行徳平兵衛の徒然

とりあえずは奥の細道の自転車放浪記

平兵衛の「奥の細道」-30 富山~高岡

2008年05月16日 | 奥の細道
2008年4月25日(金)晴
4月に入り北陸3県の桜前線と週間天気予報が非常に気になる。今年はじめての奥の細道サイクリングのタイミングを探る。天気予報では「春に三日の晴なし」などとつれない。ぐずぐずしている内に4月も下旬に入り、意を決し出発したが、疾うに桜の時期は過ぎていた。
上野7:06発の新幹線で越後湯沢へ。トンネルをぬけると雨だった。この辺りは未だに桜が満開で雨に濡れる車窓の花は実に美しい。在来線に乗換え平地にくだると葉桜になり、10;:14富山に到着した。北口広場から「鄙にはまれな」スマートなライトレールに乗車し蓮町で下車。何でもこの路線は以前赤字だった様だが、大幅な改革を行い黒字化したとのことだ。
駅横の小さな広場で自転車を組上げ、今回の旅を開始する。神通川を萩浦橋で渡り北に向い、富山湾に面した護岸上のコンクリート道を北西に進む。海岸線には、水平線の彼方から寄せる波が長閑にザザー ザザーと砂浜を洗っていた。富山新港に架かる大きな橋(建設中)の橋脚が見える辺りから、港の東突端にある堀岡渡船発着場へと進む。この渡船場は新港を建設した際に、県が住民へ約束した県営の渡し舟であり、無料の渡し舟は10分程度で対岸に着く。西突端には万葉線と言う鉄道が引かれ、可愛い一両編成の電車が走っていた。
暫らく進むと放生津八幡宮が右手に見え、この境内には大伴家持の
   あゆの風 いたく吹くらし 奈呉の海人の
      釣りする小舟 こぎ隠る見ゆ
や芭蕉の句碑などがある。この辺りの海が奥の細道の「那古という浦に出づ」とある白砂青松の歌枕の地であったようだが、今は沖に波消しブロックが続き見る影も無い。
本町辺りの街角には、お地蔵さんと思われる仏様が、立派なガラス張りの小屋にカラフルに祭られていた。
芭蕉は奥の細道で「担籠の藤波は、春ならずとも、初秋のあわれとふべきものをと、人に尋ぬれば、“これより五里磯伝いして、むかふの山陰にいり、蜑の苫ぶきかすかなれば、葦の一夜の宿かすものあるまじ。”といひおどされて、加賀の国に入る。 早稲の香や 分け入る右は 有磯海」と書き記し高岡に向った。
文中の「胆籠の藤波・蜑の苫ぶき・有磯海」に引かれて北方の島尾駅辺りの海辺を訪れることにした。
新庄川橋を渡り、次に小矢部川を上流に大きく迂回し伏木港大橋で越え、越中国分駅を過ぎ、岩崎の展望台から男岩・女岩を望む。
義経岩を過ぎ雨晴駅方面への道を進む。島尾駅北側の線路を横切り海浜公園へ出る。浜からの眺めは北に能登の山並み(写真)、東に富山湾、東南に霞む立山連峰?が広がり、まさに万葉の世界だ。
島尾駅から駅前道路を道なりに南西に進み、R160を下田子交差点で横切ると前面の山際の森が藤波神社だ。大伴家持の歌碑や藤の巨木があり、神社の石段から、かって湖であったと言う田圃を眺めながら、満開の藤の頃は如何かと往時を偲ぶ。
R160と並進する旧道を高岡に向かって南下し、東海老坂でR160に合流。前田利長築城の堀を中心した高岡古城公園や利長の墓所を訪ね、18時前宿に到着。
今日の走行距離45km

平兵衛の「奥の細道」-14 登米~平泉

2008年03月08日 | 奥の細道
2007年4月23日(月)曇
登米は市名は「トメ」、町名は「トヨマ」と読む変わった町だ。町の宣伝文句は「みやぎの明治村」とあり、歴史は古く北上川の舟運で栄え、今でも武家屋敷や明治の建築物が点在し、当時を偲ばせる風情豊かな街並みが見られ、大勢の観光客が訪れるとの事だ。白壁の目立つ街(写真)には教育資料館(旧高等尋常小学校)・警察資料館(旧警察署)・登米懐古館・水沢県庁記念館・伝統芸能伝承館・武家屋敷(春蘭亭)など見所は多い。この町にも以前は鉄道があったようだが、今は最寄り駅から6kmほどあり、陸の孤島の感はあるが、かえって観光の町としては良いのではないだろうか。町を一巡し平泉に向う。登米総合支所前のバス道路を北に進むと広々とした田園地帯に入る。田圃の中ではカラスと鳶が一緒に群れている。喧嘩しているのか戯れているのか不明だが、よく見かける風景だ。本吉街道を横切り錦桜橋の交差点で一関街道R342に合流し北上する。4kmほどで宮城~岩手の県境を越えると感慨もひとしおだ。幾つかの小さな起伏のある田舎道を過ぎ花泉町に入る。花泉駅前を過ぎ5kmほど進み、大門中田交差点を左折し車の少ない道に入る。大門神楽の行われる神社の石段で早目の昼食をとるが、雨雲が垂れ込めいやな気分だ。有壁駅を過ぎ陸羽街道R4に合流後、R260で一関駅方面に進む。町中を抜け磐井橋を渡り山ノ目駅へ向うが、磐井川左岸は桜が満開だ。山ノ目駅を過ぎ右折すると、車の入らない堤上の直線道路に出、快適なサイクリングが楽しめる。5kmほど進むと柳之御所資料館に到着する。これより平泉の史跡案内に従い柳之御所跡・伽羅御所跡・高館を訪ねる。ここには義経堂や芭蕉の「夏草や 兵共が 夢の跡」の句や奥の細道の一節「三代の栄耀一睡のうちにして--------泪を落とし侍りぬ」を記した碑がある。東には北上川がゆったりと流れ雄大な山河を望める。その後「卯の花清水」で曽良の句碑をのぞき、中尊寺に向う。月見坂の杉並木の東物見台から衣川越しに束稲山を望む。西行が「きゝもせず 束稲やまのさくら花 よし野のほかに かゝるべしとは」と詠んだ束稲山の桜を大いに期待して来たが、花の色は陰も無く落胆の極みだ。中尊寺・金色堂・旧覆堂などを見学し平泉駅から帰宅した。時間の関係から毛越寺を見学しなかった事が心残りだ。
今日の走行距離 55km

