花笑 はなえみ

          呼吸を大切に 呼吸を忘れないで と願っています

隠れされた十字架 法隆寺論

2013年11月30日 13時13分35秒 | 本棚
著者:梅原猛

 法隆寺創建着手~西暦670年天智9年法隆寺全焼
 法隆寺再建着手~西暦711年和銅4年法隆寺完成

 法隆寺再建派の著者自身がエッセイと称している本ですが、研究書とも、論文とも、推理小説とも読みとれました。
 私に古代史の知識があればもう少しは読み易かったのかもしれません。

 この本を読んでいくうちに、繰り返し出てくる残虐なフレーズに、吐き気のような感覚が幾度となくあらわれてきました。
 著者自身も書きながら、幾度も体調に影響を及ぼすような状況に陥ったのではないかと想像されます。

 私は、聖徳太子ファミリーと仏像や資材帳などを含む法隆寺にまつわる謎を、世紀の名探偵のように解明していこうとする著者の気迫に圧倒されたのかもしれません。

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 西暦643年(皇極2年11月)法隆寺において、聖徳太子のご子息である山背皇太子が追い詰められ、そして殺害(自害?)され、御一族25人(幼子、女性も含まれていたのでしょうね)が皆殺し(自害?)にされるという卑劣極まりない残虐行為があったのですね。

 幼子や子どもが自害する様を想像できますか?建物の内部のすべてから悲鳴が聞こえたり、血の匂いがしたり、周囲がぬるぬると血の色に染まっていくなか、その場にいた方々の恐怖はいかばかりだったでしょうか。どんな言葉が飛び交っていたのでしょうか。痛み嘆き苦しみにあえぐ親きょうだいを目の当たりにしたファミリーの長の苦渋、全身全霊の痛みとはいかなものか想像できますか。人間とは・・・
 人間とは、何度でも・・・
 それから1年7ヶ月後、西暦645年(大化元年6月)中大兄皇子(後に天智天皇)、中臣鎌足(後に藤原姓)などによるクーデター勃発。

 クーデターは成功しましたけど、その真意はいずこにあったのでしょうか。

 法隆寺は、時の権力者一族が聖徳太子を敬って建立したのではなく、謀って追い落とした聖徳太子一族への畏怖心や不安感などから、怨霊としてまつり封じ込めるために造ったものだということです。
 つまり、聖徳太子一族を直接手にかけたのは蘇我一族の関係者かもしれませんが、もっと高みから政局を操っていた一族や政敵が計画的にすすめたということでしょう。

 法隆寺の行事に関わる内容も、聖徳太子一族に対する魂鎮めの意味合いが強いようです。
 お寺というより、聖徳太子一族のお墓のようですが。

 ちなみに、『徳』や『祟』を当てられる皇子や天皇は、不運の方が多いように思いますが、いかがでしょうか。

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 法隆寺の行事のひとつ、聖霊会小会式(しょうりょうえしょうえしき)の儀式のなかでは、般若心経一巻、法華経からは普門品も唱えられるとのことです。

 他に、法華経つながりの有名人として、宮沢賢治さん、いわさきちひろさんが浮かんできます。

 私自身、たまにしか開かない法華経ですが、心向くままに安楽行品などを朗唱していると、自身の朗唱している声の響きとこの身のなかの奥底で冥想している魂が共鳴して、自分自身でさえ知らず気づかない自分自身が微笑んでいて、世界が開けてくるように感じています。

 みなさま、どうぞ、ご自身のお好きな本のお気に入りのフレーズを、声を出して、精一杯の澄んだ明るい響きをイメージして詩ってみてくださいませ。
 お声の調子がお悪いときや、声を出せない場合は、心の声を感じてください。
 その澄んだ明るい響きは、力(エネルギー)となって自身にはね返ってくるのですから。

