竹村英明の「あきらめない!」

人生たくさんの失敗をしてきた私ですが、そこから得た教訓は「あせらず、あわてず、あきらめず」でした。

61年目の広島原爆祈

2006年08月07日 | Weblog

昨日8月6日、広島は被爆から61回目の日をむかえた。

じっとしていても汗が滴り落ちるような暑さ、路上に陽炎が立ち上り、蝉の声が静かに響き渡る日、61年前のあの日もこんな日だったに違いない。

私は3年連続で8月6日の広島を訪れた。かかわり始めた劣化ウラン兵器問題もあるが、私の老いた父母がまだ広島に健在であることも広島行脚の大きな理由となっている。面倒くさがりの私は、こういう理由でもつけなければ、なかなか親の顔も見に行かないのだ。今回も、仕事の忙しさにくじけそうになる私を、我が家のモリさんが、叱咤激励して送り出したのである。

今回の広島は実に多くの人に意識的に会った。第一義的には、3年前から取り組みを始めた、劣化ウラン兵器問題であるが、今年から新たにスタートした平和への結集運動にとっても、広島は重要な「場所」だからである。

秋葉広島市長は今年の平和宣言の冒頭で、核兵器の前にすべての国が奴隷となるか、すべての国が自由になるかの岐路に立たされていると語った。核保有国アメリカのテロとの闘いを理由とした再軍備計画の中で、日本は確実に新たな重い役割を担わされようとしている。一つはアメリカへの資金提供、軍事産業への貢ぎものとしての役割だが、それ以上にアメリカの盾として最初に戦闘の場となる役割、そしてさらに戦場においてアメリカの走狗として露払いをするという役割である。まさに奴隷への道をまっしぐらである。

軍備、軍事費負担だけでも、実質2兆円とも3兆円とも言われる国費を米軍に投じてきた。しかしこの間のテロとの闘いでは、事情が変わってきている。遠隔で巨大な軍事力を持ってしても、敵は壊滅できない。最後は肉弾での地上戦となり、あの一方的イラク攻撃でもアメリカ側は数千人の兵士を失った。消耗品としての「人」、これを日本に求めるのは時間の問題のように思える。

PKO法、周辺事態法、テロ特措法・・、だんだんと日本の自衛隊を海外へと誘い出してきた。自衛隊のイラク駐留は、恐る恐るガードを固めた引きこもり駐留だったが、これも「慣らし運転」である。何度も戦場で活動することに慣れれば、やがて「その状況のルール」にも慣れるだろう。「殺らなければ殺られる・・」である。

レバノンでの無差別殺戮は、現場の兵士にとって、至極当然の意識でいるかも知れない。敵が巧妙に隠れているなら、その隠しているものすべてをまず取り除け・・と。これは生きるか死ぬかの戦闘なのだ・・と。目の前で、内臓が破裂し、目の玉がえぐられ、首が吹っ飛んだ子供たちは、取り除くべきジャングルと同じだ・・と。

「徴兵制」など敷かない。この格差社会の中で、食えなくなる若者はたくさん輩出される。食うために、人はマシーンにもなるのだ。

もうその実現がそこまで来ているのに、私たちはまだ「自分は奴隷にならない」と思っている。そのことへの「気づき」、できるだけ多くの人の「気づき」、それがどれだけ大きくなるか・・、それがこれからの大切な1年の後の岐路を決めるのだろう。

広島には実に多くの若者が集っていた。誰が決めるのでもなく、この若者たち自身が、道を選び取ってゆくだろうとも思う。

しかし、もう若くもない(たぶん戦場に行くことはもうない・・)私たちは、この若い命たちのために何がしてやれるのか。戦場に若者を送らない国の理念としての憲法9条、他国から攻撃をされないための外交的叡智、率先して世界に平和を気づいていくリーダーシップ。憲法9条でさえ、守るものではなく、その意味を再確認し、これから真に打ちたて作り上げるものなのではないか・・という気がしてくる。

8月6日という日は、毎年、私を刺激し考えさせてくれる。

今年、8月6日8時15分直前の原爆ドーム

慰霊碑の前には人が絶えない。

 



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