平兵衛の「奥の細道」-13 松島~登米

2008年02月06日 | 奥の細道
2007年4月22日(日)雨
宿の駐車場には水溜りが幾つも出来ている。昨夜は雨が激しかった様だが今は上っている。雲行きは怪しげだが今の内に距離を稼ごうと早朝の出発だ。
石巻へ向うべく高城川に沿ってR346(佐沼街道)を北上し、三陸自動車道手前の根廻交差点を右折しR45(石巻街道)を東進する。これより鳴瀬川まで「雉兔蒭蕘の行きかふ道」となる。橋を渡り東の根古辺りの山並みを見ながら鳴瀬川左岸の旧道を南下する。小野の里を過ぎ再びR45に合流し、暫らく進むと「芭蕉が根古村の親切な今野源汰左衛門に会い“茶”を乞うことが出来た」と云う矢本の町に入る。いよいよ雨が降り始め雨具をつけて進む。定川橋を渡り次に大街道新橋を過ぎ、R398を東進し日和山公園に向う。公園の満開の桜や芭蕉・曽良の像は雨に濡れ、石巻湾の先に牡鹿半島がかすみ、期待していた金華山は影も無い。尾ブチの牧(牧山)や中瀬の島は近くにあり、真野の菅原は東の山陰に隠れているらしい。
日和山を下り住吉公園前の北上川にある“袖の渡”へ向かう。朱塗りの橋を渡り、水面を覆う松と満開の桜が彩を添える小島の東屋で、暫し雨に煙る北上川を眺め、往時の渡し場を想像する。
石巻駅前の繁華街を抜け丸井戸交差点からR45(一関街道)を北上し登米に向う。山間の道が長々と続くので腹ごしらえし、いよいよ雨中の大行進だ。
北上川を天王橋で渡ると北東の風にあおられた車のしぶきが浴びるようにかかり、次の飯野川橋も同様だった。周囲の堂々たる山河の風景は圧巻だがゆっくり眺めている余裕はない。延々と続く北上川に沿った山際の歩道のない道を車と雨に悩まされながら進む。ここで一句
    春雷に 山河も煙る 登米の道
暫らく走ると柳津虚空蔵尊入り口辺りから歩道が現れホッとするが、この頃になると靴の中にも水が滲み込んで来た。宮下橋を渡りR342(一関街道)を北に進み、日根牛辺りから東の旧道を進む。左手のR342の土手に桜並木が現れると登米大橋(写真)は間近だ。橋を渡り右岸に“芭蕉翁一泊”の碑がある。
宿に着いた時には自転車や雨具・靴は泥まみれだ。宿の主人曰く「その様な苦労も旅だからこそ出来る。それが旅の醍醐味だ」と。-----やれやれ!
今日の走行距離 60km

平兵衛の「奥の細道」-12 仙台~松島

2008年01月29日 | 奥の細道
2007年4月21日(土)晴後曇
街路樹や小公園の木々が多い早朝の仙台の街は、広い歩道に人影もまばらで清清しい気分だ。だがこの街の残念な所は車道から歩道への縁石が高く、車椅子や自転車の通行にはガタゴトとやや不便だ。
晩翠道から広瀬道に入り西進し仲ノ瀬橋を渡り、左手に東北大を見ながら亀岡八幡宮へ向う。この神社は伊達家の氏神であったが、今では長く続く石段の一部は崩れ、入り口の満開の桜と朱塗りの橋が彩りを添える程度で、やや寂しい佇まいだ。その後東北大川内キャンパスと青葉山城を訪ね、次なる十符の菅跡へと向った。
R45で東に向かい原町3交差点からR8(石巻・利府街道)を北上し、今市橋を渡り左折すると昔“奥の細道”と言われた辺りだ。この道を西進すると間も無く北側の山裾の集落に十符の菅跡(古屋敷辺り)がある。
R35(泉塩釜線)を東に進み陸前山王駅・市川橋を過ぎ、Y字路を右へ入ると直ぐに多賀城跡が北に見える。
724年に造られた高台に広がる多賀城は北方守備の拠点であり、町は東西・南北に大路が走る大都会だった様だ。
芭蕉が「----涙も落つるばかりなり」と言った“壷の碑”は近くの碑堂の中にあり、762年に建立され日本三古碑の一つとの事だ。ここでは多くのボランティアガイドが親切に説明してくれ大いに助かる。
国府多賀城駅の西を通り仙石線多賀城駅近くを通過すると、間も無く末松山宝国寺に行き着く。寺の裏の高台に「きみおきて あだし心を わがもたば 末の松山 浪も越えなむ」等と詠まれた、“末の松山”の枝を連ねる巨松が聳えている(写真)。100m程南下すると四周を道路で囲まれた池の中に大きな岩がある。これが古来より歌枕として知られている“沖の石”だ。
R45を北上し多賀城小の際を流れる“野田の玉川”を遡上し、“おもわくの橋”等を経て、陸奥一の宮の塩竈神社に向う。
神社正面の「石の階九仭に重なり」とある急な石段を、自転車を引いて登るにはとても無理なので、東の自動車道を利用する。境内は染井吉野や枝垂れ櫻が満開で充分楽しめたが、最も期待していた天然記念物の塩竈桜(サトザクラ系の八重桜)は、早すぎたのか影も無く大いに失望した。神社の急坂を降り東1.5km程にある遊覧船乗り場のマリーンゲートに向った。
松島へ30分毎に出る芭蕉コースの二等乗船券を購入する。「みちのくは いづくはあれど 塩竈の 浦漕ぐ舟の 綱手かなしも」と詠まれた“塩竈の浦”へ船が出ると、大音量の拡声器から松島八百八島の始の“籬が島”が「わがせこを 宮こにやりて しほがまの まがきのしまの 松ぞこいしき」と古今和歌集の歌と共に最初に紹介される。奥の細道には「----松島は扶桑第一の好風にして,およそ洞庭・西湖を恥じず。----島々の数を尽くして、そばだつものは天を指し、臥すものは波にはらばふ。あるは二重にかさなり、三重に畳み、左にわかれ右につらなる。----そのけしきそう然として、美人の顔を粧ふ。----いづれの人か筆をふるひ詞を尽くさん。」とあるので筆を置く。    
松島では先ず雄島へ向う。昔世をいとう人々が暮したと言う辺りを訪ね、小さな島を一周する。
門限まぢかになった瑞巌寺へ急ぎ駆け込み、根来衆が彫刻したと言う本堂回廊の唐戸・欄間の透し彫りや宝物館を見学する。五大堂を巡る頃には日は山の端に隠れ、今日の宿である松島駅近くの民宿へと急いだ。
今日の走行距離 43km