 ご参考までに、私が所有している法華経です。
 法華経現代語訳 全
 三枝充悳(さえぐさみつよし) 第三文明社

感動 霊感

2013年11月07日 09時07分50秒 | 本棚
青春とは、心の若さである。-サムエル・ウルマン[詩と書翰]より抜粋

 青春

青春とは人生のある期間ではなく、
心の持ちかたを言う。
薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな手足ではなく、
たくましい意志、ゆたかな想像力、炎える情熱をさす。
青春とは人生の深い泉の清新さをいう。

青春とは臆病さを退ける勇気、
安きにつく気持ちを振り捨てる冒険心を意味する。
ときには、二〇歳の青年よりも六〇歳の人に青春がある。
年を重ねただけで人は老いない。
理想を失うとき初めて老いる。
歳月は皮膚にしわを増すが、熱情を失えば心はしぼむ。
苦悩・恐怖・失望により気力は地に這い精神は芥になる。

六〇歳であろうと一六歳であろうと人の胸には、
驚異に魅かれる心、おさな児のような未知への探究心、
人生への興味の歓喜がある。
人から神から美・希望・よろこび・勇気・力の
霊感を受ける限り君は若い。

霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ、
悲嘆の氷にとざされるとき、
二〇歳であろうと人は老いる。
頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、
八〇歳であろうと人は青春にして已む。

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サムエル・ウルマンは、1840年ドイツ生まれのユダヤ人です。
第二次世界大戦中の迫害と追放などにより、一家でドイツからアメリカへ移住したそうです。

ウルマンは、ユダヤ社会の傑出したリーダーとして、ユダヤ教の敬虔な信者として、正義を信じ、平和を愛し、虐げられし者へ恵みを与えてきた、と序文に記されています。

作詩を本業としないウルマンが詩をものにしたのは晩年のようですが・・。
八〇歳の誕生日を祝って、家族・知人が編集し、縁者に配った私家版、49篇の詩が収められています。

序文:宇野収(東洋紡会長)、訳:作山宗久、初版:1989年、発行所:TBSブリタニカ

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ユダヤ関係の本、資料等はあまり読んだことはありません。しかし、その数少ない読書経験のほとんどが「あっ、これ良いね!」という実感です。
宗教を問わず、国籍を問わず、人種を問わず、信条を問わず、年齢を問わず、性別を問わず、その人の生き方、生き様に感動し、共感し人は変わっていくように思えます。このような出会いも、最上の出会いのひとつでしょう。

聖フランチェスコ(聖フランシスコ)

2013年11月06日 11時29分33秒 | 本棚
こんにちは。今、散歩に行く前に絵本を見てからと思って、絵本を開き朗読しておりました。そうしたら、いろいろと思い出が蘇ってきて、この通り書き連ねてしまいました。

昔々に、聖フランチェスコの激動の青春時代を描いた映画『ブラザー・サン シスター・ムーン』を観ました。
その映画を観た頃は、私自身若くもあり、フランチェスコの魂の繊細さと純粋さにひどく惹かれ感動しておりました。
日本人(歌手:桑原一郎、透明感があり伸びやかな美声)が日本語の歌詞で唄っていたレコードも買ってよく聴いておりました。
お気に入りのフレーズは、愛されるより愛したい空を飛ぶ鳥のように・・・のあたりです。

ここに、今日の散歩の邪魔をした絵本があります。沢山の美しい詩が洗練された美しいイラストと共に表現されています。その中から一篇を抜粋し載せてみました。

小さなもの、弱いもの、
病めるもの、貧しいもの、
迫害と差別に
苦しむものこそ
イエスはこよなく
愛した
わたしもまたかれらを
こよなく愛する
かれらこそ、かけがえのない
わたしの家族

『聖フランシスコ アッシジの光』詩・絵:葉祥明、英仏訳:マリアの宣教者フランシスコ修道会、1999
年1刷、発行所:自由国民社

映画 世界を変えた男

2013年11月05日 08時55分03秒 | 映画
秋です。図書館へ寄って絵本を借り、その足で菊人形展を見て、かねてより計画していた『世界を変えた男』を見てきました。

