龍田 樹(たつた たつき) の 【 徒然ブツブツ日記 】

目についたこと気になることをブツブツと語っていきます。たまぁ~に神霊的情報も有り。更新はかなり気ままですので悪しからず。

近況報告

2010-06-30 21:22:26 | 雑感
一日2.5食生活を始めてから約一ヶ月で、約6㎏痩せました。マジで(笑)

私の話を聞いて3週間ほど続けたお客さんも4㎏程痩せた方がいます。

夜間節食は、ダイエットだけでなく体調がかなり良くなりますね。

最悪、お菓子や甘いものなんかを食べるにしても、16時までに済ませるなら被害は最小限に抑えられますよ。

やっぱり

2010-06-25 06:49:53 | 雑感
今回の試合球は「そっと蹴る」のがポイントでしたね。
本田のフリーキックもそっと蹴って見事にグンと伸びてスッと落ちましたね。
遠藤のフリーキックもそっと蹴ってグンと曲がったし。
岡崎のシュートもそっと蹴って入ったし。

でも…勝利はボールの問題じゃなくて、選手一人一人のハートによって掴んだものですね。
しかし…本田から岡崎へのアシストパスの際の本田のドリブルは上手かったですね~。あのフェイントは美技でした。

デンマーク戦…日本は攻守に渡って素晴らしい試合をしましたね。本当に見事な試合でした。
3点も取るなんて誰しも想像しなかったことです。
デンマーク選手に比べてあんなに小柄な日本人選手達が、あんなにアグレッシブな試合をする姿を見ていると、胸が熱くなって来ます。

誰に何と言われようが、周囲からどう評価されようが、どんな雑音の中にあっても自分を信じ続けることってかなり難しいことです。
今回のワールドカップでは、選手達の頑張りはもちろんですが、岡田監督の偉さが光りますね。
物凄い批判やバッシングに晒されながらも、選手達を信じて選手達をかばい続けて来た岡ちゃん…本当に偉いもんです。
今の日本チームは監督もコーチも選手も、全てのメンバーが“for the team”となって一丸となっていますよね。

馬鹿な監督やコーチのお陰で仲間割れして予選敗退した“個人主義”のフランスと比べれば、世界の誰もがノーマークだった日本の決勝トーナメント進出は、日本人の長所と美点が際立つものであります。

創作便り

2010-06-22 21:50:56 | 雑感
各々方、またまた過去ログを読んで下さっているようでありがとうございます。
昨日の閲覧数が891と、毎日エントリーしている時より、ググンとアップしているのでビックラしております。

私の拙い創作の方ですが、本編プロローグから逆戻りして、冒頭の時代背景と荒筋(スターウォーズの冒頭にロールとナレーションで出てくるアレです)と、主要登場人物のプロフィールを書いています。

当初、主要登場人物のプロフィールは書かずに、本編の中でキャラや相関関係を描き切るつもりで書き始めましたが、登場人物の血縁や相関関係がかなりややこしいので、本編でそれを説明していると、本編が説明的になってしまうという自分の筆力の無さを痛感し、やはり主要登場人物のプロフィールを書くことにしました。

これを書いていると、時間と手間はかかるのですが、書いている内に頭の中で次第に本編がまとまってくる効用のあることが判りました。

毎日少しづつ書き進めています。

皆様、過去ログ読んで下さって感謝です

2010-06-15 12:42:34 | 雑感
 昨夜、携帯で図書館の予約をしていて、ブログの方もチラッと見てみたら、閲覧人員数はいつも通りなのに、閲覧回数が900ヒットを越えていたのでビックリしました。

 「おのおの方、過去ログをこれほどまでに読んで下さっているとは…うううっ。この健龍嬉し涙でござる」

 これは、これまでの、めんどくさい内容の過去ログをじっくり読んで頂くにはいい機会だと思いまして、お蔵入りさせていた“Roots”の方も、今日公開しましたんでお暇なおりに読んで下さい。