平兵衛の「奥の細道」-11 大河原~仙台

2008年01月17日 | 奥の細道
2007年4月20日(金)晴れ
節分を過ぎると我が家の庭にも花が咲き始める。白梅(2/7)あせび(2/16)鶯の初鳴(3/1)サンシュユ(3/2)桜(3/20)と続き、いよいよ桜前線も関東に入り、大宮公園の花見(3/28)、そして秩父の野辺の桜を求めてのサイクリング(4/5~6)とヒートアップして来る。奥の細道の「----そぞろ神の物につきて心をくるわせ、道祖神のまねきにあいて取るもの手につかず。----」の状態となり、ついには「ねがはくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ」とばっかりに、陸奥の旅を再開し大河原へ向かった。今回は大河原から平泉までの多くの名所・旧跡と歌枕の旅で、昨夜は大いに期待し興奮気味でやや寝不足だ。
自宅を5:20にスタートし、上野6:34発のつばさ101号で福島を経由し、大河原へ8:52に到着。
昨秋ペダルを忘れた待合室の椅子をチラリと横目で見、駅前広場で自転車を組上げる。“忘れ物なしヨシ”と出発。
駅前の尾形橋から白石川右岸の人気の無い土手道を下る。満開の桜並木(写真)が延々と続き、小鳥の散らす僅かな花びらが風の行方とその香りを知らせる長閑さだ。柴田大橋・さくら船岡大橋を横切ると、まもなく神明堂工業団地が土手下に現れる。この辺りから道は草に覆われ歩くのもやっとだ。白幡橋を渡り旧街道を進みR52のガードを抜けR4へ合流する。右側に阿武隈川が悠然と流れているが、1km程進み岩沼市境手前で右折し陸羽街道に入る。岩沼中学校前の信号を左折すると間も無く右手に大鳥居が見え、日本三大稲荷の一つの竹駒神社が現れる。武隈の松は次の二木交差点を右折すると右側の小公園にある。能因法師が「武隈の 松はこのたび 跡もなし 千歳を経てや 我は来つらむ」と詠んだが、今は立派な二木の松が聳えている。
バス道路を北上しR4へ合流する。館腰駅を過ぎ左折、弘誓寺を巻きR126を西進し“めでしま”交叉点を右折、R39(岩沼仙台線)を北上し道祖神社へ向う。
この神社は峠の上にあり往時を偲ぶ細々とした参道が麓に続いている。神前を下馬せず通過した藤原実方が落馬したとの故事から、自転車を降りて社に向かい賽銭を奮発し旅の安全を祈願した。
R39を1km程北上すると実方の墓の案内板に出会う。彼方の朱塗りの橋で小川を渡り、山裾の墓への小道の路傍に数株の枯れ薄がひっそりと守られている。西行の「朽ちもせず 其名ばかりを とどめおき かれのの薄 かたみにぞみる」と口ずさみながら坂を登ると、僅かな木漏れ日の木立の中に実方の墓が静かに立っていた。
R39を北上し高館・柳生を経て南仙台駅を過ぎR4へ合流。名取橋・長町駅・広瀬橋を通過し若林区の連坊小路を右折し東進する。
「みさぶらひ 御笠と申せ 宮城野の 木の下露は 雨にまされり」と詠まれた“木ノ下町”は人家が密集し昔を思い起こす木々などは全く無い。
まもなく陸奥国分寺薬師堂の仁王門が見え史跡公園になっていた。
奥の細道の「----宮城野の萩茂りあいて、秋のけしき思ひやらるる----」とある宮城野は運動公園となり、「取りつなげ 玉田横野の 放れ駒 つつじの岡に あせみ咲くなり」の玉田や横野は探しても見つからなかったが、幸いつつじの岡はよく整備され榴岡公園となり、桜が満開で特にしだれ桜が夕日を受け桃紫色に霞んでいた。
その後東照宮を見学し東北大近くの安宿へ向った。
今日の走行距離 45km

平兵衛の「奥の細道」-18 大石田~新庄

2007年12月26日 | 奥の細道
2007年5月21日(月)~22日(火)晴れ  一泊二日
週間天気予報では4日間好天との事で、今回は大石田から鼠ヶ関までのサイクリングを計画。前回トラブルの有った後輪の全スポークやブレーキの交換と整備点検を専門店で済ませ、満を持しての出発だ。
自宅を5時にスタートし最寄りの駅へ向かう。又も後輪がピチンピチンと異音を発しているので気掛りだ。既に乗車券を購入済みなので決行することにした。上野6:34発のはやぶさ101号に乗車し大石田9:48に到着だ。
駅頭でロードレーサーを組み立ていた人は、日帰りで銀山温泉方面に行くとのことでエールを交換し分かれる。
駅でガイドマップを入手したが解り難く、何とか乗船寺(斎藤茂吉の墓 正岡子規碑)、船役所跡と600m余の長さの大石田河岸(元禄時代は五百余の船が毎日最上川を行き来していたとの事だ)、そして西光寺の芭蕉句碑(さみだれを あつめてすずし もがミ川)を見学し、また大橋あたりからの雪を頂く月山(写真)の眺望は実に素晴しい。
最上川の土手伝いに下り、黒滝橋を渡ると向川寺はすぐ近くだ。この寺には大銀杏や大桂が茂り古めかしい佇まいだが、隣の純白の仏舎利塔はやや不釣合いな感じだ。
田圃道を東進し丹生川大橋を渡り、歩道の無い西部街道R305を北上するが車の少ないのが幸いだ。鷹巣を過ぎ名木沢辺でR13の羽州街道(歩道あり)と合流、毒沢を過ぎ尾花沢新庄道路(R13のバイパス)を斜めに横切り、左の登りの旧道を行くと猿羽根峠のレストランに着く。ここで昼食に800円のカルビー定食を注文する。
峠のトンネルは歩道が無く、大型トラックが恐ろしく走り抜けるので、点滅灯を点けて歩いて通過した。峠を超えると快適な下りが続くけれども、相変わらず後輪の異音は気がかりだ。しばらく進んだ所で、突然後輪に違和感があり走行不能となった。軽量化するため16本しかないスポークの数本が緩み、リムが変形した模様だ。幸いに数百メートル先が南新庄駅であり、13:58発の電車で新庄へ向かう事が出来た。
旅を中止するか否かを悩んだ末に、駅近くの自転車屋さんを訪ね修理の可否を聞くと、おかみさん曰く“家の人は今は留守だが何でも修理する腕利きの職人”との事で、しかも近所のホテルまで紹介され、修理を依頼し明日を期待する事にした。
ホテルに荷物を置き、南に向かいR310瀬見新庄線でJRの下を抜け、右側の柳の清水で「水のおく 氷室尋ねる 柳かな」の芭蕉句碑を見る。近くには「羽州街道跡 新庄城下南入り口」の標柱があった。
金沢町の風流亭跡や山形銀行の渋谷本家跡は見つからず、その後市民プラザの「風の香も 南に近し 最上川」の芭蕉句碑、そして大手町を散策し城跡にある戸沢神社と最上公園を訪れ往時を偲んだ。夕食に出たついでに、自転車屋さんを覗くと、主人曰く「外国車なので冶具の作成から始めなければならず、明日の10時ごろには出来上がる」とのことだ。
翌朝9:30頃訪問すると四苦八苦しており、「そこを持て、ここを持て」と手伝わされ弟子入りしたような気分だ。何とか完成し試乗するとなおもピチン音が残る。その音は主人には聞こえぬとのことで代金を支払い、大いに落胆し今回の旅を諦め帰途に付く事にした。
新幹線で米沢牛の弁当を食べ、やれやれと落ち着く頃には、こう云う事も旅の内だと妙に納得した。
2日間の走行距離 27km+徒歩5km

