はじめまして。
高校生で神道を勉強なさっているなんて凄いですね!
驚くと共に、我が国における神道の裾野が確実に広がっていることを実感し、嬉しくも頼もしくも感じております。
未来の神道を担っていくであろうフレッシュな若者からの真摯な質問に、おじさんは襟を正しているところです。
勅使河原氏が相曾氏を評した文章が記載されている書籍が手元にないので“正確”にはお答え出来ないのですが、要約しますと大体以下のような内容だったかと記憶しております。
『相曾氏の生前の発言には間違いも多く、亡くなってからは、本人や周囲の人間が思っているほど高い界には行っていない』
一見すると勅使河原氏による相曾氏批判のような言葉ですね。
『相曾氏と勅使河原氏のどちらが正しいのでしょうか?』というゴリさんの質問ですが、結論から言えば、『どちらも正しい』のだと思います。
神事(かみごと)の意味や意義はひとつではありません。
また、その意味や意義があとになってはじめて判ることもあります。
同じ神事を目にしても、見る人の位置や立場や心持ちや霊的能力や霊格によって、全く別の見方がなされると思います。
また、使命仙として人間界に遣わされた方々も、それぞれやって来たところも違えば、霊格も違いますし、果たす役割も違います。
ですから、使命仙が他の使命仙のやっていることの価値を直ぐに理解出来ないこともあると思います。
私見ですが、相曾氏は“ゲート”だったのだと思います。
相曾氏という門をくぐって、どれだけの人が“神道”にいざなわれたのでしょうか?
私もそのひとりです。そして、このブログに集って下さった方々もほとんどがそうだと思います。
佐藤愛子氏の霊障は、相曾氏と出会うためであり、『私の遺言』を書き世に出すためだったのでしょう。
相曾氏の真摯な姿勢に感銘を受けた佐藤愛子さんが『私の遺言』を書き、その高名な小説家の手になる『私の遺言』に感動した我々が、相曾氏の人柄に惹かれて、神道の門をくぐったわけです。
自身の姿勢や言動によって、人を感動させる…、しかも直接会ったことのない人間まで動かす…、これは相曾氏だから出来たことであり、また、相曾氏でなければ出来なかったことだと思います。
そして、佐藤愛子さんの筆であったからこそ、私たちの心に響いたのだと思います。
相曾氏と佐藤愛子さんのふたりが開いてくれた『私の遺言』という“門”をくぐって私たちは日本各地からネットのなかに集いました。
不思議なことに、それは全国的に5年ほど前に集中しているのですね…。
これもきっと“神仕組み”だったのだと今気づく訳です。
キリストだって、逮捕される前日には父なる神に向かって恨み言を洩らしているのです。
使命仙といえども、生身の人間ですから間違ったことも言うでしょう。
だからと言って、相曾氏が果たした業績の価値が低められる訳ではありません。
ゴリさんに知って欲しいのは、“神事”や“神仕組み”にとっては、知識や理屈よりも大切なことがあるということです。
何も出来ていない私が言えることではないのですが、ゴリさんのような若い方には、素直な“心の眼”で直感的に感じて神様と繋がって欲しいと思います。
そして、これから長い人生ですが、神様との繋がりを切らすことなく頑張って欲しいと思います。