単純に、当たり前のことを実践していくことは、むずかしいと思っています。
それを教えてくれているのが、先人たちの遺した宝詞(たからことば)です。
確実に、ひとときも外すことなく、百パーセント、その『当たり前のことをする』を実行できるものが人間社会に、現に、生きてあるか?と問う。
出会ったことがあるか?と尋ねる。
今生きているすべての人間に出会ったわけではありません。
今存在するすべての書物を読み明かしたわけではありません。
それでも、日々、当たり前のことを実践している人間はいない、と思っています。
ちょっとだけなら良いんじゃない、その位は誰だってやるよ、そんなの当たり前じゃん、人間だもの、そこまでの人間なら、など自分を基準にして、『当たり前』を定義する。自分を基準にしたら自分に優っている人間って数限りないくらい存在するとは思えませんか?
当たり前のことが日々100パーセントできなくても、普通よりちょっとできるだけでも、今回特別な日だからパス、なんてことを日常茶飯事に言っている人って見たことないですか?
当たり前のことをするって、どういうことでしょう。
その位とか、特別の日だからとか、ちょっとだけとか、当たり前に言い訳する。それって、既に当たり前のことではないことにすら気づけない人って多くないですか?
その言い訳って、『当たり前のこと』と称するのでしょうか?
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我が師ブッダ。私のお気に入りの『たからことば』です。
みなさまの我が師は?みなさまのお気に入りの『たからことば』は?
ここには当たり前のことが説かれています。
≪ブッダ≫岩波文庫 ブッダの真理のことば感興のことば36.p183-185偈より引用
すべて悪しきことをなさず、善いことをおこない、自己の心を浄めること、---これが諸の仏の教えである。
忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は<道の人>ではない。
罵らず、害わず、戒律に関しておのれを守り、食事に関して(適当な)量を知り、淋しいところにひとり臥し、座し、心に関することにつとめはげむ。---これがもろもろのブッダの教えである。
≪諸佛の教え≫日本テーラワーダ仏教協会 日常読誦経典23.p法句経183-185偈より引用
一切の悪行為を行わないこと。善に至る(善行為を行う)こと。自らの心を清めること。これが佛陀たちの教戒である。
忍耐・堪忍は最上の修行である。涅槃は最高のものであると、佛陀たちは説きたもう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は「道の人」ではない。
罵らず、害わず、戒律に関して己を守り、食事に関して(適当な)量を知り、淋しいところにひとり臥し、座し、心に関することにつとめはげむ。これが佛陀たちの教戒である。
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上記、ふたつの出版社から出ている法句経の訳文ですが、訳者によって印象がだいぶ変わるものだなと思いました。
私個人の方向性に影響を与えている宝詞(たからことば)です。
生きて、身近で教えを乞うことが可能な師に巡り逢うことは、当たり前のことではないように思えます。
人々の縁。生命の縁。天地の縁。最上の縁。
最上の縁、視覚で捉えられないもの、聴覚で捉えられないもの、触角で捉えられないもの、嗅覚で捉えられないもの、味覚で捉えられないもの、あるいはその何れかがあれば捉えられるものだったりするものか。それは、捉えたと体験・実感したものが知りうるもの。
画家は視覚が大きく影響しているけれど、視覚以外の感覚も併せて作品に影響を及ぼす。音楽家は聴覚が大きく影響するけれど、聴覚以外の感覚・体験がなければ表現が薄くなる。シェフは味覚が大きく影響するけれど、嗅覚・視覚・触覚なども大きく影響する。
芸術との縁、音楽との縁、味わいとの縁、感動との縁、大いなる自然界との縁、自分より何かが優れている人との縁、当たり前を知ることができる縁でも、気づく力・気づく心・注意力が小さいと残念なことになりかねませんが。
私は、当たり前のことをする心を育てるのは、自分自身にしかできないことだと思うのです。
芸術家を目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
音楽家を目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
シェフを目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
宗教家を目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
文筆家を目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
教師を目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
更に細分化していくと、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、その上位に位置する学校の教師など、教師といっても学ぶ側の人間によって当たり前のことは異なってくるでしょう。なぜならば、主役は教える側の人間ではなく学ぶ側の人間だからです。
官僚を目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
政治家を目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
営業マンを目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
独立企業家を目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
サラリーマンを目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
プロスポーツ選手を目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
学生を目指している人は、おそらくいないと思いますが、有名校等への入学や有名校等の卒業を目指している人なら沢山いるのでしょう。そういう場合、まだ目指すその先がありますでしょう。最終的にどこへ辿り着きたいのか、ですが。
最大公約数として、人間性においては共通の当たり前があっても、個々の分野・専門の分野を目指している人の当たり前のことをする、当たり前のことができるって、やっぱり異なりますよね。
でなければ、この人間社会はもっとシンプルで解りやすいものに向かっているはずなのですから。
シンプルに、当たり前のことをする、当たり前のことができている人って、他人から見たら苦行の日々を、当たり前のように自然に送っている人のことではないでしょうか。
忍耐とか堪忍とかが生活の中に溶け込んでいて、忍耐や堪忍とは認識しておらず、他人にもそう見えない状態の人。
そうは言っても、百人百様と申しますから、まずは自分の足元から調えることが先決ですよね。
ちなみに私が思うところの当たり前のことですが、(あらゆる)悪いことをしない、善いことをする、です。
これを日々たゆまず完全に実行している人がいるなら、完全無欠の人間、と思います。
それを教えてくれているのが、先人たちの遺した宝詞(たからことば)です。
確実に、ひとときも外すことなく、百パーセント、その『当たり前のことをする』を実行できるものが人間社会に、現に、生きてあるか?と問う。
出会ったことがあるか?と尋ねる。
今生きているすべての人間に出会ったわけではありません。
今存在するすべての書物を読み明かしたわけではありません。
それでも、日々、当たり前のことを実践している人間はいない、と思っています。
ちょっとだけなら良いんじゃない、その位は誰だってやるよ、そんなの当たり前じゃん、人間だもの、そこまでの人間なら、など自分を基準にして、『当たり前』を定義する。自分を基準にしたら自分に優っている人間って数限りないくらい存在するとは思えませんか?