ジャッキー・ロビンソンというメジャーリーガーの物語です。
彼が登場するまでは白人選手のみが出場できたプロスポーツ、野球です。
太平洋戦争終結直後から彼の力は目に見え発揮されていきます。

彼が何故成功したのかは、映画からははっきりとは掴み切れませんでしたが、才能も体力もその魂も心も並外れていたことと、運命の出会いがあったからかもしれません。
運命の出会いとは、球団ゼネラルマネージャー、ブランチ・リッキーとの出会いです。

黒人に対する根強い偏見、人種差別・・肌の色(黒、黄、白等)による人種の区別がくっきりと刻み付けられている社会、レストラン、ホテル、バス等の乗り物、トイレまで別々に区別をつけられている日常生活です。凄まじい迫害があったようです。

そんな中、ジャッキーの野球に対しての優れた才能を発掘し支えたブランチ・リッキーという人物は、やはり並外れた魂と心の持ち主だったことでしょう。

このブランチ・リッキーは、時々、対立している相手を説得するときや交渉するとき、聖書の引用、天国、神のことを口にしています。この人は強い信念の持ち主であると共に、強い信仰をもって、いばらの道、嵐の道を突き進んでいった人なのでしょうね。
ブランチ・リッキー自身は、ジャッキー・ロビンソンを、苦難のイエスにも譬(たと)えていました。

奴隷制度の記憶も国民の間にはかなり残っていて、肌の色を取り立てて人間の優劣を決め付けることもありふれた時代、白人社会だったアメリカが舞台の映画です。

私が子どもの頃、きょうだいの誰かが親から買ってもらった『アンクルトム物語』が蘇ってきました。
日本でも、今でも、肌の色ではないけれど、差別がありますよね。

この映画の中でリッキーが、苦悩し嘆き荒れて呻(うめ)きのような言葉を吐いたジャッキーに対して、紳士であれ、耐えろ、試合で示せ、のような(あまり覚えていませんが)言葉で応えたのが印象的でした。

渾身の言葉には人を動かす力・エネルギーが秘められているのですね。

ジャッキーの背番号42は、アメリカ大リーグでは、唯一全球団共通の永久欠番とのことです。

4月15日、大リーグでは、グラウンドにいる全員が背番号42を付けるのだそうです。黒も黄も白も区別なく42です。他の一切に左右されないスポーツ精神なんですね。

勝者とは当たり前のことができる人

2013年11月04日 09時37分41秒 | エッセイ
単純に、当たり前のことを実践していくことは、むずかしいと思っています。
それを教えてくれているのが、先人たちの遺した宝詞(たからことば)です。

確実に、ひとときも外すことなく、百パーセント、その『当たり前のことをする』を実行できるものが人間社会に、現に、生きてあるか?と問う。
出会ったことがあるか?と尋ねる。

今生きているすべての人間に出会ったわけではありません。
今存在するすべての書物を読み明かしたわけではありません。
それでも、日々、当たり前のことを実践している人間はいない、と思っています。

ちょっとだけなら良いんじゃない、その位は誰だってやるよ、そんなの当たり前じゃん、人間だもの、そこまでの人間なら、など自分を基準にして、『当たり前』を定義する。自分を基準にしたら自分に優っている人間って数限りないくらい存在するとは思えませんか?

当たり前のことが日々100パーセントできなくても、普通よりちょっとできるだけでも、今回特別な日だからパス、なんてことを日常茶飯事に言っている人って見たことないですか?

当たり前のことをするって、どういうことでしょう。
その位とか、特別の日だからとか、ちょっとだけとか、当たり前に言い訳する。それって、既に当たり前のことではないことにすら気づけない人って多くないですか?
その言い訳って、『当たり前のこと』と称するのでしょうか?
 
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我が師ブッダ。私のお気に入りの『たからことば』です。
みなさまの我が師は?みなさまのお気に入りの『たからことば』は?