平兵衛の「奥の細道」-10  飯坂~大河原

2007年12月25日 | 奥の細道
2006年10月20日(金) 晴れ後曇り
朝もやたなびく吾妻連峰が実に美しい。
飯坂温泉駅の西1.5kmの所に、佐藤庄司の旧館であった大鳥城跡(海抜230mの館山)がある。奥の細道に「------湯に入りて、宿を借りるに、土座に筵を敷きて、あやしき貧家なり。灯もなければ、------夜に入りて雷鳴り、雨しきりに降りて、臥せる上より漏り、蚤・蚊にせせられて眠れず。------」とある芭蕉の宿泊地は滝の湯と云われ、新十綱橋の北200mの花水館横の小公園だ。
新十綱橋を渡り直ぐの信号を東の桑折への道を進む。R124に入り暫く東進すると、北の山並みを背に赤く色付きたわわに実ったリンゴ畑が、柵もなく無防備に続く。写真を一枚撮りたかったが、“リンゴの下で冠を正さず”とあきらめ、広くなったり狭くなったりする道を車に注意しながら進む。東北自動車道をくぐり、新幹線と並進する辺りの路傍に孔雀草?が一面に咲き誇っていた。JRのガードを過ぎると桑折の街に入り、安彦商店の角を左折するとまもなく桑折駅前だ。羽州街道と奥州街道の三叉路に最近整備されたと思われる真新しい追分の標柱(写真)が立っていた。これより奥州街道を進むが、この町には過っての繁栄を偲ばせる土蔵や門構えの家が見られ、宿場町の俤を今に良く残している。
桑折の町を抜け道なりに進み、藤田宿のやや錯綜した道路からR4に合流し、県北中より右の旧道に入り、大木戸小を通過後R4に絡みながら北上する。
西に見える厚樫山は、その昔「阿津賀志山の戦い」として、1189年幕府創設期の源頼朝軍二万五千と迎え撃つ奥州藤原軍(泰衡)二万が激突した所だ。奥州勢は厚樫山の麓から阿武隈川までの長大な三重の堀の防塁をめぐらせ、これに対し頼朝軍は藤田宿に本拠を置き、背後より奇襲をかけ混乱に乗じ伊達の大木戸を突破し奥州軍を壊滅させた。泰衡は蝦夷地へ敗走中に家臣により殺害され、ここに奥州藤原氏は滅亡した。この戦で軍功のあった常陸入道念西が頼朝から伊達郡を授かり、伊達朝宗と称したのが伊達氏の祖と言われている
近くには義経腰掛の松や厚樫山古戦将士の碑等がある。
峠に向かい上り坂が続き、貝田駅を過ぎJR・高速道・R4が交差する辺りが福島と宮城の県境の峠だ。間も無く左の旧道へ入ると人気の無い越河宿となる。JRと高速道の間のR4を北上すると突然左手に馬牛沼が現れる。秋の水枯れか?水位が低く、雨期の満水時の趣を想像しながらR4を右折し(直進すると路肩が狭く大型車には要注意だ)、旧道を田村神社の甲冑堂に向かう。佐藤継信・忠信の妻達の木像が安置されているが、この堂は明治時代放火で焼失し、昭和初期の教科書に妻達の話(医王寺参照)が掲載されたことで再建されたと言う。先程の沼では征夷大将軍坂上田村麻呂の馬が溺れ死に、神社には田村麻呂が祭られ、また義経の鐙摺石などと言う古い話が多く残っている。
R4へ入ると蔵王の方角から真っ黒な雨雲が湧き上っているので、白石市街を迂回し先を急ぐ。白石川に架かる新白石大橋を渡る際、道路の左側を走っていたが、橋上からは歩道も路側帯も消え高速道路に迷い込んだ様な状況となり、車の恐怖に脅えながら1km程進み、ふと見ると立派な歩道が道路右側にあるではないか(何たる事よ!)。白石蔵王工業団地辺りの歩道の無いR4を恐々と過ぎ西に向かう。大河原町に入ると地図上に「一目千本桜」とある。秋にここを通過するのも無粋な話だ。空模様もいよいよ怪しくなって来たので、来春を期し大河原駅に向かい帰路に着く。大河原駅で自転車をたたんだ時、ペダルを忘れて来た事を帰宅して気付く。
これを機に再移動の際は必ず「忘れ物無しヨシ!」と指差呼称することにした。
今日の走行距離 43km