 “Roots”はネットで入手出来る資料だけを元にして、その資料の比較検討と分析を元にして推論を組み立てたものですが、自分でもかなりイイ線いってると思ってまして、しかし、それをこのままブログで公表していると小説のネタばらししちゃうことになるんで、ブログでの“Roots”のエントリーは止めて、過去ログもお蔵入りにして置いた訳です。
 
 が、しかし、地元研究家が25年程前に出していた研究書を読む機会が日曜日にありまして、少ない時間で斜め読みしたところ、「な~んだ、この本に書いてあるじゃない」ってことも判明したので、「それじゃ、俺の推論もあんまりオリジナリティのあることでもないから、しまって置く必要もないな」と思っておりました。
 例えば、僕はブログの中で南部氏の糠部の領地について櫛引八幡宮の遷宮から推定してみましたが、その研究書に同じことが書いてあったので、「やっぱ人間考えることは一緒だな」と思いました。
(その研究書とは、とらねこ氏がH市の湊文庫で入手したという例の本であります。とらねこ様、その○万○千円もした本が、某所のブックオフで100円の値がつけられ、しかもそれが半額セールで50円で販売され、なんと50円で購入された方がいるのです・・・。そんなこともあるのですねぇ)

 残念ながらその研究書は僕の手元にはないので、昨日、図書館に行って、その研究書と県史の資料である“遠野南部家文書”を調べてノートして来ました。
 朝10時から昼3時まで休憩もせずに5時間びっしり書き写しましたが焼け石に水で全然書ききれません。
 「こりゃソックリそのままコピーするしかないな」と観念して、研究書の方は貸し出し予約をしてきました。借りたら全部コピーするつもりです。
 県史資料の「遠野南部家文書」の方は貸し出ししていなくて閲覧しか出来ません。分館の方では貸し出していることが判りましたが、ものすごくデカイ本で、縦30cmもあるのでコピー出来るかどうか判りませんので、昨日はとにかくその“遠野南武家文書”の方を中心にひたすら書き写して来ましたのです。おかげで右手にペンだこが出来そうな案配です。

 今日はとらねこ氏のブログに出てくる、湊文庫に早速行ってきたのです。湊文庫は僕の店の比較的近くにあるのです。
 以前、1.2度行ったことがあって確か歴史関係の古書が多かったので、もしかしたら例の研究書があるかな?(あったとしても○万○千円だと買えはしないのですが)と思って昼休みに行って見ました。
 その本はありませんでしたが、工藤貞行の津軽の合戦での活躍を書こうとしている僕には、福音というべき本が見つかりました。
 「津軽諸城の研究」という本で、中世から近世にかけて津軽に存在した城や舘や砦を網羅し、その歴史と合戦について詳細に書かれた本です。これはH図書館にも草稿版しか所蔵されていないので、完全版が手に入ったのはかなりラッキーでした。
 その他、県内の新聞社の社長さんだった方が書かれた、「工藤物語」という工藤祐経以降の工藤氏の歴史を書いたものも見つけ、二冊買って端下をまけてもらいました(笑)

工藤祐経を祖とする伊藤家伝来の筋兜
(いつも匿名非公開希望様、「庵木瓜」紋の付いておりますご先祖様の兜にございますぞ)

 現在、私の「工藤貞行」はプロローグでして、南部師行が、工藤兵衛尉三郎の居城である八戸ノ城(はちのへのじょう)を攻めようと合戦準備をしている場面を書いています。
 史料上空白で想像するしかないところが、小説では自由に設定できて面白く書けるところです。史料は綿密に考証して、それで不明な点は大胆に想像、推論して大方のプロットは決定しました。
 あやふやだったところも明確になって、逆に、師行や貞行の北条方残党討伐についての戦略や、後の十三湊の安東氏に対する戦略も判って来たような気がします。
 これからはとにかく書くだけです。ではみなさん、ブログはたまに書きま~す。

