花笑 はなえみ

          呼吸を大切に 呼吸を忘れないで と願っています

たからことば 真理のことば 怒り

2013年09月22日 09時19分45秒 | 本棚

岩波文庫中村元訳『真理のことば』のなかに『怒り』というテーマがあります。

227項目から次の詩句が綴られています。

アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。

ただ謗られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない、と続いていきます。

この詩句には解説がついています。

在俗信者のアトゥラがレーヴァタ長老のところに行って教えを聞こうとしたら、瞑想に耽っていて何も説いてくれなかった。
次にサーリプッタ長老のところへ行ったら、アビダルマに関する論議をやたらに聞かされた。
次にアーナンダ長老のところへ行ったら、ほんの少しばかり教えを説いてくれた。
最後に祇園精舎の釈尊のところへ行ったら、この詩句を語ってくれたのだという。

奥深い釈尊の対応ですね。

沈黙している者とは、レーヴァタ長老のこと 
多く語る者とはとは、サーリプッタ長老のこと
すこしく語る者とは、アーナンダ長老のこと

アトゥラはこの三賢者から希望の回答を得られず腹を立てたんですね。

この三賢者のように、相手の技量に合わせず、あるいは見極められず、だれかれに対しても同じように対応していては大切なことは伝わらないのですね。

怒りにまかせて感情を爆発させているアトゥラに対して、丁寧な解説付きで説明しているブッダの忍耐と智恵と慈悲に溢れた対応は「おおー!」という賛嘆の感情しか湧き出てきません。

現代流に例えれば、クレーマーと最終対応者のごとく、でしょうか。

ちなみにサーリプッタ長老が得意とするところの『アビダルマ』についてはあまり知りませんが、私の手元には『アビダンマッタサンガハ』という書物があります。
これは『原典アビダンマッタサンガハ』の概要書です。

『原典アビダンマッタサンガハ』は、第6回仏典結集によるビルマ版で12巻5000ページくらいのものらしいです。
その7論12巻5000ページの内容を67ページにまとめたものが『アビダンマッタサンガハ』です。

『アビダンマッタサンガハ』は、ビルマでは仏教の初歩学として、出家者必須の書のひとつとのことです。
 私が所持しているのは勿論日本語版(全314ページ)ですが、その道の人に解説していただかないと内容を理解することは極めて困難です。

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昨晩は気分が整っていたので久し振りに法華経を朗唱しました。
第10章法師品は、28章中お気に入りのひとつです。

比喩の文学とも称されることのある法華経ですが、この法師品では教えを説く立場の者の厳しさと心構えと裏づけと方法論と幸いを語っているように思えます。

やはり奥深く感じられます。


映画 終戦のエンペラー

2013年09月15日 07時24分39秒 | 映画
この映画を見に行った理由は、
面白そうだと思ったからではなく、
見たいと思ったからではなく、
時間が空いたから埋めたかっただけ、
でしたっけ。

史実的な戦争、に関わる映画って初めて見ました。

いろんな争いがあるけれど、
戦争って、人間に、何を与えてくれるものなのでしょうか。
戦争、勝者への褒美、誰が、何を、与えるのか、それを解っている人間を
あなたは知っていますか。
そして、敗者とは何者を指すのでしょうか。
恐怖を抱いていたのは敗者だけだったでしょうか。
人間性の喪失は敗者だけだったでしょうか。
国家の誇り、民族の誇り、家族の誇り、ひとりの人間としての誇りを、
勝者が敗者を裁けるのでしょうか。

何故、私はこの映画を見に行ったのでしょうか。
何故、アメリカは戦争を選択したのでしょうか。
何故、日本は戦争を選択せざるを得なかったのでしょうか。
何故、世界は戦争を回避できなかったのでしょうか。
何故、人間は戦争を回避できないのでしょうか。
何故、人間は闘いを選択したのでしょうか。
何故、生命は人間を選択したのでしょうか。
何故、生命は選択を誤ったのでしょうか。
それとも、選択の問題ではなく、
単純な誰かの自己都合とか経験志向とか好き嫌いなどという類の、単純な問題なのでしょうか。
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人間の視点で、地球を大きく分類・分解していくと海と陸と空になります。大陸・島・海洋・天空など含めてそれらを分類・分解していくと国家になります。国家を分類・分解していくと地方になります。さらに地方を分類・分解していくと地域になります。そこからさらに小さな地域に区切ります。その小さな区域には学校、会社、商店が配置され、いくつもの共同体があります。またさらに細かくしていくと血縁共同体、そして家族、そして個人まで分類・分解できます。