平兵衛の「奥の細道」-9  日和田~飯坂

2007年12月06日 | 奥の細道
2006年10月19日(木) 晴れ
早朝、二本松から日和田駅に戻り今日の旅を開始する。駅前を直進しR355(陸羽街道or奥州街道)を北上する。側溝の蓋がガタゴト云う歩道は大変走り難く、また通勤時間帯でもあり最徐行で進む。間も無く安積(アサカ)山公園の小丘が右手に現れる。この辺は古来より歌枕の地で、公園の歌碑には
  あさか山 かげさえミゆる 山の井の
     浅きこころを わがもはなくに
とある。
  みちのくの あさかの沼の 花かつみ
     かつ見る人に 恋ひやわたらむ 
と古今和歌集にある花かつみを、奥の細道で芭蕉は「---“いづれの草を花かつみとはいふぞ。”と、人々に尋ねはべれども、さらに知る人なし。---」と、日は山の端にかかるまで捜し求めている。
相変わらず走り難いR355で本宮駅を過ぎ、荒町から仲町のクランク状交差点を通過、道なりにただただ北上する。二本松の市境に入る頃から歩道が整備され走り易くなる。二本松駅入口の二本松神社で小休止し、次なる目的地黒塚を目指す。
R4合流後、安達が原入口より東に安達ケ橋を渡ると観世寺はすぐだ。謡曲等の黒塚の話はあまりにもオドロオドロしいので、芭蕉と同じく遠目に一見し福島へ向かう。
<黒塚、奥州安達が原>
   みちのくの  安達が原の 黒塚に
   鬼こもれりと 聞くはまことか       平兼盛         
昔、京都の公家の屋敷に、岩手と云う乳母が姫を育てていた。姫は病弱で言葉を発せず、長年の悩みの種であった。
ある時、易者から「姫の病気には妊婦の生き肝が効く」と聞いた岩手は、しかるべき妊婦を探し求めてみちのくまで来てしまった。ある日、岩手の庵に若い夫婦が宿を乞うて来た。聞けば妻は身ごもっているとのことだ。生き肝を得る機会到来とばかりに、女の腹を切り裂き生き肝を得る。しかし、女の傍らに落ちていたお守りは、岩手が昔別かれた娘に与えたものだった。
その事を知った岩手は、嘆き悲しみ、地獄の苦しみの末に髪は逆立ち、気が狂い鬼と化した。以来、岩手は宿を求める旅人を殺し、生き血を吸い、人肉を喰らい、安達が原の鬼婆と呼ばれる様になった。
ある年、裕慶東光坊が岩手の庵に宿した時、人骨の散乱している様を見て、これぞ噂の鬼婆と知り逃げ出す。それを知った老婆は激しくその後を追い、追いつかれた裕慶は如意輪観音を一心に祈願したところ 白真矢が老婆を射殺した。
裕慶が塚を作り鬼女を手厚く葬ったのが黒塚で、如意輪観音を奉った寺が観世寺として今に残る。
R4に戻り500mほど進み、左のR114(奥州街道or陸羽街道)に入り2.5km北上すると、二本柳宿の石碑と大きな柳が目にとまる。山間の田圃には稲むら(写真)が整然と並び、乾いた藁の匂いが心地よく、昔の田舎の風景を思い起しながら進む。福島市との市境あたりから西に「阿多多羅の山の上に 毎日出ている青い空が 智恵子のほんとの空だといふ」その青空の中に安達太良山が美しく浮かんでいた。
松川駅入り口を過ぎ、東側1km程の美郷の辺が下山事件・三鷹事件と並ぶ戦後国鉄の三大ミステリーの一つ松川事件の地だ。単調な上り下りの多い道が、福島大学の入り口を過ぎR4へ合流するまで続く。R4を北上し、伏拝交差点を過ぎると快適な長い下り坂となる。綺麗な流れの阿武隈川を二度横切ると福島市街に入る。福島競馬場を右に、左にはランドマークの信夫山を見て岩谷下交差点を東に左折する。再度阿武隈川を文知摺橋で越えて1.5km程進み、岡山小への道を左折すると文知摺観音は目の前だ。
この寺には、その昔石の上で布にしのぶ草を擦り込み、模様を付けたと云う文知摺石や源融の歌碑「みちのくの 忍ぶもちずり 誰ゆえに みだれそめにし 我ならなくに」、そして芭蕉句碑「早苗とる 手もとや昔 しのぶずり」などがあり、山の端の静かな古刹だ。
これより4km程北の月の輪大橋に向かうが、山際の田舎道を進んだところ分り難く、むしろ福島保原線を利用した方がよい。月の輪大橋からはR387を西進し、R13(万世大路)を北西に進み、福島交通飯坂線の医王寺前駅に向かうと良い。当方は東福島駅辺から近道を試みたが、リンゴ畑と高速道路に阻まれ大変苦労した。
医王寺は信夫の庄司佐藤基治の菩提寺で、鬱蒼とした杉並木の奥に一族の墓がある。庄司の子継信・忠信兄弟は義経の側臣として源平の戦いに従軍し、兄は八島の合戦で、弟は京都堀川の争いで、何れも義経の身代わりとして死んでいる。その死を悲しむ姑に、兄弟の妻達が夫の甲冑を身に着け、その凱旋を装い慰めたと言う故事が伝えられている。主には忠・親には孝、まさに昔の修身の本にピッタリだ。本堂前に芭蕉句碑があり、宝物室には弁慶の笈等が展示してある。
奥州三名湯の一つの飯坂温泉郷は2km程北にある。十綱橋前の観光協会で今日の宿を探す。鯖湖湯近くの旅館で、湯は疲れた四肢に心地よく、十畳の広い部屋に地図を広げ明日の旅程を考えた。
今日の走行距離 64km

平兵衛の「奥の細道」-8  白河~日和田

2007年11月18日 | 奥の細道
2006年10月18日(水) 晴れ
家を5時前に出発し白河駅へ9時過ぎに到着。駅の北には小峰城跡、南東1.5kmに宗祇戻し、南3kmに南湖公園などがある。駅の東の旧陸羽街道を北に向かい、さほど広くない阿武隈川を渡り、女石T字路でR4(陸羽街道or奥州街道)に合流し右折する。女石には「仙台藩士戊辰戦没之碑」があるが、この地は会津街道と仙台街道の分岐点で、戊辰戦争東軍の最前線基地となり激戦が展開された模様だ。この時に小峰城も炎上している。
根田のあたりの丘の上にお堂があり安珍生誕の地との事だが、昨今の○○王子達も安珍の様に女難に合わないと良いが。これより3km程進み、やや遠回りだが旧道へ左折し小田川郵便局を過ぎ、道なりに進み突当りのT字路を右折しR4に出るルートが安全だ(R4を直進すると歩道が無く車が危険)。R4を1km程進み交差点を右折し、旧道(このバス道路は須賀川まで続く)に入ると松並木があり、暫し静かな道を走ることが出来る。矢吹駅を過ぎ鏡石町に入る頃よりR4に合流したり、横切ったりしながらバス道路を進み、一里担交差点を右折、JRをくぐり直ぐに左折しR355(旧陸羽街道)を1.5km程北上すると左側に須賀川のNTT(この辺一帯が芭蕉を歓迎した相良等窮の屋敷跡だ)がある。
その裏側が可伸庵跡で「世の人の みつけぬ花や 軒の栗」の芭蕉句碑があり、近くの須賀川市役所の芭蕉記念館を訪れるのも良い。
市役所北東500mにある十念寺の境内には「風流の はじめや奥の 田うゑ唄」の縦長の立派な芭蕉句碑があり、この町全体が何処となく味がある。
これより乙字ケ滝(写真)に向かうが、石川街道(R118)を南下、福島空港への道を横切り1.5km先の稲荷田交差点を過ぎ、間も無く左の側道に入り朱塗りの橋を渡ると左側がビユーポイントだ。この滝は阿武隈川の川巾いっぱいに乙字形に落下し、高さよりも巾の広さが特徴で、昼飯をとりながら木の間隠れの滝の眺めを楽しんだ。
先程の稲荷田交差点を右折し郡山を目指す。岡の内集落・男滝橋(阿武隈川)・JR踏切・日照田集落を過ぎR141へ合流北上する。川東バイパスのガードをくぐり小作田を過ぎ道なりに北上し、宮下T字路を左折すると道はR49に替わる。
芭蕉等が格別の接待を受けたと言う守山を過ぎ、山中交差点横に昔栄えたと思しき田村神社があり、今は落ち葉が舞い、やや寂しい感じの境内に「風流の 初めや----」の句碑がポツンと立っていた。
  田村杜 破れ蜘蛛の巣 門ふさぐ    平兵衛
金山橋で阿武隈川を西に抜け、日出山交差点を右折北上し、郡山市内の走り難いR355をしばらく進み、市街地を抜けた頃は黄昏て来た。今日の宿は二本松に予約してあり、日和田駅から電車で行くことにした。
今日の走行距離 63km

