龍田 樹(たつた たつき) の 【 徒然ブツブツ日記 】

目についたこと気になることをブツブツと語っていきます。たまぁ~に神霊的情報も有り。更新はかなり気ままですので悪しからず。

見立て違い?

2010-06-07 19:34:41 | “時事”コラム
『鳩山の後継が菅総理なら、小沢院政』と私はブログに書きましたが、現在の菅総理の組閣人事を見る限りでは、その見立てはハズレたようです(笑)

しかし、脱小沢内閣というだけで、支持率がV字回復するんですから民主党は笑いが止まらないでしょう。
そんな民主党政権の陰で一番笑いが止まらないのは一体誰でしょうかねぇ??
良くも悪くも、小沢の虚名を利用して政党支持率が上がる民主党は、小沢院政政党であることに間違いありません。

菅総理になったからといって、民主党のマニフェスト破りが改善されるのでしょうか?
普天間基地の移設先が県外や国外になるのでしょうか?

菅総理は、「増税→医療福祉に税金を投入→景気回復」なんてアホらしい経済対策を掲げていますが、政府の許認可による参入障壁の高い医療福祉分野に税金を投入したって既存の業界団体や人員にお金が落ちるだけです。
医療福祉を雇用対策のために利用すれば、医療福祉従事者の数を増大させる必要があるでしょうが、それは医療福祉従事者の質低下を招く危険性も孕んでいます。

公共事業の土木事業は健康でやる気のある人間なら年齢に関わらず誰でも従事出来るという雇用メリットがありますが、医療福祉従事者には、相応の教育の他に適性も問われます。
しかも、医療福祉に投入されるお金は税金ですが、医療福祉分野がそれだけのリターンのある産業だとは思えません。

この世に永久機関は存在しないように、外貨を稼がずに国内だけのお金を循環するなんてことは、日本では不可能なんです。これは断言出来ます。何故か?
それは日本が食糧とエネルギーの2つのライフラインを輸入に頼っていて、高いお金を払って外国から買っているからです。
外からお金を稼がずに、使ってばかりいたら国内のお金は無くなってしまうのは当たり前の話です。
現在の日本人はそんな基本的な認識さえ忘れて贅沢な暮らしにうつつを抜かしています。

だから日本で内需拡大なんてことを言い出すことは極めて危険なんですよ。
内需拡大とは簡単に言えば「どんどん贅沢して浪費しろ」ってことで、これは元々、貿易黒字を国内にしこたま溜め込んで、全然使わない日本に対して欧米諸国が仕掛けた外圧なんです。
日本はこの外圧に乗せられて、調子に乗ってアメリカの高層ビルや大会社を高いお金で買収しました。
日本国内はそれでも金余りで途中投機が最高潮に達しました。これがバブルです。
今から20年前のこの時代、平成元年から4年間は日本の財政は超健全で国債発行額も最低です。
民主党はよく、「50年に渡る自民党政権がこんな財政状態にした」といいますが、それは必ずしも当たっていません。
まあその後、急激な金融引き締めを行ってバブルを崩壊させたのは、日銀と自民党政権ですが。

現在、日本の国際競争力が弱まり外貨獲得能力が弱まり、貿易黒字も外貨準備金も低下している日本の状況で、内需拡大策をとることは自殺行為だというのが私の持論です。
だから、日本の現状にそぐわない政策を声高に叫ぶ民主党とそれに乗せられかねない国民に、危機感を抱いています。

今日本がすべきことは、輸出をドンドン行って外貨をドンドン稼ぎ、その外貨を国内から外に出さずに溜め込むことです。

お金を外に出さないというのは、食糧やエネルギーの消費を節約して外国に払うお金を少しでも少なくするということで、それは、食糧とエネルギーの自給率を少しでも高めると共に日本人が今の贅沢な大量消費のライフスタイルから脱却する必要があります。

