竹村英明の「あきらめない!」

人生たくさんの失敗をしてきた私ですが、そこから得た教訓は「あせらず、あわてず、あきらめず」でした。

小泉さん靖国参拝のそのむこう

2006年08月16日 | Weblog

昨日8月15日、予定通りというべきか、小泉総理は早朝に靖国神社を参拝した。どうせ批判をされるんだから、この日が適当な日だ・・と。その言い訳のような理屈から読み取れるのは、ずいぶん軽い参拝だなということである。

直前の14日夜、NHKはなぜ中国が総理大臣の靖国参拝にこだわるのかについて、とても重い番組を放送していた。戦争を起こし指導した一部「軍国主義者」と「一般国民」を分けて、指導した側に戦争責任はあるが、引きずられた側には責任がないどころか、同じ被害者である・・という論理で、これを二重論と呼んでいた。

中国(現在の中華人民共和国)が戦争責任の問題に決着をつけ、日本との国交回復を果たすには、多少機械的ではあるが、この方法しかなかったし、これによって多くの日本国民もその責任を取り払われた。しかし、その結果、日本の人々は、みずからの戦争責任を真剣に考える機会も失った。小泉さんの軽さは、実はここから来ているのではないだろうか?

そもそも二重論のような考え方は中国が考え出したというより、サンフランシスコ講和条約で日本に過度の責任を負わせないというアメリカの考え方からはじまっている。戦争賠償による国家の疲弊からドイツでナチス台頭したようなことが、日本で起こらぬよう一部指導者の処刑・処分で、事を収めたのである。この背後には、アジアで勢力を大きくしていた中国やロシアへの防護壁として日本を使おうという意図があったこともまた間違いないだろう。やがて朝鮮戦争で、日本はその役割を遺憾なく発揮する。

こうして軽い反省の中で、なぜ戦犯だけが、とくにA級戦犯だけが重い責任を負わされねばならないのか・・という捩れた感情が育って来た。遺族がなぜ自分の父や夫だけがこんな目に・・という感情も、全体の責任の重さが無視されれば、当然の落差のように見えてくる。

しかし、あの戦争に従事して、いまだ何の恩典もこうむっていない、物資輸送中に死傷した軍属(軍人ではなく労役に徴用されていた人たち)や「蟻の兵隊」で明らかになった国から捨てられた軍人たちは、まだ無数にいる。さらに沖縄戦で軍の強制の下に集団自決を選んだ人々や、広島・長崎の原爆で殺され、いまもまだその被害を引きずっている被爆者たちも、だれも恩典は受けていない。

多くの、日本の被害者の中で、すでにA級戦犯は特別待遇の位置まで登りつめているのである。中国や韓国、アジア各国に行った仕打ちの責任の重さ、日本国民が結果としてこうむった重い仕打ち、これらを戦争指導者たちはどれだけ重く受けとめていたのだろうか?死刑という処刑が、この思考を断ち切ってしまったのである。

二重論が正しいか正しくないか・・おそらく正しくはあるまい。しかし、それが日本との友好関係を築いていこうとする中国からの譲歩ととるならば、それを真剣に受け止めて、深い思考へと進めなければならなかったのは、日本の側ではなかったのか・・。日本はお返しをしなければならない立場なのである。

そのような深い思考も思慮もなく、小泉さんは靖国神社に詣でた。で、これは21年ぶりの総理大臣による8月15日の公式参拝となった。中国も韓国も、もはや折り込み済みだったか、あまり騒がず、次の総理にアジア各国への配慮を求めた・・という様なものが報道パターンである。しかし、そうだろうか・・。21年ぶりの再開の事実は重い。

次期総理が確実視されている安倍晋三氏は、小泉さん以上に靖国参拝への思いが強い。小泉さんの場合は公約で言った以上は・・で、国際政治情勢も経済情勢も考えない、お得意のパフォーマンスの一つに過ぎなかったかもしれない。しかし、より思い入れの強い安倍氏が、小泉さんができたことを自分ができないなんて・・と考えたらどうなるだろう。

8月15日の最大のニュースは、実は小泉さんの靖国参拝ではなく、安倍氏が総裁選の公約に憲法改正を加えることを決めたというニュースだと思う。小泉さんが公約を果たすその日にむけて、自分の次の公約を掲げたのである。

http://www.tokyo-np.co.jp/00/sei/20060815/mng_____sei_____003.shtml

A級戦犯の靖国への合祀問題でも、自民党内の最タカ派である。歴史認識について、一つ一つチェックしてはいないが、深い思考というよりは「A級戦犯岸信介」の孫としての存在が強く感じられる。一般の人以上に、この問題には難しい回路が入ってくる。ご先祖を、おじいちゃんをないがしろにして良いのか・・と。

したがって本来なら、このような立場の人は国政を担う位置につくべきではないのだろう。

この8月15日の終わりに、日本教育会館で行われた市民文化フォーラム主催の集会に参加した。<抵抗>の文化をつくりだす・・と題されたこの集会は今年で42回目となる。<非暴力>や<対案提起>という最近のトレンドからすると、少々抵抗のあるタイトルの集まりだったが、いくつかの知的刺激を受けることができた。

一つは国の名前だ。中国は中華人民共和国、韓国は英語式に書くとコリア民主共和国、台湾は中華民主共和国、北朝鮮でさえ朝鮮民主主義人民共和国。共和国と名乗っていないのは日本だけだと。戦後61年を経て、いまだ共和国を名乗れない国が、他国の民主化を云々する資格があるのか・・と。(国名はうろ覚え、正しくない場合は、ご存知の方ご指摘ください)

もう一つは<抵抗>の文化の意味だ。これは、会の主催者の針生一郎氏から出された。表面的にいうと、権力の文化に対する抵抗する側の文化なのだろうが、単に立場が違うものたちがやっていること、作っているもの・・ということにとどまらず、思考方法や判断の決し方や、私なりの解釈では、まったく違う「ネットワークル-ル」を作り出すというようなことと受け止めた。

ずいぶん軽い靖国参拝から、ずいぶんと重い42年もかけて続いている市民の格闘・・、その両方を体験させてくれた今年の8月15日であった。

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