ブログはしばらくお休みします

2010-06-10 10:14:19 | お返事や連絡版
 Rootsについての調べが大方付いたのでこれから書くことに集中します。ちょっと急いで書く必要性が出てきまして。
 ということでブログはRoots連載途中ですがしばらくお休みします。みなさん、拙いブログにこれまでお付き合い下さって誠にありがとうございました。ではまたいつかお会い出来る日までお元気で。
(しばらくブログは開かず、お返事出来ませんのでコメント不要でございます)

 師匠へ
 本着きました。深謝。
 「如月忌」を近い内に送りますので、お時間のある時にお読み頂ければ幸いです。
 これから歴史物に挑戦してみます。 
 

Roots №18 (鎌倉時代の糠部 その4)

2010-06-09 16:50:44 | 南北朝 “roots”
【新田義貞の鎌倉攻めの合戦に参加した武将達】

 昨日は、元弘三年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めの際に行われた二つの合戦譚を「太平記巻第十」より引用したが、今日はそこに名を連ねた武将から糠部の状況を考察したい。

 まず、「太平記」の中に、幕府方として名を残している、北条泰家の軍勢に参加した「横溝五郎入道」という名前にご記憶はあるだろうか?
 この人物は鎌倉末期に糠部一戸の領主として名前が挙がっていた人物である。この「横溝五郎入道」なる人物だが、史料において筆頭に上げられているのでおそらく地頭であったのであろう。
 地頭であれば領地には下向せず、地頭代を現地に派遣して領地の管理を任せるケースがほとんであるので、この「横溝五郎入道」が糠部一戸の地頭だからといって一戸から出陣したと考えるのは早計であり、おそらく鎌倉御家人として横溝氏の家長として鎌倉から出陣したものと考えられる。

 一戸の地頭ないし地頭代の氏名には、横溝六朗三郎入道という名も見られるので、横溝五郎入道の親族(おそらく弟)が地頭代として一戸に下向して管理したのではないだろうか? また、三戸の地頭ないし地頭代の氏名には、横溝新五郎入道なる名が見られるがこれはおそらく「横溝五郎入道」の息子なのではないか。

 ここでもう一度、鎌倉末期の糠部の領主ないし地頭代の氏名と配置について確認しておきたい。 

【鎌倉末期の領主ないし地頭代】
一戸・二戸 →横溝五郎入道・工藤四郎左衛門入道・浅野太郎・横溝六朗三郎入道
三戸 →会田四郎三郎・大瀬次郎・横溝新五郎入道
四戸 →南部氏?
五戸 →三浦介時継(佐原時継)
六戸 →南部氏?
七戸 →工藤右近将監
八戸 →工藤三郎兵衛尉
九戸 →南部氏?

 
 「太平記巻第十」では、新田勢に散々に打ち負かされた鎌倉勢が算を乱して鎌倉に逃亡する中、横溝八郎が踏みとどまって防戦するが、新田方二十三騎に取り囲まれ「主従三騎討死す」と記されているが、この三騎とは「横溝五郎入道」「横溝八郎」の二名と、おそらく「横溝六朗三郎入道」なのではないかと推測している。
 その推測の根拠は、「建武元年四月(1334) 工藤四郎左衛門入道地(一戸)、工藤三郎兵衛尉地(八戸)、横溝新五郎入道(三戸)を闕所とし、南部又次郎(師行)、戸貫出羽前司、河村又二郎の三人預かりとする」という「多田貞綱書状」である。(カッコ内は筆者記入)
 
 この「多田貞綱書状」によれば、建武元年四月(1334)直前には一戸の領主は工藤四郎左衛門入道の領地になっているが、そのことは、それ以前にこの地の地頭であった横溝五郎入道も、地頭代であった横溝六朗三郎入道もこの地の管理者ではなくなったということであり、一戸は次席の工藤四郎左衛門入道に譲られていたと考えられるからだ。
 そして、それは横溝五郎入道と横溝六朗三郎入道の二人が、新田義貞の鎌倉攻めの攻防戦において落命したからだと推測される。
 ちなみに、建武の新政の開始によって糠部を追われた元八戸地頭工藤三郎兵衛尉と元三戸地頭横溝新五郎入道は、津軽曽我氏を頼り津軽に逃れ宮方に抵抗するが、持寄城の合戦で南部師行、工藤貞行に破れ捕虜になっている。