でもそんなことを唱えては選挙に勝てませんから、政治家も政党もそんなことは言いません。

外貨獲得の方策無き、経済性策や内需拡大策は日本にとってあり得ません。
だから、僕は菅総理の経済政策は画餅だと思っています。

議会制民主主義の恐ろしさ

2010-06-06 09:05:00 | “時事”コラム
民主党の今回の代表選は、日本の議会制民主主義の恐ろしさを露呈したものでした。

国民が関知出来ない場所で、国民がまるで知らない人物が総理大臣になってしまう可能性があるのですから。
皆さん、あの樽床なる人物がもし総理大臣になっていたら納得出来ましたか?
納得出来なくても、政党や議員は「国民に付託された与党の議員が選出したということは国民が選出したということです」と言うのです。小沢がよく言うセリフですね。

今回はまだ小沢が正気だったので、自らは動かず若手のやりたいようにやらせただけのようですが、小沢がその気になって動いて締め付けをしたら樽床でも200近くは表を集めたかもしれません。
小沢が狂っていたら樽床は総理大臣になった可能性だってあるのです。怖いですねぇ。

小沢は今回の代表選の結果に満足したでしょう。
自分の派閥がまったく無名に近い候補を擁立して、自分の影響力が低下した中でも、120名の子分は鉄板だと分かった訳ですから。

小沢が岩手の支持団体に送ったというビデオレターを見ましたが、小沢はこんなこと言ってました。
「今回の参院選で民主党が過半数を確保し衆参両院で過半数をとることが真の改革の第一歩だ。それが実現した時には自分は全面に出ていく」と。
私はこれを、「条件が整ったら俺は担がれてもいいよ」ということだと考えています。
あの男が真の政治家だと自認するならいつまでもフィクサーみたいなことしていないで正々堂々と表に立って総理大臣やればいいんですよ。
自分は弾の当たらないところでのうのうとしておきながら、都合のいい場面だけにシャシャリ出て「全国民の要望だ」などと抜かしてかき回すなんて、私には、まるで戦中の大本営の参謀連中みたいに思えて許しがたいんですよね。

小沢にしてみれば、今はどんなことをしても参院選に勝てばいいんです。
菅が後ろ足で砂をかける真似をしてもいいんです。
菅やマスコミが「脱小沢」って騒いでくれればいいんです。
菅の組閣も、仙石や枝野や野田や漣舫が入ってくれていいんです。それで無党派の国民を騙して支持率が上がって参議院選を勝てばいいんです。

菅政権は基地問題やらなんやらの難問でガタガタするのは目に見えていますし、参議院選さえ勝てば、9月の代表選は小沢の思い通りなんですから。
自分が立っても良し、誰か子分を擁立してもよし、というところでしょう。
参議院の結果がはかばかしくなければ小沢は社民党や新党にも手を突っ込むかもしれません。

いずれにしても9月には菅を引きずり下ろそうと画策するでしょうね。
反小沢派がそれをどう攻防するかも見物です。
しかし、今回の流れで一番困っているのは自民党でしょうね。
このままでは参院選では民主党は勝たないなにしても負けないでしょうし、大勝はしなくてもそこそこ勝つ流れにもなって来ました。ヤバイです。
そうなれば9月の政変による政界再編に期待をかけるしかありません…。

Roots №16 (鎌倉時代の糠部 その2)

2010-06-05 18:37:31 | 南北朝 “roots”
【承久の乱と南部氏】

 承久三年(1221)に勃発した承久の乱では、第二代執権北条義時の命により、嫡男泰時が後鳥羽上皇を中心とした宮方討伐のため上洛軍を組織し、19万の大軍を三軍に編成し京に進軍した。それについて「吾妻鏡二十五巻」にはこう書かれている。
 『上洛令めん為、今日遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、信濃、上野、下野、陸奥、出羽の国々へ、京兆の奉書を飛脚す』(吾妻鏡二十五巻)
 これは鎌倉幕府が東日本全域から、幕府方の従軍を求めたもので、それを図示すれば以下のようになる。

(玉川学園HPより)

 その徴兵において、南部氏二代南部実光は武田信光の軍に従軍したと伝えられている。武田信光は東山道軍の東山道将軍であり、南部実光もその部隊に加わっていたのだろう。

 『京兆に於いては其の公名を記し置く所也。各 東海、東山、北陸の三道に分け上洛可き之由、之を定め下す。軍士忽じて十九万騎也。
 東山道大将軍(従軍五万余騎と云々) 武田五郎信光 小笠原次郎長清 小山左衛門尉朝長 結城左衛門大尉朝光』(吾妻鏡二十五巻)

