
日田には「日本遺産」に選定された文化財「咸宜園(かんぎえん)跡」が整備されています。
「日本遺産」とは地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを文化庁により認定するもので、
初年度の平成27年度に「近世日本の教育遺産群」として咸宜園を含め4か所が認定されました。
「旧閑谷学校(岡山県備前市)」
「旧弘道館(茨木健水戸市)」
「足利学校跡(栃木県足利市)」
今後「学びの遺産」として世界遺産登録を目指しています。
1.咸宜園跡
咸宜園は江戸後期(1817年)に初代塾主「廣瀬淡窓」開いた私塾で、歴代10名の塾主により明治30年(1897年)まで継続されました。
2.塾主の住居「秋風庵」
廣瀬淡窓は日田豆田町の豪商の生まれですが、1805年24歳で長福寺に初めて塾を開き、その後1817年にこの地に咸宜園を開きました。
淡窓は江戸時代後期の三大漢詩人として「頼山陽」「菅茶山」らと肩を並べています。
3.秋風庵の室内
質素な秋風庵は1781年に淡窓の叔父が建てた住宅で、のちに歴代塾主が利用しました。茅葺一部二階建て。
4.全国から集まった門下生は累計5000人
級別の教材内容や昇級制度、試験方法や職任制(自治)、5時起床・10時就寝の時刻表などが記されています。
江戸後期の開塾から明治までの80年間、全国から5000人の塾生が学びました。
幕末の有名人として高野長英(陸奥仙台藩)や大村益次郎(長州藩)などの名が記されていますが、
入門時には学歴・年齢・身分を問いませんでした。
規約や塾則を設けて学習環境を整え、職任制を設け塾の運営を行いました。
毎月実施する「書・詩・文・句読」の試験結果(月旦評)の19等級(無級、最下級の1級から最上級の9級までの上下)により個々の能力を評価し、オープンに席序を決めました。
幕藩体制の時代に全国の若者に塾が解放されたのは日田が幕府の天領として栄えた中立的な都市だったからではないでしょうか。
5.淡窓の書斎「遠思楼」
1849年に建てられた瓦葺二階の淡窓の書斎。
6.招隠洞・梅花塢跡
塾生が学んだ講堂跡なども発掘されています。
日本では明治以降の近代的教育制度が確立する以前から、武士のみならず多くの庶民も読み書き・算術ができ、礼儀作法を身に着けました。
武士を教育した藩校以外に、こうした私塾が全国に普及していた影響があり、明治維新後の近代化の原動力となったといわれています。
撮影:CANON M5
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