶ)たちが脅かす。するとミッキーはなんとか彼らをやっつけて、そして再び希望と夢と今ジーネーションの世界が取り戻される・・・こういうストーリー。もっと要約すれば、ヒーローのミッキーが悪者をやっつけるということ。ディズニー的な勧善懲悪の典型だ。

「ファンタズミック!」では豪快な噴水の水しぶきがスクリーンとなって、そこにアニメーションが投影される(と書いても、どういうことかは実際に見ないと理解できないと思う)。そのアニメ画像に悪役たちが登場する。『101匹わんちゃん』からはクリエル、『アラジン』からジャファー、『リトルマーメイド』からアースラ、そして『白雪姫』からは毒りんごを食べさせる王妃。ジャファーは言う:「今こそミッキーにはさよならしてもらうぞ!」・・・うーん、『アラジン』のキャラクターや、『白雪姫』の悪いお妃が、それぞれ本来の物語とは関係のないミッキーマウスについて云々するのは、やっぱりちょっとシュールかもしれない。

それはともかく、僕はこういう悪役たちに目が向いた。自分より誰が美しいのか気になってしかたがない王妃(「鏡よ鏡!」と魔法の鏡に問いかける)とか、王位を狙う大臣(ジャファーのこと)とか、こういうキャラクターのほうがよっぽど人間味溢れているような気がして親近感がある。子供向けの話なのだから、僕がむきになってあれこれ言う事柄ではないのだろう。しかし、不幸せな境遇からプリンセスに成り上がったり、悪者と見るやすぐ刀を抜き、たちどころに成敗しまう連戦連勝の王子様連中には、いとおしさを感じない。彼らはいわゆる「勝ち組」だから、僕の同情は不要なのだ。むしろ、地位や容姿、あるいは財産に一喜一憂してしまうような、人間的な弱みのあふれる悪役たちのほうが、愛すべきキャラクターに思える。

ところで、お姫様たちや、悪役たち、そしてたくさんいるディズニーキャラクターたちだが、旅行前は名前も顔もみんな知らなかった。ところが今ではこんな文章が書けるくらい、それなりに詳しくなってしまった。これはもちろん、8日間滞在した結果、自然に身についたということでもある。しかし、これは積極的に興味を持ったという証拠でもあると思う。もっと素直に書けば、要するにディズニーの世界を「楽しんだ」ということだ。

だから、もしかすると上に書いた文章は、とくにショーについて、ちょっと皮肉っぽく批判的に響くかもしれないが、とんでもない。純粋に楽しんだのです、童心に還って。

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5 コメント

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童心に還って・・・ (KAFKA)
2006-02-05 16:45:32
ディズニーランド、満喫されたみたいですね。僕は子供の頃に行ったきりで、大人になってからは行ったことがありません。「ネズミの国はそんなに楽しいか?」などと言う大人が近くにいるものですから、素直に行ってみたいと言えないのです。本当は、子供より大人が行ってみたい場所なのかもしれません。



「シンデレラブレーション」という言葉自体が新鮮です。「灰かぶり姫」も随分遠くまでいったものだな・・・こんなことを考えてしまう僕は、当分童心には還れなさそうです。童心は、いつかオーランドに行った時のためにとっておくことにします(笑)

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テクストとしてのディズニーキャラ (たいせい)
2006-02-05 23:18:01
僕もこういうファンタジーチックなショーやステージには興味はなかったのですが、観てみるとなかなか楽しめるものなんだなと思って、こういう日記を書いたわけです。



長くなるので今回は書かなかったのですが、ディズニーの童話はどちらかというと女性キャラクターが目立っていて、どうしてなのか気になります。たとえば、お姫様たちにはみな知られている名前があるのに、王子様たちには固有名がない(あるいは、名前が有名ではない)。悪役も男性キャラは絶対数が少なくて、むしろ「魔女」的な女性キャラが多い。



この理由は、こういう童話の対象が女の子向けだからでしょうか。それとも、そもそも女性というジェンダーには男性よりもファンタジックなキャラクターに適した要素があるのでしょうか。同情をひきやすいとか、嫉妬深いとか・・・でも同情も嫉妬も女性の専売特許ではないわけで、この問題はもうちょっと考えてみないとうまい説明ができません。



