【承久の乱と南部氏】
承久三年(1221)に勃発した承久の乱では、第二代執権北条義時の命により、嫡男泰時が後鳥羽上皇を中心とした宮方討伐のため上洛軍を組織し、19万の大軍を三軍に編成し京に進軍した。それについて「吾妻鏡二十五巻」にはこう書かれている。
『上洛令めん為、今日遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、信濃、上野、下野、陸奥、出羽の国々へ、京兆の奉書を飛脚す』(吾妻鏡二十五巻)
これは鎌倉幕府が東日本全域から、幕府方の従軍を求めたもので、それを図示すれば以下のようになる。
(玉川学園HPより)
その徴兵において、南部氏二代南部実光は武田信光の軍に従軍したと伝えられている。武田信光は東山道軍の東山道将軍であり、南部実光もその部隊に加わっていたのだろう。
『京兆に於いては其の公名を記し置く所也。各 東海、東山、北陸の三道に分け上洛可き之由、之を定め下す。軍士忽じて十九万騎也。
東山道大将軍(従軍五万余騎と云々) 武田五郎信光 小笠原次郎長清 小山左衛門尉朝長 結城左衛門大尉朝光』(吾妻鏡二十五巻)
(玉川学園HPより)
この19万の大軍による朝廷討伐軍による京都制圧は僅か一日で終結する。幕府軍の圧勝であった。
おそらく、これにより南部実光には僅かながら恩賞が下されたのだろう。それは元来南部氏の所領であった六戸に隣接する四戸(名久井)だったのではあるまいか? その四戸(名久井)は工藤祐広の息子二人が領する土地であったが、それが実光に下されたのではないだろうか。
もちろん、南部実光は鎌倉幕府北条執権の側近中の側近である後内人であるので、その身は鎌倉にあったはずである。陸奥国糠部の所領の管理は兄弟に任せていたのだ。
それについては『南部町HP「南部藩の足跡」』の年表に参考になる記載があった。
『1219年(承久元年) 2代南部実光、糠部に下向所領を兄弟に分かつ』
この兄弟とは誰か? これは実光のすぐ下の弟で三男の南部実長、後の波木井実長である。
この年表では、その年は承久の乱の2年前にはなっているが、その承久の乱(1221)年前後に六戸と四戸(名久井)は確実に波木井南部氏の所領であったのだろう。
四戸櫛引村への櫛引八幡宮の遷宮と本殿建立は、南部実光の祝勝と糠部における領地拡張に対する祝いの意味があったのではないだろうか?
(つづく)
承久三年(1221)に勃発した承久の乱では、第二代執権北条義時の命により、嫡男泰時が後鳥羽上皇を中心とした宮方討伐のため上洛軍を組織し、19万の大軍を三軍に編成し京に進軍した。それについて「吾妻鏡二十五巻」にはこう書かれている。
『上洛令めん為、今日遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、信濃、上野、下野、陸奥、出羽の国々へ、京兆の奉書を飛脚す』(吾妻鏡二十五巻)
これは鎌倉幕府が東日本全域から、幕府方の従軍を求めたもので、それを図示すれば以下のようになる。
(玉川学園HPより)
その徴兵において、南部氏二代南部実光は武田信光の軍に従軍したと伝えられている。武田信光は東山道軍の東山道将軍であり、南部実光もその部隊に加わっていたのだろう。
『京兆に於いては其の公名を記し置く所也。各 東海、東山、北陸の三道に分け上洛可き之由、之を定め下す。軍士忽じて十九万騎也。
東山道大将軍(従軍五万余騎と云々) 武田五郎信光 小笠原次郎長清 小山左衛門尉朝長 結城左衛門大尉朝光』(吾妻鏡二十五巻)
(玉川学園HPより)
この19万の大軍による朝廷討伐軍による京都制圧は僅か一日で終結する。幕府軍の圧勝であった。
おそらく、これにより南部実光には僅かながら恩賞が下されたのだろう。それは元来南部氏の所領であった六戸に隣接する四戸(名久井)だったのではあるまいか? その四戸(名久井)は工藤祐広の息子二人が領する土地であったが、それが実光に下されたのではないだろうか。
もちろん、南部実光は鎌倉幕府北条執権の側近中の側近である後内人であるので、その身は鎌倉にあったはずである。陸奥国糠部の所領の管理は兄弟に任せていたのだ。
それについては『南部町HP「南部藩の足跡」』の年表に参考になる記載があった。
『1219年(承久元年) 2代南部実光、糠部に下向所領を兄弟に分かつ』
この兄弟とは誰か? これは実光のすぐ下の弟で三男の南部実長、後の波木井実長である。
この年表では、その年は承久の乱の2年前にはなっているが、その承久の乱(1221)年前後に六戸と四戸(名久井)は確実に波木井南部氏の所領であったのだろう。
四戸櫛引村への櫛引八幡宮の遷宮と本殿建立は、南部実光の祝勝と糠部における領地拡張に対する祝いの意味があったのではないだろうか?
(つづく)