 私の推論として、鎌倉末期の一戸の地頭工藤四郎左衛門入道と三戸の地頭工藤三郎兵衛尉は、工藤祐広の子孫であり、その弟祐時の長男工藤祐朝の直系ではないと考えていることはこれまで述べてきたとおりだが、それは、祐朝の直系である工藤貞行と祐広の子孫であろう工藤三郎兵衛尉が敵味方に別れて戦っていることも推論の材料となっている。
 と言うのも、もし仮に工藤三郎兵衛尉が工藤祐朝の直系ならば、系図にそのように書かれていなければならないが、系図上は祐朝の直系は貞行である。そして、貞行と三郎兵衛尉は同一人物ではない。同時期に敵味方で戦っているからだ。

 「太平記巻第十」には、横溝五郎入道ともに幕府方に名を連ねている人物に「南部孫二郎」があげられる。
 この孫二郎という名前から、後の三戸南部氏十代当主南部茂時ではないかとみなされており、兄の南部義重は新田方に味方して兄弟相別れて戦ったとも伝えられているが、異論もあるようだ。
 
 そして、「太平記」には記されていないものの、定説では南部師行の兄である時長と弟の政長の二人が新田義貞の軍勢に加わったとされており、南部氏は新田義貞の鎌倉攻めにおいて幕府方と宮方に分かれて戦ったのであろう。
 しかし、肝心の南部師行については、「新田義貞の鎌倉攻めに参加した」「新田義貞の鎌倉攻めには参加しなかった」という二つの説があり判然としないのだ。
 北畠顕家の国代として南部師行が元弘三年(1333)に奥州糠部に下向した際に、どこから下向してきたのかについても、「甲州波木井から下向した」という説と、「京から北畠頼家に付き従って下向した」という説があるのだ。
(つづく)

「最小不幸」ねぇ…

2010-06-09 09:36:47 | “時事”コラム
 ギリシャの経済危機に端を発したユーロの信用不安は終息の兆しを見せませんし、新たにスペインの信用不安が取り沙汰されています。
 そこで、EU加盟各国は一斉に「福祉の切りつめ」「公務員給与引き下げ」など緊縮財政にシフトし始めています。
 貧困がナチスの台頭を生み出したとして大戦後は「高福祉」を国是のようにしてきたドイツでさえ、今その「高福祉」を見直す緊縮財政政策をとることになったそうです。

 元来、ヨーロッパ諸国は「高福祉」政策をとっていますが、現在それが財政上の大きな足枷になっています。
 EU不参加のイギリスもサッチャー政権以降「高福祉」政策をとり、現在それが大きく財政を圧迫しているため新政権はその見直しを検討しています。

 先進諸国のそのような「緊縮財政」「小さな政府」の潮流の中で二ヶ国だけは逆行するような政策をとろうとしています。ひとつはアメリカで、建国以来初の医療保険制度の導入を開始しようとしています。
 もうひとつは、言わずと知れた我が国日本で、莫大な公的債務を抱えたまま、過去最高の赤字国債を発行し、これまた過去最高の予算を計上するという狂気の沙汰の国家予算を数の力で無理矢理成立させました。

 「社会福祉は経済を回復させ財政を健全化させる」とは菅総理の持論だそうですが…、もしそうなら、ドイツをはじめとして現在のEU各国はとっくの昔に経済や財政の状態は良好になっているはずで、それなら今わざわざ社会福祉を削減して緊縮財政政策をとるはずがありません。
 社会福祉先進国が出来なかったことを、菅政権が出来るというのでしょうか??

 「最小不幸」を目指すというのも菅総理の持論だそうですが、「最小不幸」と言えば聞えはいいですが、「最小不幸」の究極の経済体制は共産主義に行き着くのではないでしょうか?