平兵衛の「奥の細道」-7  黒羽~白河

2007年11月10日 | 奥の細道
2006年10月11日(水) 晴~雨
黒羽出張所バス停から北上し、次の農協前バス停近くから左折、道なりに西に進み光明寺跡を通過、白旗城跡の案内板のある四辻を右折すると余瀬の集落だ。
西側に曽良の句碑がある西教寺があり、東の小道へ進むと翠桃の屋敷跡や墓があり、墓の前は稲刈り機や耕運機でふさがれていた。今は鄙びた集落で往時を偲ぶ術はない。
来た道を北に進み蜂巣十文字を左折しR182へ入り北西に進む。篠原辺りの西の山際に芭蕉句碑「秣負う 人を枝折の 夏野哉」とある玉藻稲荷神社を訪ねる。
教養も文才もなく、やや体育系を加味した理系の当方としては、奥の細道の「----那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。----」とある玉藻前を知らず、調べた結果はたいそう興味のある人物?なので披露しよう。
<玉藻前伝説>
中国の殷王、天竺マガダ国の太子、またも中国の周王の前に、その都度名前を替えて現れた美女は、王達を功みに誑かし国を滅亡にと導いていった。この美女こそが白面金毛九尾の妖狐で、我が国には天平七年、美しい少女に化け遣唐使船で密入国した。その後数百年の間人々を惑わしながら諸国を放浪し、捨子に化けたところを、北面の武士に拾われ「藻」と名付けられて育てられた。
藻は成長するに従い博識で絶世の美女へと変わり、宮廷に上がると鳥羽帝の側女「玉藻前」として、その寵愛を一身に受けていった。帝が玉藻前を寵愛するに従い、度々原因不明の病に冒される様になって行き、陰陽博士が占ったところ、神鏡に十二単を着た白面金毛九尾の妖狐が現れ、その原因が玉藻前である事が突き止められ、正体を見破られた妖狐は那須野が原へと逃げのびて行った。
この妖狐は那須野が原でもしばしば村人に悪事を働くので、朝廷は陰陽博士・上総介・三浦介にその退治を命じ、首尾よく退治できたが、その瞬間天地は動き稲妻雷鳴が轟き屍は大岩石と化した。この岩は二百年以上にわたり怨念の毒気を吐き続け、近づく人・動物・飛ぶ鳥・虫等をことごとく死滅させ、これを鎮めるため源翁と言う僧侶が遣わされ、長い祈祷の末に杖で岩を突くと砕け散り妖狐の霊は成仏したと言う(これが那須の殺生石だ)。
<もう一つの妖狐退治>
三浦介が妖孤を追跡中に姿を見失ってしまったが、池の淵に立って辺りを見回したところ、池の面近くに延びた桜の木の枝に蝉の姿に化けている狐の正体が池にうつったので、三浦介は難なく妖孤を狩ったと伝えられる。この池が玉藻神社の鏡池だ。
この玉藻前は「今ならば偉大なテロリストだ」等と空想しながら、狐塚らしい祠を見つつ、暫し静寂の林の中で古を偲んだ。
R182に戻り北西に進む。乙連沢辺りの農家には秋の花々が庭一面に咲いている。練貫の交差点を右折し坂上の六町歩バス停を左折し、野中の道を唯々北上する。陸羽街道のR4を横切り、鍋掛街道を直進し、JRを歩道橋で越えて黒磯駅西口に出る。
これより那須湯本へ向かうが、交通量の多い街道なのでバスを利用することにした。
湯本のバスターミナルに自転車を預け、温泉神社に詣でる。玉藻前の物語はここでも多く語られているが、やはり玉藻稲荷神社の方が似つかわしく思われる。殺生石・賽の河原・地蔵達を見て芦野へ向かう。
一軒茶屋の三叉路を左のR21に進み、くだり坂が延々と芦野まで続くが、陸羽街道R4を横切るとR28となる。黒田原駅でコンビニ弁当を調達し、左手に赤いトンガリ帽子の地蔵堂を眺め、しばらく走ると芦野駐在所前交差点に到着する。旧陸羽街道R294横の遊行庵からは遊行柳は数百メートルだ。奥の細道の「清水流るるの柳は、蘆野の里にありて、田の畔に残る。----」とあるが、西行の「道のべに 清水流るる柳かげ しばしとてこそ 立ちとまりつれ」は当地を訪れず、御所の襖絵を見ながら詠んだことになっている。西行の“追っかけ”としてはやや不満が残る。
柳の下で遅い昼食を食べるが、雲が張り出し冷たい風が田面を吹き始めた。雨になる前に新白河駅に辿り着かなければならない。「田一枚 植えて立ち去る 柳かな  芭蕉」ほどとのんびりはしていられない。
陸羽街道R294を境の明神に向かうが、山中辺りの街路樹は大変ユニークな鳥の形(写真)をしており、両側に延々と続く(何羽いることやら?)。ポツポツ雨が降り出し、下野と奥州の間の峠「境の明神」に着く頃にはずぶ濡れだ。社の軒下で衣服を取り替え暫く雨宿りする。雨間をみて白河の関へ向かう。峠を越え1kmほど下り右折、金堀を経て茂ケ崎T字路を右折、2kmほど南下すると白河の関跡で、雨はいよいよ本降りだ。
関を越える時は「---古人冠を正し、衣装を改めしことなど--- 卯の花を かざしに関の 晴れ着かな 曽良」と奥の細道にあるように、当方も着せる衣装も無い自転車に尾花をかざして一句。
       ハンドルに 尾花かざして 関を越す    平兵衛
旗宿で宿を捜すが宿は無く、傘を探せど傘は無しだ。ショボショボ関の森を見学し横道へ出ると「関の森公園」があり、売店でようやく傘を調達することが出来た。秋の夕暮れは早い、まして雨降りだ。早々新白河へ向うが、「庄司戻し」を覗き、傘を差しての片手運転で幾つかの峠を超え、雨に煙る関山を眺め、R289を左折し新白河駅に着く。
薄暗い雨の町の信号がやけに鮮明に見えた。
今日の走行距離 74km