(玉川学園HPより)

 この19万の大軍による朝廷討伐軍による京都制圧は僅か一日で終結する。幕府軍の圧勝であった。
 おそらく、これにより南部実光には僅かながら恩賞が下されたのだろう。それは元来南部氏の所領であった六戸に隣接する四戸(名久井)だったのではあるまいか? その四戸(名久井)は工藤祐広の息子二人が領する土地であったが、それが実光に下されたのではないだろうか。

 もちろん、南部実光は鎌倉幕府北条執権の側近中の側近である後内人であるので、その身は鎌倉にあったはずである。陸奥国糠部の所領の管理は兄弟に任せていたのだ。
 それについては『南部町HP「南部藩の足跡」』の年表に参考になる記載があった。
 『1219年(承久元年) 2代南部実光、糠部に下向所領を兄弟に分かつ』
 この兄弟とは誰か? これは実光のすぐ下の弟で三男の南部実長、後の波木井実長である。
 この年表では、その年は承久の乱の2年前にはなっているが、その承久の乱(1221)年前後に六戸と四戸(名久井)は確実に波木井南部氏の所領であったのだろう。
 四戸櫛引村への櫛引八幡宮の遷宮と本殿建立は、南部実光の祝勝と糠部における領地拡張に対する祝いの意味があったのではないだろうか?
(つづく)

3ヶ月限定の脱小沢にならぬよう

2010-06-05 08:25:32 | “時事”コラム
菅総理は人事でも、脱小沢を打ち出したい姿勢ですね。
それは大変良いことですが、それが3ヶ月限定の脱小沢にならなければいいですが。

小沢は今回の代表選について「樽床氏が129票獲得したのは我々の団結の証だ。9月の代表選では別な候補を立てて戦う」なんてことをおっしゃったそうですが、いつまでも権力を求めて派閥と子分を作るのが好きな人ですわ。

ちなみに派閥についてなら今や、民主党の方が自民党より派閥政治なんじゃないのかなぁ?
現在、自民党内の最大勢力は無派閥なのに対して、民主党内の最大勢力は小沢派ですからね(笑)(笑)(大笑)
政党のガバナンスならば現在の自民党の方がよっぽど民主的ですし、民主党なんか民主党とは名ばかりで小沢とその子分に鼻面引きづり回されていますよね。
民主党支持者の皆さん、この状況をどう見ます?

仙石さんの官房長官起用は良い考えですが、内閣の目玉であったはずの国家戦略局のトップが僅か八ヶ月で二回も変わっていいんですかね。
しかも国家戦略局って、これまでどんな戦略を打ち出してくれちゃってんでしょうか?
日本の財政を悪化させ、日本の安全保障を危機に陥れ、政治混乱させるという戦略なのかな?
昨日の代表選で樽床なる男が演説で「今や民主党の危機、いや日本の危機であります」なんてフザケタことを言ってましたが、民主党ってのは自分達がたった八ヶ月で日本をここまで危機に陥れたって自覚がないんでしょうね。
私は、民主党議員の「民主党の危機は日本の危機だ」なんて思い上りにたまらない嫌悪感を持ちます。

全ての事象は「正・反・合」のサイクルで回っていると思いますし、民主党の言い訳はいつでも「今の混乱は改革ための第一歩なんだ」なんですが、民主党の現在の政権担当能力や政党統治能力を見ていると、「正・反反反反反反反反」といつまでも反が続いて合にならないような気がしますわ(笑)
特に財政再建なんて、民主党政権は手もつけないどころか赤字増大で状態は泥沼です。
景気対策も無為無策のままです。

組閣において、枝野の幹事長起用、野田の財務大臣起用、の案に「おっ!」と思いましたが、やっぱ党内から異論が出てまだ調整中で決定していません。
彼らは簡単に政治主導とは言いますが、基本的な経済指標のことも知らない財務大臣が総理になるのですから、それも怪しいものです。

Roots №15 (鎌倉時代の糠部 その1)

