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日光山輪王寺

2019-05-28 14:43:13 | 栃木
2019年5月23日から25日、2泊3日の草津・鬼怒川名湯めぐりと世界遺産日光東照宮のトラピクスの旅に行きました。3日目です。
「日光山の御本尊・千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音の三体を祀る。東照宮よりはるか800年も以前から整地・日光を守り続けている。勝道上人が開いた日光山は、平安時代に入って810(弘仁元)年には朝廷から満願寺の称号を受け、天台宗の寺となった。一時は所領18万石、僧房は500を超えたという。安土桃山時代には小田原の北条氏に荷担したため、豊臣秀吉に寺領を没収されて衰退した。次に盛り返したのが天海上人が東照宮を創建した江戸時代、1654(承応3)年には門跡寺院となり、1655(明暦元)年に寺号も輪王寺と改められた。しかし、明治に入り神仏分離令が発令され、門跡号も廃止、109ケ寺も、元の満願寺1カ寺に戻されてしまった。1886(明治19)年になり、輪王寺の寺号も門跡の呼称も復活し、現在に至る。」
案内図





石標

黒門(重要文化財)
『江戸中期の1661-1750に建造、三間一戸潜付薬医門、切妻造、銅板葺。日光山総本坊であった「光明院」の正門です。光明院は、江戸時代、日光山を中興した天海大僧正が日光山全域の総本坊として再興したお寺です。その当時、東照宮を含む日光全山は、皇族出身の僧侶「輪王寺宮法親王」によって統治され、さらに江戸時代を通じて輪王寺宮が比叡山と東叡山(上野)を併せた三山を管領することになります。光明院には延べ床面積約2,600坪(8,700㎡)の大書院でしたが、神仏分離の混乱の際、1871(明治4)年5月13日の火災により大半が失われました。その際、この「黒門」は域内北側にある「護法天堂」とともに焼失を免れたため、光明院の往時を偲ぶ貴重な建物となっています。』



光明院稲荷社
「鎌倉中期当山24世弁覚僧正が新たに光明院を建立し日光山の本坊とした。その守護神として稲荷神を勧請、光明院稲荷と称す。古くから日光山の五大稲荷として学業成就、家業繁栄の祈願に特に信仰されている。」

鐘楼









紫雲閣





三仏堂[大本堂](重要文化財)
「江戸前期の1647(正保4)年建築、桁行七間、梁間四間、一重もこし付、入母屋造、銅瓦葺。三仏堂というのは、千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音の三体の本地仏を祀っているお堂である。間口33.8mの、日光山内最大の建物。内陣に入ると高さは、台座から後背の頭上まで約8mもある。この三体は、男体山、太郎山、女峰山の日光三山の本地仏である。金色の寄木造。」

















金剛桜(天然記念物)
「黄芽、白花大輪の山桜で花香が強く、樹齢は約500年。数本の枝幹に分かれ、特異の樹形をなし、その基部の周囲は約5.7mに及ぶ。」

相輪橖(重要文化財)
「三仏堂の斜め裏に立つ高さ13.2mの青銅製の塔。1643(寛永20)年に三代将軍・家光の発願で、天下泰平、国家安穏を祈って天海僧正が建立したもの。比叡山の宝塔に模して建てられ、法華経をはじめとした1000部の経典が収蔵されている。」









護法天堂(重要文化財)
「江戸前期の615-1672頃(元和頃)建築、桁行五間、梁間三間、一重、寄棟造、向拝一間、背面張出し附属、銅瓦葺。三仏堂の北側に建つ簡素な建物で、輪王寺山内では最も古く、貭が良い。」

護摩堂
「相輪橖の裏手にある護摩堂には、毘沙門天、大黒天、弁財天が祀られている。」









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