ひとりひとりの集合体から事は始まるのです。
ひとりからふたり、ふたりからさんにん、さんにんからじゅうにん、このあたりまでだとまだ人間らしいかな。
100人、1000人、10000人なんて書いてくると人間のことを書いているというより、データのことを書いている気分になってきます。
人はいつから、人は何をきっかけに、人はどの段階で、人である意識や認識を喪失していくのかな。

1000、10000、100000、1000000、10000000、1000000000000000  ・・・・・・ 数字の集合体は、何かしら分類したくなるような記号です。
何を分類するかといえば、疑心、差別、志向、恐怖心、嫌悪感、優越感、富集め、主導権集め、あるものをないとするもの、ないものをあるとするもの、国、信条、民族、人間、世界の将来図、自国の領土、自国の利益、世界のエネルギー量など、見えるもの・見えないものを含めてほぼ無限ですね。欲の塊の人間の考えることですから。
いろんな物事が交錯してある種の団体が出来上がったりします。

最初は小さくても、1年、10年、100年、1000年、10000年と時間が蓄積されていくと垢がたまってきます。
ひとり、ふたり、さんにん、10人、100人、1000人、10000人と歴史が蓄積されていけば垢も落とせなくなります。
でも、始まりは小さいのです。

ひとりを大切に、いちにちを大切に、人間以外のいきものも大切に、ちいさな花、ちいさな虫、身近な動物も大切に、つながりを大切に、次代へ引き継いで欲しいものは、大切なものは何でしょう。
人類がためこんできた垢の中から、良いものを選び取って活用していく叡智の力こそ必要なものです。
それは、慈悲の力とともに人類の宝だと思います。
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戦争って、人間から、いろいろなものを奪っていきますが、
戦争が与えてくれるものを知っている人間がいるから、
回避できないのでしょうか。

人間って、その都度、何かしらを選択し、
何かしらを捨て、何かしらを手にし、
時間の世界を突き進んでいますよね。
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どちらかと言えば勝ち負けや闘いの類を好まず、
日常、スポーツ観戦などほとんどしない生活なので、オリンピックも見ませんし、テレビも置いていませんし、新聞の購読もありません。
人間的に、どっかが、何かが欠落してるのかな。

そんな私が、10月にスポーツ観戦をしてきます。
贔屓のチームもないのに、プロバスケットのチケットを買いました。
どういう心境の変化かは我ながら知りませんが、
人生、こんな経験は悪くはありませんよね。

どちらのチームが勝ち、どちらのチームが負けるのか、
私はそれを見なくちゃならないんですね。
スポーツに関わる人って、引き分けは好みませんよね。
そして、試合中、試合後の結果については、勝者でもない敗者でもない審判員が判定します。
時として、審判員の判定に対して観戦者がジャッジを下すんですね。
そこのところが面白いです。
スポーツですから、勝者だからといって敗者への判定を下すことはできません。
勝者だからといって、審判員だからといって、観戦者の感情や思いを意のままに動かすこともできません。
スポーツ観戦は、そこのところが面白いのかもしれません。
こういうのを野次馬っていうのでしょうか。

喪失

2013年09月08日 12時57分26秒 | エッセイ
昔々、とある講習会に参加したときの記憶です。

人は誰しも年月を重ね、老いていくものです。

この世への誕生に始まり、
あの世とやらへの死に至るまでの過程で、
ひとつひとつ積み上げてきたものが、
ひとつひとつ離れていきます。

その講習会では6項目のみを取り上げていました。
6項目の何れのものから離れていくか、
自分ならどれが最初に失われていくか、
カードを抜いていって、
抜いた順番に並べてくださいと指示がありました。

6枚のカードとは、
友人、お金、健康、家族、意欲、役割・仕事でした。

その時の参加者の年代は様々だったように記憶しています。
そして、抜いていったカードの順番も、人それぞれ違いました。

人は生まれてよりこのかたまで、
多くのものを獲得し、
多くのものを手放していくことになるのでしょう。

みなさまの場合は、如何でしょうか?
何れのカードから離れていくのでしょう。

他のサイトで運営していた『虹の色は無限』と
『はなえみ』というふたつのブログを、
今日をもって閉じました。
これも、喪失ですね。


鴨長明による方丈記を暗唱している方もおいでと思いますが、
行く川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず・・・

作者がはっきりしていないそうですが、平家物語の出だし
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす
おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし
たけき者もつひには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ

ちょっと寂しく沈んでしまいましたね。
まとめるのが困難な状況ですが、
生老病死は当たり前のこと、
祈りと希望と行動をもって目の前の現実と
向き合うことが大切だということになるのでしょう。