平兵衛の「奥の細道」-6  矢板~黒羽

2007年11月09日 | 奥の細道
2006年10月10日(火) 晴れ
自宅を5時に出て矢板へ8:35到着。駅前で自転車を組み立て、朝食を調達していざ出発だ。駅前を北に進み右折し踏切を越え、中北の信号からR52へ入り、しばらくR4と並進する。新幹線のガード下(沢の信号)を直進すると沢村城跡や観音寺がある沢村に入るが、沢の信号を左折し北東に進むと広々とした田圃の中に箒川が流れている。
橋のたもとで朝食をとる。奥の細道の「小さき者ふたり、馬の跡慕いて走る。ひとりは小姫にて、名をかさねといふ。聞きなれぬ名のやさしければ、 かさねとは 八重撫子の 名なるべし  曽良 ---」とある芭蕉一向の旅姿を浮き彫りにした「かさね橋」のプレートが橋石にはめ込んである。
その後直線的な道を大田原に向かって進むと、チャボヒバを塔状に刈り込んだ珍しい形の植栽の家があちこちに見られる。
浅香辺で道行くご婦人に「金燈籠へ行きますか?」と問えば「今は用事があるので、金燈籠へは後で行きます」との返事だ。“この道を行けば”と言う必要な言葉を省略した結果がこれだ---大いに反省---参った参った。
R461へ合流し金燈籠の交差点を過ぎ、蛇尾川を渡り、新屋敷のバス停辺りへ来た時に前輪がパンクだ。チューブの傷は縁石等に乗り上げた際に出来る所謂snake biteだ(蛇尾橋で蛇の尾でも踏みつけて噛まれたか!!!)。予備チューブに交換し40分のタイムロスで再出発だ。
黒羽街道を進むと道の駅「那須与一の郷」があり、その裏側の森が那須神社だ。
この神社は源平の争乱・八島の合戦で那須与一が「南無八幡大菩薩、別しては我が国の神明、-----願わくは、あの扇の真中射させてたばせたまえ。----」と祈願した金丸八幡宮で、結果は啖呵売などでも語られる「パッと開いた五本骨、朝日に(本当は夕日だ)に輝く軍扇は、那須与一が扇的、狙い違わず命中し、ひらひら落ち行く波の上----」と満願成就した神社だそうだ。
東に進み黒羽の街に入り、大豆田T字路を左折し那珂橋を渡る。これより雲厳寺に向かうが、橋の袂の食堂で昼食をとると驚くほど大きなカツ丼が出て来た。
北に向い前田T字路を右折し、あとは道なりに路肩の狭い道を車に注意しながら、長く緩い登り坂を唐松峠まで進む。峠を越えると下り坂で須佐木の集落に入るが、東の山並みは日本武尊が「これより先は闇ぞ」と言った事から名付けられたと云う八溝山地だ。集落を過ぎてR321へ入るとまもなく雲巌寺(写真)に到着する。
大きな木々の間を流れる清流を、朱塗の橋で渡り、豪壮な山門をくぐると直線的な伽藍が目に入る。こんな山里にかくも立派な寺が出来たものだと感心する。
   あかね舞う 雲なき空の 雲巌寺    平兵衛
黒羽の街中に戻り、下高橋より西への坂道を登ると、この地方を支配した大関氏の菩提寺の大雄寺がある。本堂や回廊が珍しく草葺き屋根で大きな寺だ。隣には芭蕉公園や芭蕉の道、芭蕉の館があり芭蕉ずくめだ。そして要害の黒羽城址へと続く。
その後街中を抜け、明日の道順確認を兼ねて光明寺跡を訪ねる。奥の細道の「修験光明寺といふあり。そこに招かれて、行者堂を拝す。夏山に 足駄を拝む 門出かな」とある寺は影もなく芭蕉句碑が木立の中にあるだけだ。
足利銀行黒羽支店の古めかしい建物を懐かしく眺めながら宿に着く。早々パンクの修理に取り掛かった。
今日の走行距離 53km

平兵衛の「奥の細道」-5  鹿沼~矢板

2007年11月05日 | 奥の細道
2006年9月29日(金) 晴れ
鹿沼の町中にある雲龍寺の境内でコンビニ朝食を済ませ9時にスタートする。黒川を御成橋で渡り、例幣使街道を北上する。今市市境に入る頃からゆるい登り坂が続き、歩道のある杉並木が板橋交差点の数百メートル手前まで楽しめる。車を避けるため板橋交差点を東に右折し、次の信号を左折、下野大沢駅前を通過、しばらく静かな田舎道を線路と並進する。日光―宇都宮道路を過ぎ、東武のガードをくぐり、JRの踏切を越えると例幣使街道に再度合流する。合流後は追分地蔵(日光街道と例幣使街道の追分)まで杉並木(写真)が続くが車には要注意だ。
町中の蕎麦屋で昼食後の休憩をしていると、後輩のO君からの定年退職の電話だ。あんなに活躍していた彼も定年かと思うと一抹の寂しさを感じるが、早く無職のプロになることを期待したいものだ。
日光は昨夏訪れた(東武日光駅→中禅寺湖→中善寺→華厳滝→二荒山神社→東照宮→輪王寺→神橋→市内でルートは奥の細道と異なる)ので今回は省き、今市から矢板へ向かうこととした。
春日町交差点を右折北上し、大谷川を渡り、すぐの大谷向交差点を右折する。東武鬼怒川線の踏切を越え、豊田で日光北街道(R461)へ入るが、下り道がなおも続く。芹沼を過ぎると北に「富士山」(427m)と思しき小山が見え、近くには芹沼イチョウや三十六童子がある。大前交差点を右折、次の信号を左折し(この辺には立派な農家が点在する)鬼怒川を大渡橋で越え、東に向かうと船生の集落に入る。地図を見ると南の方にまたも「富士山」(365m)がある-----この辺の人々はよほど富士が好きと見える。
この日光北街道には、多くの地蔵や地蔵堂そして道祖神がある。時には地蔵の頭にトンボがとまっている様は何とも微笑ましい。
玉生に近づくと歩道もあり安全に走れるようになる。奥の細道の「遥かに一村を見かけて行くに、雨降り、日暮れる。農夫の家に一夜を借りて、明くれば野中を行く。---」とある農夫の家は、今では玉生の足利銀行塩谷支店近くのお医者さんの家だ。
荒川を渡り山道を暫らく進むと東北自動車道が目に入ってくる。旧道の四辻には矢板某の屋敷跡がある。ここまで来ると駅はもうすぐだ。
今日の走行距離 56km