ここには当たり前のことが説かれています。

≪ブッダ≫岩波文庫 ブッダの真理のことば感興のことば36.p183-185偈より引用
すべて悪しきことをなさず、善いことをおこない、自己の心を浄めること、---これが諸の仏の教えである。

忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は<道の人>ではない。

罵らず、害わず、戒律に関しておのれを守り、食事に関して(適当な)量を知り、淋しいところにひとり臥し、座し、心に関することにつとめはげむ。---これがもろもろのブッダの教えである。

 
≪諸佛の教え≫日本テーラワーダ仏教協会 日常読誦経典23.p法句経183-185偈より引用
一切の悪行為を行わないこと。善に至る(善行為を行う)こと。自らの心を清めること。これが佛陀たちの教戒である。

忍耐・堪忍は最上の修行である。涅槃は最高のものであると、佛陀たちは説きたもう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は「道の人」ではない。

罵らず、害わず、戒律に関して己を守り、食事に関して(適当な)量を知り、淋しいところにひとり臥し、座し、心に関することにつとめはげむ。これが佛陀たちの教戒である。

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上記、ふたつの出版社から出ている法句経の訳文ですが、訳者によって印象がだいぶ変わるものだなと思いました。
私個人の方向性に影響を与えている宝詞(たからことば)です。
生きて、身近で教えを乞うことが可能な師に巡り逢うことは、当たり前のことではないように思えます。

人々の縁。生命の縁。天地の縁。最上の縁。

最上の縁、視覚で捉えられないもの、聴覚で捉えられないもの、触角で捉えられないもの、嗅覚で捉えられないもの、味覚で捉えられないもの、あるいはその何れかがあれば捉えられるものだったりするものか。それは、捉えたと体験・実感したものが知りうるもの。

画家は視覚が大きく影響しているけれど、視覚以外の感覚も併せて作品に影響を及ぼす。音楽家は聴覚が大きく影響するけれど、聴覚以外の感覚・体験がなければ表現が薄くなる。シェフは味覚が大きく影響するけれど、嗅覚・視覚・触覚なども大きく影響する。

芸術との縁、音楽との縁、味わいとの縁、感動との縁、大いなる自然界との縁、自分より何かが優れている人との縁、当たり前を知ることができる縁でも、気づく力・気づく心・注意力が小さいと残念なことになりかねませんが。

私は、当たり前のことをする心を育てるのは、自分自身にしかできないことだと思うのです。

芸術家を目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
音楽家を目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
シェフを目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
宗教家を目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
文筆家を目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
教師を目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
更に細分化していくと、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、その上位に位置する学校の教師など、教師といっても学ぶ側の人間によって当たり前のことは異なってくるでしょう。なぜならば、主役は教える側の人間ではなく学ぶ側の人間だからです。

官僚を目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
政治家を目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
営業マンを目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
独立企業家を目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
サラリーマンを目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
プロスポーツ選手を目指している人の当たり前のことはなんでしょう。

学生を目指している人は、おそらくいないと思いますが、有名校等への入学や有名校等の卒業を目指している人なら沢山いるのでしょう。そういう場合、まだ目指すその先がありますでしょう。最終的にどこへ辿り着きたいのか、ですが。

最大公約数として、人間性においては共通の当たり前があっても、個々の分野・専門の分野を目指している人の当たり前のことをする、当たり前のことができるって、やっぱり異なりますよね。
でなければ、この人間社会はもっとシンプルで解りやすいものに向かっているはずなのですから。

シンプルに、当たり前のことをする、当たり前のことができている人って、他人から見たら苦行の日々を、当たり前のように自然に送っている人のことではないでしょうか。
忍耐とか堪忍とかが生活の中に溶け込んでいて、忍耐や堪忍とは認識しておらず、他人にもそう見えない状態の人。
そうは言っても、百人百様と申しますから、まずは自分の足元から調えることが先決ですよね。

ちなみに私が思うところの当たり前のことですが、(あらゆる)悪いことをしない、善いことをする、です。
これを日々たゆまず完全に実行している人がいるなら、完全無欠の人間、と思います。