 私の理解では、「社会福祉は経済を回復させ財政を健全化させる」と「最小不幸」を両立させる経済政策は…、とどのつまり「ベーシック・インカム」しかないでしょうね。
 
 ちなみにわたしは「ベーシックインカム」なんて反対論者ですがね。

Roots №17 (鎌倉時代の糠部 その3)

2010-06-08 18:05:11 | 南北朝 “roots”
【太平記と糠部】

 太平記の中には、北畠顕家の足利尊氏討伐軍に参加した南部師行の名前は記載されていない。奥州陸奥国の糠部や津軽の武将のことは全くと言っていいほど触れられていないのだが、それでも太平記を丹念に読んでいくと、糠部の武将のことについて興味深いことが書かれていることに遭遇したりする。

 元弘三年(1333)五月八日、ついに新田義貞が宮方として挙兵し、鎌倉幕府の本拠地である鎌倉攻略に向う途上で、幕府軍を相手に「小手指原の合戦」「分陪河原の合戦」と二度の合戦を行うのだが、その分陪河原の合戦で新田義貞を迎え撃つ鎌倉方の武将に、まことに興味深い名前があるのだ。

 『相模入道、舎弟の四郎左近大夫入道恵性を大将軍として、塩田陸奥入道・安保左衛門入道・城越後守・長崎駿河守時光、佐藤左衛門入道・安東左衛門尉高貞・横溝五郎入道・南部孫次郎・新開左衛門入道・三浦若狭五郎氏明を差副て、重て十万余騎を被下、其勢十五日夜半許に、分倍に着ければ、当陣の敗軍又力を得て勇進まんとす。』(太平記 巻第十)

 幕府軍は鎌倉の第一次防衛ラインを入間川に設定、絶対防衛ラインを多摩川に設定する。そしてまず、第一次防衛ラインの入間川と久米川の間に開ける小手指原に迎撃軍を送り新田義貞軍の迎撃を企図していた。
 しかし五月十一日・十二日に行われた「小手指原の合戦」では幕府軍が新田軍にじりじりと押され配色が濃厚となる。幕府軍は勢力を温存するため絶対防衛ラインである多摩川を背にした分倍河原まで後退し、背水の陣を敷く。
 鎌倉の絶対防衛ラインである多摩川を新田軍に超えられれば鎌倉陥落の危機と見た、幕府の時の最高権力者である北条高時は、弟の北条泰家を総大将とする援軍を急遽派遣する。「太平記巻第十」から引用した箇所はその場面である。
 五月十四日の早暁には、泰家を総大将とし、塩田・安保・城・長崎・佐藤・安東・横溝五郎入道・南部孫二郎・新開・三浦の各武将の連合軍十万余騎の援軍が分倍河原に到着し、敗軍の先発部隊も勇躍進軍を始める。というくだりである。

 以下「太平記巻第十巻」から意訳する。
『 新田義貞は鎌倉勢(幕府軍)に新手が加わったことを知らなかった。鎌倉勢は十五日の夜明け前に分倍河原へ大挙して押し寄せ鬨の声を上げた。
 鎌倉勢は先ず屈強の弓の射手三千人を選りすぐって全面に進め、雨の降るごとく散々に矢を射かける間中、新田勢は射立てられて進むことが出来なかった。鎌倉勢はこれ幸いと、新田勢を取り囲むように攻め立てた。
 新田義貞の逞しい兵共は引き返すために、敵の大勢を蹴破っては裏へ回り、取って返しては鬨の声を挙げてまた敵の中に駆け入り、電光の如き激しさであった。(中略)
 劣勢の中で義の心だけで戦ってきた新田義貞は遂に討ち負けて堀金を差して引き退いた。』

 このように五月十五日の戦闘は幕府軍の勝利となり、新田義貞軍堀金まで退却し陣容を整えるものの、鎌倉軍が十万余騎とあまりの大軍であるため、坂東の荒武者新田義貞もその大軍に再度戦いを挑んで勝つ自信は無かった。

 意訳を続ける。
 『かかる状況に、さすがの義貞も為す術なしと考えあぐねているところへ、かねてより義貞の志に共感を覚えていた、本来鎌倉方の三浦義勝が、相模国の手勢、松田・河村・土肥・土屋・本間・渋谷の側近六千余騎を引き連れ、十五日深夜義貞の陣へ馳せ参じたのであった。
 義貞は大いに喜んで、急いで対面し礼を厚くし席を近づけて合戦についての意見を三浦義勝に聞いてみた。』