当たり前のことが日々100パーセントできなくても、普通よりちょっとできるだけでも、今回特別な日だからパス、なんてことを日常茶飯事に言っている人って見たことないですか?
当たり前のことをするって、どういうことでしょう。
その位とか、特別の日だからとか、ちょっとだけとか、当たり前に言い訳する。それって、既に当たり前のことではないことにすら気づけない人って多くないですか?
その言い訳って、『当たり前のこと』と称するのでしょうか?
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我が師ブッダ。私のお気に入りの『たからことば』です。
みなさまの我が師は?みなさまのお気に入りの『たからことば』は?
ここには当たり前のことが説かれています。
≪ブッダ≫岩波文庫 ブッダの真理のことば感興のことば36.p183-185偈より引用
すべて悪しきことをなさず、善いことをおこない、自己の心を浄めること、---これが諸の仏の教えである。
忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は<道の人>ではない。
罵らず、害わず、戒律に関しておのれを守り、食事に関して(適当な)量を知り、淋しいところにひとり臥し、座し、心に関することにつとめはげむ。---これがもろもろのブッダの教えである。
≪諸佛の教え≫日本テーラワーダ仏教協会 日常読誦経典23.p法句経183-185偈より引用
一切の悪行為を行わないこと。善に至る(善行為を行う)こと。自らの心を清めること。これが佛陀たちの教戒である。
忍耐・堪忍は最上の修行である。涅槃は最高のものであると、佛陀たちは説きたもう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は「道の人」ではない。
罵らず、害わず、戒律に関して己を守り、食事に関して(適当な)量を知り、淋しいところにひとり臥し、座し、心に関することにつとめはげむ。これが佛陀たちの教戒である。
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上記、ふたつの出版社から出ている法句経の訳文ですが、訳者によって印象がだいぶ変わるものだなと思いました。
私個人の方向性に影響を与えている宝詞(たからことば)です。
生きて、身近で教えを乞うことが可能な師に巡り逢うことは、当たり前のことではないように思えます。
人々の縁。生命の縁。天地の縁。最上の縁。
最上の縁、視覚で捉えられないもの、聴覚で捉えられないもの、触角で捉えられないもの、嗅覚で捉えられないもの、味覚で捉えられないもの、あるいはその何れかがあれば捉えられるものだったりするものか。それは、捉えたと体験・実感したものが知りうるもの。
画家は視覚が大きく影響しているけれど、視覚以外の感覚も併せて作品に影響を及ぼす。音楽家は聴覚が大きく影響するけれど、聴覚以外の感覚・体験がなければ表現が薄くなる。シェフは味覚が大きく影響するけれど、嗅覚・視覚・触覚なども大きく影響する。
芸術との縁、音楽との縁、味わいとの縁、感動との縁、大いなる自然界との縁、自分より何かが優れている人との縁、当たり前を知ることができる縁でも、気づく力・気づく心・注意力が小さいと残念なことになりかねませんが。
私は、当たり前のことをする心を育てるのは、自分自身にしかできないことだと思うのです。
芸術家を目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
音楽家を目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
シェフを目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
宗教家を目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
文筆家を目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
教師を目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
更に細分化していくと、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、その上位に位置する学校の教師など、教師といっても学ぶ側の人間によって当たり前のことは異なってくるでしょう。なぜならば、主役は教える側の人間ではなく学ぶ側の人間だからです。
官僚を目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
政治家を目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
営業マンを目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
独立企業家を目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
サラリーマンを目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
プロスポーツ選手を目指している人の当たり前のことはなんでしょう。
学生を目指している人は、おそらくいないと思いますが、有名校等への入学や有名校等の卒業を目指している人なら沢山いるのでしょう。そういう場合、まだ目指すその先がありますでしょう。最終的にどこへ辿り着きたいのか、ですが。
最大公約数として、人間性においては共通の当たり前があっても、個々の分野・専門の分野を目指している人の当たり前のことをする、当たり前のことができるって、やっぱり異なりますよね。
でなければ、この人間社会はもっとシンプルで解りやすいものに向かっているはずなのですから。
シンプルに、当たり前のことをする、当たり前のことができている人って、他人から見たら苦行の日々を、当たり前のように自然に送っている人のことではないでしょうか。
忍耐とか堪忍とかが生活の中に溶け込んでいて、忍耐や堪忍とは認識しておらず、他人にもそう見えない状態の人。
そうは言っても、百人百様と申しますから、まずは自分の足元から調えることが先決ですよね。
ちなみに私が思うところの当たり前のことですが、(あらゆる)悪いことをしない、善いことをする、です。
これを日々たゆまず完全に実行している人がいるなら、完全無欠の人間、と思います。