2010-06-04 13:52:35 | 南北朝 “roots”
 今日は、櫛引八幡宮の成立の経緯から、当時の糠部の状況を考察してみたい。

 そのためには、南部光行が頼朝から奥州征伐の恩賞として拝領したという「糠部五郡」を明確にすることが必要だろう。
 光行が拝領した「糠部五郡」は「三戸・鹿角・北・九戸・岩手」であるという説があるが、これは地元の歴史研究者もその著書の中で「一説によれば」とか「定かではありません」と書いており断定していない。
 ウキペディアで櫛引八幡宮を検索すると、その「糠部五郡」についての記載があるが、これには「八戸・三戸・下北・鹿角・下北」と下北を二回記載するという誤記も見られ、記述が混乱している。
 糠部五郡を「三戸・鹿角・北・九戸・岩手」と見るのは後年の三戸南部の領地であって、南部光行時代の領地でないことはこれまでも述べてきた。おそらく「光行拝領糠部五郡=三戸・鹿角・北・九戸・岩手」説は後年の三戸南部氏の創作であるのだろう。

 「糠部」は平安時代から「九戸四門」と定められているということを念頭に入れていれば、「糠部五郡」という表現自体おかしなものであるし、糠部に鹿角が含まれているなどという珍妙な説は出てこないはずである。
 糠部に「九戸四門」には鹿角は含まれていないし、第一、鹿角は戦国時代以降に三戸南部が支配した領地である。(光行が拝領した領地が「三戸・鹿角・北・九戸・岩手」だとするならば、それは奥州陸奥国五郡と表現しなければならない)

 現在、南部光行が鎌倉前期、糠部に領地を持っていたかどうかは不明である、という説もあるが、通説にしたがって所領を持っていたと考えても、光行が拝領したのは「糠部の五つの荘園」だったといえるだろう。
 昨日も書いたことだが、その「糠部五荘」とは、光行がそれぞれ息子を配置したという、一戸・三戸・四戸・六戸・九戸であると考えるのが順当だろう。
 
 櫛引八幡宮の歴史を見ていくと、当時の南部氏の領地が確定出来る。ここで『青森県神社庁HP 櫛引八幡宮』を参照したい。(櫛引八幡宮で検索できるサイトはこのHPを元ネタにしているようだ)
 これを見れば、1191年以降に南部氏が甲斐国の八幡宮を糠部六戸へ勧請した、と書かれている。この記述から、昨日書いた「六戸は南部氏の領地であったか、工藤氏の領地であったか不明である」という疑問は解ける。六戸は南部氏の領地であったということが推測される。
 そして、その六戸に勧請された八幡宮は1222年には四戸櫛引村に遷宮しているので、その時点で四戸も南部氏の領地であったことが判明する。それにより鎌倉前期から中期にかけては、四戸と六戸は南部氏の領地であったのだという推測が成立つ。
 
 四戸櫛引村は八戸との境にある。1222年当時の八戸は、おそらく工藤祐広が支配していたはずである。祐広の没年と年齢は1236年68歳と明確になっているで、1222年当時は祐広は54歳の壮年である。おそらく四戸の境まで進出してきた南部氏に工藤祐広は警戒感を持ったはずである。
 四戸の櫛引八幡宮の目と鼻の先には馬渕川が流れている。その橋のたもとに南部氏が舘を作れば、南部氏は船に乗ってその下流にある祐広の八戸舘をいつでも自由に攻めることが出来るからだ。
 しかも南部氏が八戸舘攻撃軍と八戸沿岸上陸軍の二つを組織し、その二軍が馬渕川を下って八戸と八戸館を挟み撃ちすることも可能であるし、それに加えて陸上軍も組織すれば、八戸の工藤祐広は南部氏に三方から八戸を包囲されてしまうのである。

