ハイナンNETの日常

メンバーが気になってること、メンバーの日常、そして「イアンフ」問題関連情報を書いていきます☆

水曜行動に参加してきました。

2024-02-22 09:36:35 | 活動報告
2024年2月21日、数年ぶりに水曜行動に参加し「サバイバーを記憶する」のコーナーにてお話させていただきました。
長年、水曜行動をされている先輩方に加え、きぼたねやwamで今日の行動を知ってお話を聞きに来てくれた若い世代の方も参加してくれていました。
新宿駅前の道を行く人たちにも向かって、お話してきました。

スピーチタイトル:海南島で出会ったアポ全員が亡くなった今

こんにちは。ハイナンnet〜 中国海南島・戦時性暴力被害者の声を伝えるネットワーク〜です。
昨年2023年の11月9日、李美金(リーメイジン)あぽが亡くなりました。
あぽ(阿婆)は中国語で、南方の言い方で「おばあちゃん」という意味です。
ハイナンnetが海南島で出会った15名のあぽのなかで、ご存命だった最後のお一人でした。
最後にお会いできたのは、2019年の春でした。1926年生まれだったそうですから、90歳を超えていらっしゃいましたが、その時はご家族やご近所さんに囲まれ、穏やかに過ごされているように見えました。その後コロナ禍もありずっと海南島には行けず、最後にもう一度お会いすることは叶いませんでした。

中国最南端の島、海南島の澄邁(チェンマイ)県の農村に住む李美金あぽを、現地の新聞記事に載っていたお名前とお住まいの村名だけを頼りに、ハイナンnetメンバーが初めてお訪ねしたのは、2015年の年末、今日のように、小雨が降る寒い日でした。
あぽにとって私たちは、日本兵が去ってから出会う初めての日本人でした。
多民族が暮らす海南島で、李美金あぽは「臨高人」という、臨高語を話す方だったので、私が海南島の留学先の学校で知り合った臨高人の友人と一緒に訪問し、あぽとの交流の際はその友人に中国の共通語へ通訳をしてもらいました。
あぽは日本からの訪問に驚きながらも歓迎してくださり、最後には私たち1人1人の頬にチュっと挨拶をしてくれるお茶目なあぽでした。

しかし私たち日本人を見て日本兵が来た時の事を思い出したのか、「あの時は本当に辛かった」と険しい表情になり、70年前の被害が今も終わってはいない事を感じました。
いえ、被害が終わっていないのではなく、加害が終わっていないのです。
それは被害者に謝罪も賠償もしない日本政府と、それを支え続けてきた日本社会に生きる私/たちが向き合うべき事実です。
海南島は、「島」と言っても九州や台湾くらいの面積があります。1939年に日本軍の侵略が始まり、敗戦までの7年間占領下に置かれました。占領に対して抗日ゲリラが抵抗運動を繰り広げましたが、日本兵は「ゲリラと一般住民の区別がつかない」ことを口実に島全体で住民虐殺、強かん、略奪を行いました。この話をすると、今この時もパレスチナで起きている集団虐殺、ジェノサイドを思わずにはいられません。#日本政府は今すぐ停戦を求めろ!

海南島は日本政府にとって、東南アジア侵略の足掛かりとなる地理的に重要な島で、さらに鉄、錫、石灰石や木材など豊富な天然資源の略奪も、侵略の大きな目的でした。
朝鮮からも、日本帝国の「治安維持法」などで投獄された朝鮮の方たちが海南島に強制連行され、飛行場や道路建設などの強制労働を強いられました。その朝鮮の方たちは日本の敗戦時にほどんど虐殺されてしまい、その虐殺現場は「朝鮮村」と呼ばれていたという海南島現地住民の方々の目撃証言が残されています。

海南島全土で日本軍「慰安所」が作られ、朝鮮、台湾、中国大陸、海南島現地の女性たちが連れてこられました。また、「討伐」の名のもとに日本兵は村々を襲い、その殺戮の中で、村の女性たちは捕らえられ、日本軍の拠点に連行され、性暴力の被害を受け続けました。
李美金あぽは1941年、15歳の時に日本兵が村に「討伐」にやってきた際に捕らえられ、日本軍の拠点に閉じ込められ、夜は連日性暴力を受け、昼は兵士のために働かされる、という被害に遭いました。

あぽが住む村には、日本軍からの被害を名乗り出た女性がもう2人いました。2017年3月8日に亡くなった符美菊あぽと、昨年2023年8月29日に亡くなった王志鳳あぽです。
この3人のあぽ達は、2001年7月に提訴された海南島戦時性暴力被害賠償請求訴訟の原告にはなりませんでしたが、お名前と顔を公表し、名乗り出る事で立ち上がった女性たちです。
日本軍の占領時、性暴力を受け、そして殺された女性たちが多くいました。占領が終わり、なんとか生き残っても、家父長的で封建的な農村社会で、彼女たちのように名乗り出た被害女性はとてもとても少数です。
彼女たちの背後には、人数もわからないほどのたくさんの、名乗り出ることもできず、誰にも被害の話もできずに沈黙のままひっそりと亡くなっていった被害女性たちの存在があります。

裁判に参加しなかったとしても、名乗り出なかったとしても、被害に遭ったその場所で暮らし続けること、被害後の日々を生き抜くことが、被害女性たちの「闘い」だったと言えます。

韓国の被害女性たちの闘いに勇気づけられ、中国で最初に日本政府に謝罪と賠償を求める裁判を起こしたのは、山西省の被害女性たちでした。
その勇敢な姿を見て、海南島の被害女性達も日本政府を訴える裁判を決意したのです。
海南島裁判支援を通して出会った、
林亞金あぽ、陳亞扁あぽ、黃有良あぽ、譚亞洞あぽ、陳金玉あぽ、鄧玉民あぽ。
ハイナンnetが2005年に発足する前に亡くなられた裁判原告の黄玉鳳あぽと譚玉蓮あぽ。
そうして立ち上がった裁判の原告の姿が広く報道されて、その後1人また1人と名乗り出た女性たちがいました。
現地の新聞にお顔と名前を公表されているのを見て、私たちがその記事を頼りに訪ねて出会った、
王玉開あぽ、符桂英あぽ、林愛蘭あぽ、陳蓮村あぽ、符美菊あぽ、王志鳳あぽ、李美金あぽ、卓天妹あぽ、鄭亞洪あぽ。
裁判の原告になったり、名乗り出てくれた事で、私たちが海南島で出会うことができたあぽ達。彼女たちがみんな亡くなってしまった2024年の今も、この問題は続いています。

今年は、私が2009年に初めて海南島のあぽに出会ってから15年目の節目です。今年も自分にできることを続け、あぽたちが存在していたこと、闘ってきた事をまだ知らない人にも伝えて、国や世代、ジェンダーを越え、皆さんと一緒に考え、行動していきたいと思います。
M.M

あぽたちが、ここまで、生き抜いてくれたことが、わたしたちを生かしてくれたんだなと、あらためて思いました。
あぽたちが生き抜いてくれた人生と歴史の、語り部になって、
いままさに、生き抜かないといけない人たちに、せめて、わたしたちがもらった希望や、勇気を渡せたらいいなと思いました。
N.I

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