両堂の首座が同時に大喝したとたん、その主客の別を明白に見て取ったが、そのように智慧と行動とは間髪を容れずに発出して、もともと先後を分かつことはなかった。
僧はここでもたついた。すかさず師は一喝し、追い打ちの一棒をくらわして言った、「虚空に釘を打つような真似はするな。」
お前たち自身の信念不足のために、こうして無用な論議に落ちこむのだ。
「さあ言え! さあ言え!」その僧はもたついた。
僧疑義す。師便ち打つ。
師がまた払子を立てると、僧は一喝した。師もまた一喝すると、僧はもたついた。師はすぐに僧を打った。
それはちょうど柔らかな蓬の枝で撫でられたようであった。
いかなる時も、無暗にああこう分別するな。
さまざまな方便の顕現は、実は真実そのもののはたらき出た姿にほかならない。(訳注)
また師は言った、「一句の語には三玄門が具わっていなくてはならず、一玄門には三要が具わっていなければならない、そうあってこそ方便もあり、はたらきもある。さて皆の衆、ここをどう会得するか。」こう言って座を下りた。
臨在の四料揀
師、晩参、衆に示して云く、有る時は奪人不奪境、、有る時は奪境不奪人、有る時は人境倶奪、有る時は人境倶不奪。
更に遅疑すること莫れ。
もし自らを信じきれぬと、あたふたとあらゆる現象についてまわり、すべての外的条件に翻弄されて自由になれない。
約山僧見處、興釈迦不別。
山僧が見処に約せば、釈迦と別ならず。
わしの見地からすれば、この自己は釈迦と別ではない。
古人云く、身は義に依って立て、士は体に依って論ずと。
法身仏・報身仏・化身仏
君たちは祖仏と同じで、朝から晩までとぎれることなく、見るものすべてがビタリと決まる。ただ想念が起こると智慧は遠ざかり、思念が変移すれば本体は様がわりするから、迷いの世界に輪廻して、さまざまの苦を受けることになる。
羅漢=小乗における最高の悟りに達した人
その一心が無であると徹底したならば、いかなる境界にあっても、そのまま解脱だ。
臨済の四照用
「照」は相手の内実を見て取る力のはたらき。「用」は相手に仕向ける行動的なはたらき。
心法無形、通貫十方、目前現用。
心法は形無くして、十方に通貫し、目前に現用す。
無事是貴人
名には一切とらわれぬ。これが奥義というものだ。
すべてのものは仮の姿で、実体はないのだと見極めた。ほかでもない〔今そこで〕この説法を聴いている無依独立の君たち道人こそが諸仏の母なのだ。だから仏はその無依から生まれる。もしこの無依に達したならば、仏そのものも無存在なのである。こう会得したならば、それが正しい見地というものである。
例の経典というものも看板の文句にすぎぬ。
ずるずると五欲の楽しみを追っていてはならぬ。光陰は過ぎ易い。一念一念の間も死への一寸刻みだ。
諸君、即今ただいま、これら四種の変化が相(かたち)なき世界であると見て取って、外境に振りまわされぬようにせねばならぬ。
なぜそうなるかといえば、四大は夢や幻のように無実体だと体得しているからだ。
ここが会得できれば、はじめて経典を読んでよろしい。
物がやって来たら、こちらの光を当てよ。
菩薩を求むるも亦た是れ造業、看経看教も亦た是れ造業。
若し他をして荘厳せしむれば、一切の物を即ち荘厳し得ん。
一切の仏典はすべて不浄を払う反古紙だ。
君たちが何か求めるものがあれば苦しみになるばかりだ。あるがままに何もしないでいるのが最もよい。
有身は覚体に非ず、無相乃ち真形、と。
わしから見ると、すべての存在は空相であって、外的な条件次第で有となり、その条件がなければ無となる。三界はただ心の生成であり、一切はただ識の現成であるからだ。
これは母から生まれたままで会得したのではない。体究練磨を重ねた末に、はたと悟ったのだ。
「ただ直下に自己の本来仏なることを頓了すれば(瞬間的に悟れば)、一法の得べきなく、一行の修すべきなし」(『伝心法要』)
「我が語を取るなかれ」 「我が語を記(おぼ)ゆるなかれ」
すでに起こった念慮は継続させぬこと、まだ起らぬ念慮は起こさせぬことだ。
死活循然たり。
「臨在の四賓主」
お前たちはこれを信じきることができず、徒らに観念の上で理解しようとして、年が五十近くなっても、ひたすらその屍骸を脇みちへかつぎ、その荷物を背にして天下を走り回っている。
皆の衆、動と浮動とは両面の姿に過ぎぬ。
だから祖師も言った、『こらっ! 立派な男が何をうろたえて、頭があるのにさらに頭を探しまわるのだ』と。この一言に、君たちが自らの光を内に差し向けて、もう外に求めることをせず、自己の身心はそのまま祖仏と同じであると知って、即座に無事大安楽になることができたら、それが法を得たというものだ。
心生ずれば種種の法生じ、心滅すれば種種の法滅す。
『心が生じなかったら、一切は天下御免』
維摩もいう、「一切の言説は幻化の相を離れず。」
道流、文字の中に向いて求めること莫れ。
看よ、世界は過ぎ易く、善智識には逢い難し。優曇華の時に一たび現ずるが如くなるのみ。
日上に雲無ければ、天に麗(かがや)いて普く照す。
日上無雲、麗天普照。
説似一物即不中(南嶽懐譲)
「それと言挙げすれば、とたんに的はずれになる」
定上座が参見にやってきて問うた、「仏法の根本義を伺いたい。」師は座禅の椅子から下り、胸倉をつかんで平手打ちを食らわせてから突き放した。定上座が呆然と立っていると、そばの僧が言った。「定上座、なぜ礼拝なさらぬ。」そう言われて定上座は礼拝したとたん、はたと悟った。
「臨在の四喝」
師、僧に問う、有る時の一喝は、金剛王宝剣の如く、有る時の一喝は、踞地金毛の獅子の如く、有る時の一喝は、探竿影草の如く、有る時の一喝は、一括の用を作(な)さず。
「教外別伝・単伝心印の法を金剛王宝剣と呼び、また正位という」(『華厳録』)
祇(た)だ空中に鈴の響きの陰陰として去るを聞くのみ。
見識が師以上であってこそ、法を伝授される資格がある。
但有(あらゆ)る言説は、都(すべ)て、実義無し。(潙山)
かくて臨済は、その激発をいざなうための手段として頻りに「喝」を利用する。
徳山禅師の棒と並べて「臨済の喝」と称せられた。
それは「カーッ」と発声することではない。大声で怒鳴ることなのであるが、その大喝が威力と効果を発揮するのは、相手の機を見て取って刹那に噴出できるパワーを具えた人に限る。
*2016年11月20日抜粋終了。
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