 この時代は鎌倉幕府の治世であり、その行政区における私闘は禁止されていたので、そのような戦いは起こるはずもないが、この1222年に南部氏が櫛引八幡宮が四戸櫛引村に遷宮したのは何か政治的意味があるのではないかとも考えられるのである。
 この1222年という年代は、鎌倉幕府にとっては微妙な年代で、頼朝の息子実朝が暗殺されたのが1219年であり、その後幕府は宮将軍を立て執権北条氏の力はますます強大となり幕府の実権を握っていくのである。
 1222年は二代目執権北条義時の時代であり、その前年の1221年には後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して倒幕の兵を挙げた「承久の乱」が勃発しているのである。
 そして、工藤祐広の甥にあたる、工藤祐朝が宝治の合戦直後に糠部に下向するのが、25年後の1247年である。
(つづく)
 

代表選結果

2010-06-04 12:23:18 | “時事”コラム
結果は菅が291、樽床が129でした。

 僕はブログに菅250、樽床170だと菅政権も危ういと書きましたが、菅はそれより40票上積み出来たので、小沢の影響力はまあまあ弱まったとみていいでしょう。

 小沢派は自由投票になったとはいえ、150の内、20は菅に行ったのですから、小沢派も穏やかではないでしょう。

 菅が脱小沢の筋を通すのか、これからの組閣・幹事長後任人事が見ものです。

と言ってはみたものの

2010-06-04 09:45:58 | “時事”コラム
「小沢氏は政治とカネの問題で国民の不信を招いた。しばらくは静かにしていただいた方が本人、民主党、日本の政治にとってもいいのではないか」
小沢の新年会に招かれてイソイソと出席していた菅ですが、今回は脱小沢宣言みたいなことを言いましたね。
とは言ってみたものの…。

でもこれが本当かどうかは幹事長後任人事がどうなるかで判明することですし、それは代表選の結果如何で決まると思います。

小沢が今回の菅の発言に敏感に反応し、子分達に菅の対抗馬に投票を指示し、その結果代表選の一騎討ちが予想以上の接戦になれば、菅は後任人事や組閣でも、その後の政権運営でも、小沢の影響力を意識せざるを得なくなります。
そんな状況下でも、菅が脱小沢路線でいけるならたいしたものですが…。
まあ、あと三ヶ月ですからねえ。どうにでもしのげるでしょうが。

しかし今回の代表選の件では、菅がいの一番に会いに出向いたのは小沢ですからね。
小沢に門前払い食わされて、焦っている菅を反小沢連中が取り込んで、菅は「いや~俺は別に小沢派って訳じゃないんだよ。皆が支援してくれるってことなら小沢とは縁切るからさぁ~」なんてノリになったのでしょう。

小沢にしてみれば、「何で今わざわざ俺に会いに来るんだよ。それはお前が今しちゃ一番いけないことなんだよ。俺とお前の両方の首絞めることになるだろ。空気読めねぇ男だな。ここは俺が黙っていてもこれまでの筋書き通りにお前は動けばいいんだよ」ということなのでしょうが…、小沢が菅を見切ったとしても、今回のようにまともな対抗馬を立てられなかったのですから、小沢の影響力も低下しています。

しかし、小沢にしてみれば9月までおとなしくしておいて、9月の任期満了による代表選で自分の影響力を行使すればいいと考えているでしょうから、今は菅にせいぜい言わせておけというところでしょう。

小沢派150、親小沢派70、反小沢派120、無派閥80、この内菅が確実に取り込んだのは150程度でしょう。
菅が勝つにしても選挙結果が250対170位だと、菅総理の存在は脅かされるものになります。
代表選楽しみですね。

Roots №14 (津軽工藤氏の系譜 その11)

2010-06-03 13:37:25 | 南北朝 “roots”
【工藤祐朝以降】

 これまで鎌倉末期から南北朝前期までの工藤氏と南部氏のことを調べてきて、ネット上でかなりの資料を集めたが、その中で一番信頼の置ける資料は『身延町町史』である。
 これは古文書も引用されている上にかなり詳細に南部氏の事跡が記載されている。南部氏における甲州側の資料であり、その点貴重な資料だと思う。
 この資料は多く歴史関係のHPやブログに引用されており、それらの元ネタとなっているようだ。しかし、引用元を明らかにせず、そのまま文章を引き写しているサイトも見受けられるがそのような姿勢とはいかがなものだろうか?

