龍田 樹(たつた たつき) の 【 徒然ブツブツ日記 】

目についたこと気になることをブツブツと語っていきます。たまぁ~に神霊的情報も有り。更新はかなり気ままですので悪しからず。

時局政局

2014-10-23 16:51:41 | “時事”コラム

 ねずみさんコメントありがとうございました。
おっしゃる通りで、工藤祐経の子孫は、諱(いみな)がみんな『祐』なので、書いててもほんと混乱してしまいます(笑)

 そらさん、ニワさん、お返事が大変遅れて申し訳ありませんでした。そらさん、写真は茶道用のアケビのお菓子でした。ニワさん、本はまさにその本でございますよ。

 さて、安倍内閣の女性閣僚W辞任をマスコミは鬼の首を取ったように囃し立てておりますが、その実情を『余命三年時事日記』が見事に解説してくれております。

  ↓

http://kt-yh6494.blog.so-net.ne.jp/


近況報告

2014-10-21 12:41:04 | “スピ”コラム

 皆さん、おひさしぶりです。時事ネタでも書きたいことはあるのですが、今日は近況報告ということで・・・。

 前回の投稿から、1ヶ月以上も経ってしまいましたが、その間、急展開したことなどもありまして、追々お知らせしていけたらと思っております。

 まず、9月いっぱいは、4年越しの『みちのく太平記』の執筆に勤しんでおりまして、やっとのことで仕上げることが出来ました。あまりに長編にするといつまで経っても終わらないので、3部作くらいにして分割して書こうと思い立ち、ようやく第1部を完成することができました。

 10月は、ご先祖調べに取り掛かっておりました。これは、かねてよりSさんから「あなたの父方のご先祖様の供養をしないといけないから、出来るところまででいいから調べてみなさい」と言われていて、ご先祖のカルマの解消の為に手がけたことでした。 
 祖父の戸籍謄本を調べるところから始めたのですが、そこから急展開があって私自身大変驚いているところです。

 まず、曾祖父の名前がWikipediaに記載されていたことに驚いてしまいました。このブログにも断片的に書いてきましたが、私の曾祖父に当たる人は、明治中期に有名な歯科医であったと、祖父、父、私と口伝で聞いてはいました。しかしそれも、「まあ、年寄りの身内自慢だろう・・・」と話半分で聞いていたのですが、話半分ではないことが判明したのです・・・。

 興味のある方は『中原市五郎』という名前をググってみてください。最初にWikipediaがヒットすると思います。その中原市五郎さんは日本歯科大学の前身となる日本歯科医学専門学校の創始者で、歯科医学界では立志伝中の人なのですが、なんと!その中原さん、私の曾祖父の一番弟子だったのです。

 三百三と書いて『みおぞう』と読みます。父は祖父から「群馬県で歯医者をしていた」と聞いていたようですが、実際は東京九段で開業し、多くの門弟を指導していた人でした。
 そのWikipediaのソースとなっている、日本歯科史学会の論文を調べたところ、私たちがまったく知らなかった事実が判明したのです・・・。
 私の祖父は、三百三さんが東京を離れた後に養子になっており、その後11歳で家出するように三百三さんの元を離れていますので、それ以降は三百三さんとは没交渉になっていたのです・・・。
 10月はそのことで急展開があり、いろいろと忙しかったのですが、それはまた追々書いていきたいと思います。

 それで、その三百三さんは名古屋の出身の人でした。東京の某所にあるお墓には、しっかり五三桐の家門が付いていました。(父が祖父から聞いた家紋の話は本当でした)
 40代後半で歯科医を開業した人ですが、それ以前何をしていたかは現在のところ不明です。天保8年の生まれですから、坂本龍馬より2歳年下の人なんですね。まさに幕末と明治維新の激動のなかを生きた人です。ちなみに亡くなったのは明治43年で、今から104年前です。

 「アメリカから、歯の研磨機を導入した人」だと父は祖父から聞いているようです。明治の初期から中期にかけての歯科医は、漢方出身の「伝統系」、居留地の外国人医師の弟子になった「外人系」、主にアメリカへ留学した「留学系」 の3系統があったそうですが、「外人系」の歯科医に三百三さんの名は見つけられませんので、アメリカから治療機を輸入して導入したことを考えれば、「留学系」の人なのかもしれません。

 歯科の開業ともなれば、現在の金額で言えば何千万円単位のお金が必要でしょうし、当時の最新の治療機を導入したとなれば更にお金がかかったはずです。まして留学していたとすれば、なかなか自力ですべてを賄うことは難しったのではないでしょうか?
  しかも、東京の九段と言えば現在の千代田区、当時は麹町区とのことですが、江戸時代は九段屋敷という幕府の御用屋敷があった場所です。そんな一等地にどんな伝手があって開業出来たのでしよう?
 と考えれば、この三百三さん、名古屋のお金持ちの御子息だったのでしょうか? 調べてみると、名古屋にはO姓の豪商もいたのですね・・・。 もし万が一、三百三さんがその豪商の縁者とか傍流であったとしたら、かなりガクブルなことにもなるのですが、それは全く確証のない話で私の想像の域を出ません。

  しかし、三百三さんは、何人も門弟がおり成功している歯科診療所を僅か5年で、一番弟子の中原市五郎さんに譲ったのは何故か?という理由も不明ですが、それ以降の行動も謎が多いのです。
 そこで、もっと三百三さんのことを知りたいと思い、日本歯科史学会の学会で三百三さんのことを発表した、新藤恵久さんという歯科医師の方にハガキで連絡を取ったのですが、残念ながら現在のところご連絡頂けていません。80代後半の方なので、もしかしたらお亡くなりになっているかもしれません・・・。
 

 三百三さんと祖父は戸籍上は親子ですが血縁はありません。そこで、祖父の母、私にとって血縁のある曾祖母のことも一緒に調べています。
 幼い祖父を連れて三百三さんと結婚した曾祖母の名前はセンさんで、元々は横浜の人なのですが、群馬県高崎市に本籍があったことが分かりました。そこで数日前に郵送で高崎市役所に戸籍謄本の請求をしたら、該当者があったという連絡が来ました。あと二日ほどで届くと思いますが、そこでまた新たな発見があると思います。

 四代目までの子孫はご先祖と同じことを繰り返すそうですし、血縁がなくても苗字を引き継ぐことはその姓の祖先のカルマを引き継ぐことになるのだそうです・・・。
 これから私は、三百三さんとセンさんのカルマを解消していかなければなりません。