こんな感じで、ディズニーアニメとはいっても一種のテクストであって、そこにはこういう分析を試みる余地があるわけです。よく、ドラえもんやサザエさんを半分真面目に研究する本があったりしますが、そういうのと同じですね。この日記はそういう方向にも進めて行きたかったのですが、まとまらなくなるので断念。



さて、最初に書きましたが、当初はこういうキャラクターとかにはあんまり興味がありませんでした。興味があったのは、乗り物のアトラクションです。ジェットコースターとか、ライド系の。次回の日記ではその感想を書きたいと思っています(またディズニーかよ!って感じでしょうね・・・)。
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ディズニーキャラとジェンダー (KAFKA)
2006-02-07 13:57:14
『シンデレラ』や『白雪姫』といったお伽話は本来、残酷な物語です。グリム版の『シンデレラ(灰かぶり少女)』には、鳩が姉たちの目をついばんで復讐するという残酷なラストがありますし、『白雪姫』では、実母が自分の娘を殺そうとします。しかし、どの物語も歴史の中で「文化的な検閲」を受けてきたのです。つまり、子供に残酷なものを与えてはいけない、という大人が決めた原則(もとを質せばビクトリア朝的な価値観)に従って変化を遂げてきたわけです。その最終形態がディズニーの女性キャラクターだと考えることができるのではないでしょうか。そこに、おそらくジェンダーの問題も絡んでくるはずです。



確かに、ディズニー・キャラクターは、一見女性のためのものであるように見えますが、その性格を子細に分析すると、極めて父権制社会に都合のよいキャラクターであることがわかります。具体的な分析は割愛しますが、一旦「外」の世界に出たヒロインは、父権的な価値観に反逆するものの、何らかの「懲罰」を受け、最後には父権の価値観を受け入れる、というパターンを持つ点で共通しています。つまり、「結婚して幸せになる」になるのです。



そう考えると、「女性というジェンダーには男性よりもファンタジックなキャラクターに適した要素がある」というよりも、女性に「嫉妬深い」性格を父権制社会が押しつけているのだ、といったほうが適切でしょう。タイセイさんが言うように、嫉妬は本来、女性の専売特許ではないはずですから。王子様たちに固有名がなかったり、有名ではなかったり、悪役男性キャラの絶対数が少ないのも、こういった理由で説明することができそうです。女性は「魔女」であって構わないのですが(むしろ男性社会はそうあってほしいわけです)、極悪非道な男性が女性に何らかの仕打ちをするのは、マズい。そこには何か性的なものも匂わせてしまうので子供にも適しません。というわけで、模範的な女性(ヒロイン)と男性文化に刃向かう(と同時に掌握可能な)女性の悪役を配置することは、とても自然なこととだと考えられます。文化とジェンダーを軸に分析するならば、物語を骨抜きにし、父権制社会の優位を残すかたちで、ディズニー・キャラクターは存続しているのだと言えそうです。(これに抗うのが、イギリス小説でいえば、アンジェラ・カーターの『血染めの部屋』のような作品かもしれません。)



決してディズニーランドに行けない僻みではありませんし(笑)、僕はディズニー映画が好きですから、誤解しないでくださいね。



>またディズニーかよ!



なんて言いませんので、アトラクションの感想、是非書いてください。楽しみにしています。





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子供向け『ハムレット』 (タイセイ)
2006-02-08 09:39:03
興味深く読みました。お姫様には必ず王子様が現れる・・・確かにこのパターンだと、男性というジェンダーは「王子様」という男性に都合の良い形態でしか登場してきませんね。



今後ディズニー社には、複雑な男性キャラクターの創造を期待したいところです。手近なところで、ディズニー・プレゼンツ『ハムレット』。最後にみんな死んでしまうのは情操教育上あまりよろしくないので、ハッピーエンドでお願いします。



なお、僕のネタ帳(芸人みたいですが)には、まだディズニーネタが残っています。恐縮ですが、これからも小出ししていきます。
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子供向け『ハムレット』!? (KAFKA)
2006-02-08 11:49:11
面白そうですね。できれば、ディズニー版ではオフィーリアに幸せになって欲しいものです。でも、ラストで全員が生き返ったら、笑ってしまうでしょうね。



シェークスピアの悲劇は、大抵最後の場面で沢山の人間が死ぬわけですが、一歩間違えると滑稽に見えてしまいます。演出をやっていて苦労したのは死体の配置でした。生きている人間が、ごろごろ床に転がっている光景・・・ふと思い出して笑ってしまいました。
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