 私は前回、「鎌倉末期の鞭指ノ荘園(八戸)の地頭代ないし領主であった、工藤三郎兵衛尉は、工藤祐経の長男で母が万劫である工藤祐広の子孫ではないか?」と書いた。
 その推測に「名久井家文書」の伝承が生きてくるのだが、その「名久井家文書」の内容を『南部町商工会HP「南部町の歴史」』から引用する。

 『兄の右京介祐時※1は名久井に留まり、地元の娘を娶り二人の男子を設け、鞭指ノ荘領主として君臨したと古文書が伝えている。嘉禎二年(1236)12月13日68歳で逝去、法光寺に埋葬したという。
 右京介の死後、彼の長子常陸左京は八戸から下名久井までを領し「八戸の名久井工藤」を称した。次男の右衛門尉祐光は一戸から上名久井を領して「一戸の名久井工藤」を称し、法光寺和尚の娘「初重」を室に迎えたという。
 領主祐光と初重妻の娘八重姫に、南部三代時実の次男政行が婿養子に入り、根城の祖師行と政長が誕生したという。
 この時代の県内は、津軽に曽我光広が地頭代として配され、南部氏はまだ三戸にも八戸にも見当たらない。時実の次男政行が名久井に婿養子で先行した様子が(伝承で)伺える程度だ。
 (祐広・祐時・祐長の三兄弟の)叔父の伊東祐兼は「奥州外ヶ浜へ流され幾程なく悪しき病を受け、当年九月三十七歳で亡くなる」と記録されている』
(筆者注※1→筆者は工藤祐広と推定)

 上記の『名久井家文書』だが、史実とは違う点も多いのだろうが、その全てが違っている訳でもないようだ。人物や年代に錯綜があるようだが、きちんと精査していけば、真実も隠されているように思えるのだ。

 まず、文中では右京介であり私が祐広と推定している人物の年齢が正確であるようだ。文中の右京介の没年とされる嘉禎二年(1236)12月13日68歳が正確であるということを前提にすれば、右京介は1168年生まれとなり、父祐経が曽我事件で没した1193年には25歳である。伊東氏の資料によればその時、次男祐時は9歳だとされているので、25歳の長男右京介は次男祐時より16歳年長となり他の伝承とピッタリと符合する。

 次に文中の『右京介の長子常陸左京は「八戸の名久井工藤」を称した。次男の右衛門尉祐光は一戸から上名久井を領して「一戸の名久井工藤」を称した』という一節が、鎌倉末期の糠部の地頭代と符合するのである。
 前回も記載したが、鎌倉末期の糠部の地頭代で、八戸には工藤三郎兵衛の名前があり、一戸には工藤四郎左衛門入道の名前がある。これのことは少なくとも八戸・名久井・一戸という地域は祐広系の工藤氏の支配地域であったことを物語っており、この八戸・名久井・一戸が鞭指ノ荘ではなかったかとも考察出来る。 
 
 そして、私の想像では、工藤祐広の二人の息子は、従兄弟である工藤祐朝の鞭指ノ荘入城を拒否したのだろう。祐朝とその兄弟は五戸郷で生涯を終わったか、津軽に向ったのかのいずれであろう。
 祐広の子孫はそのまま八戸・名久井(四戸)・一戸に残り北条方の地頭代としてその地を支配したが、建武の中興の際に宮方で糠部の新しい支配者となった糠部奉行南部師行に蹴散らされてしまう。
 祐朝の子孫は南部氏と接触し、建武の中興の際には工藤貞行が宮方として南部師行と連動して活動するのである。 

 また伝承では、右京介の息子の弟側と南部氏が血縁を結んだということになっているが、南部氏と接触があったのは「八戸から下名久井まで」の所領を持っていた方ではないかと考えられる。
 八戸と下名久井の間にあるのが「四戸」である。名久井自体を四戸と考えてもよいだろう。現在の櫛引八幡宮は鎌倉末期には四戸八幡宮と呼称されていたそうである。四戸八幡宮は南部氏が本拠地の甲州から勧請したものと伝えられており南部氏の氏神である。氏神を他人の領地には勧請しないだろうから、四戸八幡宮が勧請された時代には四戸は南部氏の領地だったと推察される。
 元来四戸が工藤氏の領地だったとしても、いつの時代にか南部氏の所領となったのだろう。それが「南部政行が工藤氏の婿になった」という伝承に結びつくのだろう。しかし、私はその伝承に素朴な疑問を持たざるを得ない。というのは南部政行が工藤氏の婿になったというのなら、なぜ工藤政行とならなかったのか?ということである。 
 また、南部氏が接触した工藤氏は、祐広の子孫ではなく、祐朝の子孫の方であろう。その理由は前記した通りであるし、私は南部氏と祐朝直系の工藤氏が連合して八戸を奪還したのだと想像している。
 