 三浦義勝は自分の軍勢が囮になって、幕府軍の中央を分断する奇策を義貞に提案する。義貞はその作戦を入れて、十六日早暁に幕府軍に奇襲をかける決断を下す。
 一方、幕府軍は前日の一方的勝利に新田軍はしばらく再起できまいと油断し、十五日より翌朝まで酒宴を続けていた。
 その幕府軍の陣へ十六日早暁、幕府軍に援軍として合流すると見せかけて三浦義勝の軍勢総勢四万余騎が近づいた。三浦義勝の軍が敵陣中央まで進んだ頃合を見て幕府軍の左右から新田勢が鬨の声をあげ奇襲にかかった。
 幕府軍は既に三浦勢に中央突破されておりその上左右から新田勢の奇襲に遭遇したため、全くの不意を突かれて、たちまちの内に幕府軍の陣は瓦解していく。
  
 意訳を続ける
 『北条泰家は、鬨の声に驚いて「馬を持て鎧兜を持て」と慌て騒ぐところへ、義貞・義助兄弟の兵は縦横無尽に駆け立った。(中略)三浦義勝の計略にはまり落ち行く鎌倉勢は散り散りとなって鎌倉目指して次々と引き退いていく。討たれるものは数知れず、遂に総大将の北条泰家すらも関戸あたりで既に討たれたようにも見える敗戦の中、横溝八郎が踏みとどまって奮戦していたが、近づく新田勢二十三騎の間で矢に当たり落馬。横溝の主従三騎は奮闘空しく討ち死にした。』
(つづく)
 

キングメーカーと政界再編

2010-06-08 12:00:43 | “時事”コラム
昨日の民主党両院議員総会を小沢は欠席しましたね。

菅政権の船出の大会に小沢が欠席したということは、小沢の「俺は菅政権なんて認めない」との意思表明の表れと見られても仕方ありませんし、これでは民主党議員がいくら「民主党は一枚岩だ」と言っても空々しく響くだけです。

小沢が9月の民主党代表選で前面に出ると強がってみても、それには大きな障害があります。
それは参院選後に開かれるであろう検察審査会です。
その検察審査会で小沢に対して2度目の起訴決議が出でれば、手続き上小沢は強制起訴されることになり、そうなれば刑事告発されている人物が、総理候補として名乗りをあげることは出来ないでしょうから、小沢はまたしてもキングメーカーとして闇将軍でいるしかない訳です。

小沢がこの時限爆弾を抱えていることを、菅は見越した上で、小沢は当面表立って動けないとの読みで「小沢切り」を決断したのでしょう。

小沢が菅政権に対し一番許せないことは政策調査会、通称「政調」の復活でしょうね。
なにしろ、小沢がゴリ押しして実現させた「政調廃止」は小沢政治の一丁目一番地だったのですから。
その「政調廃止」により、地方陳情の窓口が幹事長に一本化され小沢への権力集中が更に強化されていた訳です。

菅総理がこの政調を復活させたということは、菅と民主党が小沢と手を切ったと見てもよいかもしれません。
そして菅政権がもし長期化するようなら、小沢は民主党を割って出ていくかもしれません。
小沢にとって次の参院選は是非勝たなくてはいけませんが、菅民主党が勝ったら菅政権が長期政権になりかねませんから、参院選勝利も小沢に取っては痛し痒しだと思います。

参院選で自民党が負ければ自民党は解体的壊滅状態に成りかねませんし、もしそうなれば、小沢は自民党や新党に手を突っ込んで反民主勢力を結集するかもしれません。
その時、衆参両院で弱小になってしまった自民党ならば、離党者も相次ぎ本当に弱小政党になってしまう可能性も高いです。

参院選後は、民主党:反民主:反小沢の3つ勢力の政界再編になっていくかもしれません。