 そして私は、南部氏から工藤氏に婿入りした人物を、今ある程度思い描いているのだ。
(つづく)

小早川秀秋

2010-06-03 09:32:00 | “時事”コラム
私は以前のブログで、鳩山退陣後のポスト鳩山が菅なら小沢院政は続くと書きましたが、今正にその通りの展開になりそうな気配です。

①二ヵ月後に本当になっちゃった(笑) 4/8の記事です   
②鳩山後継の予測は4/25の記事でした
③5月5日にはこんな記事書いてました   
俺・・・政治評論家にならなくちゃ(笑)

今の段階で小沢が自分の操り人形として擁立出来る候補は菅しかいないはずです。
しかし、菅がまともな判断力を持っていたら、代表選には出馬しないはずですが、やはり短命であれなんであれ総理の座に着きたい欲望に駆られてしまうのでしょうね。
小沢との駆け引きもなくウカウカとイソイソと名乗り挙げちゃって、今小沢にいいように転がされてるんですから、菅も全く駄目ですわ。

菅が小沢の戦略に乗せられないためには「この難局で総理後継を受けるためには、挙党体制であることを確認したい」と一言宣言してあとは黙っていればいいんです。
こんな時期に火中の栗を拾う人間なんていないし、小沢は自分が自由に出来るお人形さんは菅しかいないと思ってるんだから、黙っていても菅にお鉢が回ってくるのですから。
それも判らずに自分から腰を浮かしちゃった菅は…ダメですねぇ。愚かなことを既に証明してしまいました。
あの人、代表選に落ち続けて自信喪失なんでしょうね。まことに情けない人が総理候補です。

政治空白を作らないと言えば聞こえはいいですが、前任者退陣後たった2日で代表選なんて、鳩山退陣前から小沢が推す後継者は決まっていた出来レースです。

小沢派の会合で、小沢派が推す候補の条件として、小沢が「消費税をあげない人物」とか、「田中真紀子を擁立する考えもある」なんてことを言ったと報道されていますが、これは小沢がマスコミを使って菅を恫喝しているのですよ。「総理になりたかったら消費税は封印しろよ!幹事長は小沢派から出せよ!」とね(笑)

関ヶ原で態度を明確にしない小早川秀秋に家康は大砲を打ち込んで恫喝し東軍に寝返らせましたが、小沢は今それと同じことを菅にしているのです。どうしても総理になりたいなりたい小早川菅はそれを受けてどうするのでしょうか?(笑)
この例えは我ながら自画自賛です(笑)

反小沢派がまともな対立候補立てなければ、民主党は本当に終ってますよ。
そして菅総理が小沢派の幹事長を立て、消費税論議を封印したら、民主党は小沢党であり、ダメどころか腐っていると思います。

Roots №13 (津軽工藤氏の系譜 その10)

2010-06-02 14:04:00 | 南北朝 “roots”

 【鞭指ノ荘】

 今日は鞭指ノ荘について考察する。

 まず、鞭指ノ荘を知るためには、糠部に平安時代に制定されたという『九戸四門』を知る必要がある。
 掲載した図は「青森県中部上北合併協議会HP」からのものだが、当時の『九戸四門』を知るためには好都合の図である。

 工藤祐経と奥州南部氏の開祖南部光行は、ほぼ同時期に頼朝から奥州陸奥国糠部に所領を拝領している。南部光行が当時本当に糠部に所領を拝領していたかどうか不明であるという説もあるが、ここでは、南部光行は所領にそれぞれ息子を配置して支配したという通説を元にして考察する。
 鎌倉初期に南部光行が拝領した領地と、鎌倉末期に鎌倉幕府から任命された地頭代の記録とを重ね合わせて考察すれば、工藤祐経が拝領したという鞭指ノ荘が明確になるだろう。
  
 【光行所領】     【鎌倉末期の地頭代ないし領主】
一戸 →行朝    横溝五郎入道・工藤四郎左衛門入道・浅野太郎・横溝六朗三郎入道 
二戸 →
三戸 →実光    会田四郎三郎・大瀬二郎・横溝新五郎入道
四戸 →宗朝
五戸 →       三浦介時継(佐原時継)
六戸 →
七戸 →朝清    工藤右近将監
八戸 →       工藤三郎兵衛尉
九戸 →行連
 
 まず、工藤祐経と南部光行が、ほぼ同時期に糠部を拝領したことを前提にすれば、祐経の所領は光行の所領以外と考えられる。
 上記の表から、まず挙げられるのが、二戸、五戸、六戸、八戸であるが、その中で五戸はごく早い時期に佐原氏の所領となっていたので除外される。
 次に二戸はおそらく一戸と行政地域が同じであったのではないかと推測されるのでこれも除外する。(一戸の地頭代が四名もいることから広範囲の行政区域だったのだろう)
 六戸については、七戸と同じ行政区域だったのか、五戸と同じ行政区域だったのか、または独立していたのか、不明である。
 このように考えれば工藤祐経が拝領した鞭指ノ荘は、八戸と六戸と推測することが出来る。
 
 次に南部光行の所領が、鎌倉末期にはどのようになっていたのかを考えると、当時地頭代ないし領主が存在しない場所が、南部氏の所領だと推測されるが、それは上記の表より、二戸、四戸、六戸、九戸が挙げられる。二戸は前述した理由で除外されるので、残る四戸、六戸、九戸が鎌倉末期の南部氏の所領だと考えることが出来る。

 上記をまとめれば、鎌倉末期において『工藤祐経の所領と推定される場所→八戸、六戸
』『南部氏の所領と推定される場所→四戸、六戸、九戸』という結論になるのだが、問題の六戸はどちらの所領であったかは不明である。

 工藤祐経が拝領した鞭指ノ荘は八戸であることは確実であろう。八戸の太平洋岸にある蕪島神社は工藤氏が建立したものであることは「蕪島神社由来記」からも明らかであると伝えられている。
 では、八戸の地頭代ないし領主とされている工藤三郎兵衛尉とはどんな人物なのであろうか? この人物の館である八戸舘が後に南部師行に接収され後に「根城」となったと伝えられていることはこの連載の初回に書いた。
 私は、この工藤三郎兵衛尉は、工藤祐時の三人の子供である、祐広・祐時・祐長の中で、一人鞭指ノ荘に残こりその地を支配したという工藤祐広の孫か曾孫だと考えている。

 以下はあくまで私の想像である。

 父祐時から、鞭指ノ荘(八戸)を譲られていた祐朝は、1247年上総介千葉一門の五戸郷逐電に同行して糠部に下向した際、当初は鞭指ノ荘(八戸)に入城するつもりでいたのだろう。
 しかし、祐朝の叔父である祐広の息子達は、従兄弟に当たる祐朝の八戸入城を認めず、八戸の所有権は自分たちにあるとを主張したのではないのか。その根拠の一つとして、当時の武士の間には「20年統治すればその土地は自分の領地になる」という慣例法の存在があげられる。
 また、私が工藤祐広の子孫と考えている工藤三郎兵衛尉は、1331年の南部師行の糠部平定の際には、北条方として駆逐されているので、師行と盟友関係にあった工藤貞行の直系ではないのである。

 おそらく、八戸に入城出来なかった祐朝と祐盛・祐綱の弟は五戸郷で生涯を終えたか、もしくは弟の一人が津軽の田舎郡に移住したのではないかと推測される。
 祐朝の息子か孫の代に、四戸に勢力を持っていた南部政行と接触し血縁となり、その息子である南部師行と工藤祐朝の子孫が連合して八戸の工藤三郎兵衛尉の八戸館(根城)を攻め、奪還したのではないかと考えているのである。 
(つづく)