平兵衛の「奥の細道」-4  栗橋~鹿沼

2007年10月28日 | 奥の細道
2006年9月24日(日) 晴れ
啖呵売の一節じゃないけれど「一は万物 物の始まり、国の始まりが大和の国、泥棒の始まりが石川五右衛門で、旅の始まりが“奥の細道”だ。サー只今からが始まりで、初めあれば終わりあり----」。無事終わりまで辿り着くか心配だが、南栗橋からスタートすることにし、深川からは通い慣れた道なので後まわしにすることとした。
今回は長途の始めと言うこともあり、自転車の調子、旅の持ち物、道路状況等を確認するための予行演習で、鹿沼までの日帰りだ。
東武日光線の南栗橋駅を9時に出発しR4へ入る。この道には歩道が無く、激しい車の往来に驚かされ次の側道へ逃げ込むが、この側道がまたいい加減で、広かったり狭かったり時には消えてしまうこともある。利根川橋と思しき所で、自転車を担ぎ土手を攀じ登ると目的の橋だった。人気のない橋の歩道からは、これから行く田園地帯が広々と望め、渡りきると茨城県だ(地図を見ると埼玉・千葉・茨城・群馬・栃木の各県が複雑に入り組んだ地域だ)。土手を左折し旧中田宿をR228で進むと、よく手入れされた松並木が暫く続く。台町三叉路からR261に替わり、古河駅前を過ぎ野木の交差点でR4に合流する。近くの満願寺で小休憩する(出発したばかりなのに“満願”の寺で休むとは!)。
野木・間々田を過ぎ粟宮交差点を直進し、R265の旧道に入り小山の街中を通過する。喜沢交差点でR4を横切り、R18の壬生街道のゴルフ場を抜け、姿川を平田橋で渡り、思川と平進し北上する。2kmほどの東側に麻利支天塚古墳があり、近くには琵琶塚・甲塚・愛宕塚・山王塚・丸塚の古墳や、下野国分寺・国分尼寺跡や紫式部の墓などが点在し、往年の繁栄を想像しながらの散策も楽しい。麻利支天塚から南に数百メートル戻り、信号を西に入ると思川に架かる自転車と歩行者用の小橋(小宅橋)がある。道なりに進み、北東に見える森が下野国庁跡で、建物の一部(写真)が復元されている。室の八島の大神(オオミワ)神社の森は、古国府から道なりに北へ進み、R44を横切り、工業団地のR2との交差点から北東に見える。奥の細道に「室の八島に詣す。同行の曽良がいわく。“この神は木花開耶姫の神と申して、富士と一体なり------”」とある。境内には小さな八つの島が池に配され、島毎に浅間・筑波・鹿島などの小さな祠が祀ってあり、箱庭のような感じだが大変長い歴史があるようだ。
東武宇都宮線そして思川を保橋で越え、壬生町を壬生バイパスで近道し、本丸1交差点からR352に左折し北西に進む。これより走りにくい路肩の歩道が鹿沼まで続く。しばらく田園地帯を行くと、追分交差点の三叉路で例幣使街道(R293)に合流する。そのまま北進すると、鹿沼の町はじめにある東武線の新鹿沼駅に着く。
今日の走行距離 61km


平兵衛の「奥の細道」ー23  由良~勝木

2007年10月23日 | 奥の細道
2007年6月6日(水) 曇り時々雨
北西の日本海から遠雷(写真)が聞こえ、徐々に接近しているようだ。雨を避けるため5時に宿を出発し、雨雲と競争しながらR7と旧道を行き来しながら南下する。由良の町外れからR7(羽州浜街道orおけさおばこライン)へ進み、三瀬の集落やトンネルを貫けると、小波渡の浜に波が寄せている。小波渡・中波渡・大波渡のバス停を過ぎると波渡岬だ。トンネルの先は五十川(イラガワ)でこの辺の海岸には奇岩が続く。塩俵岩や暮坪の立岩(高さ51m、頂上には丸葉車輪梅が生えているそうだ)は圧巻だ。立岩地底温泉で雨宿りし、雨のあいまを見て鼠ケ関まで猛スピードで南下する。旅情を楽しむ暇もない。
鼠ケ関に入ると雨が上がる。大きな関跡の石柱と小庭園のある念珠関はR7の東側にあり、これより海側の旧道を進むと町中に入る。近年見つかった本来の関跡は鼠ケ関駅近くの県境にある。立ち話をしている老婆達に何処が国境かを聞くと「道路の向側が出羽、こちら側が越後だ」と言い合う。お互い自国を誇らしげに思っているようだが争う気配はない。その後老婆達は町内の話に花を咲かせていた。道路中央を一跨ぎして新潟県へ入った。町はずれの旧道の土手一面に咲いた真っ赤な”ひなげし”が雨に打たれうなだれていた。R7に入るとまたも雨が降り出し、ただただ路面だけを見ての走行で、府屋を過ぎトンネルを過ぎ勝木(ガツキ)に着く。村上までは鉄道から離れた内陸の羽州浜街道を40km程進むことになるので、今回の旅はここで終了する事とした。無人の勝木駅から村上・新潟経由上野へ向かうが新潟は晴れていた。
今日の走行距離 38km

平兵衛の「奥の細道」-22 象潟~由良

2007年10月22日 | 奥の細道
2007年6月5日(火) 晴れ
昨夜のテレビによると、台湾の李登輝前総統が来日し、奥の細道の旅を始めたと言う。一昨日が山寺で昨日が平泉、そして今日は象潟だそうだ。同好の士として是非お出迎えしたいところだが、暇人の当方にも予定があるので失礼する。
7:30ホテルをスタートし、干満寺で芭蕉像(写真)、句碑を訪ねる。奥の細道の「この寺の方丈に座して簾を捲けば、風景一眼のうちに尽きて、南に鳥海天をささえ、その影うつりて江にあり----寂しさに悲しみを加えて、地勢魂をなやますに似たり 象潟や 雨に西施が ねぶの花」の境内から九十九島を眺めるに、もし昔のように水が満ちていたらとか、舞うような松に雪がかかっていたらと想像する。
 象潟や  松に白雪  鶴の舞    平兵衛
能因島を経て、徒歩や車では行けない小丘の間の小道や農道を自転車で細かく巡る。R7に戻り早朝の海岸線を南下する。昨日の絢爛たる風景とは異なり、清々しい岬や入り江の眺めを堪能しながら進むが、視線的には上を走るJRの電車からの眺めの方が優れる。
旧道とR7を行き来しながら、小砂川を過ぎ三崎公園近くで県境を越え、女鹿、 十六羅漢岩などを経て吹浦まで美しい海岸線が続く。
奥の細道の「むやむやの関」は象潟町関にある関跡だが、秋田~山形県境の三崎公園と宮城~山形県境の笹谷街道の笹谷峠の二ヶ所に「有耶無耶の関」がある。何とも有耶無耶な話だ。三崎山の手長足長伝説によると「1200年前、この山に手は鳥海山にとどき、足は飛島まで一跨ぎの怪物が住み、人を食らい旅人を困らせていたが、三本足の烏が怪物の居る時は「ウヤ」と鳴き、居ない時は「ムヤ」鳴き、人々に知らせたことから、ここの関を「有耶無耶の関」と呼ぶようになったと云う。
吹浦から内陸に入り南に進み、十里塚遊佐線R375へ左折し坂道を登る。吹浦酒田線(R353は車が少なく走りやすい)で田園地帯を快走するが、酒田郊外では歩道の縁石が高く大変走りにくい。
酒田からJR13:04発村上行きで鶴岡へ向かう。鶴岡観光協会で五十川駅近辺の宿を探すが無く、由良の宿を予約する。
駅を出てR332からR112を西に進む。羽州大山駅を過ぎたところで通行止めだ、昔風の屋台が両側に延々と並び、多くの人々が行き交う大変大きな祭りだ。ノボリ旗には「大山の犬祭」とある。この犬祭りの紋所は何と六菱だ。三菱や武田の四菱は聞くが、六菱は珍しく四菱の両翼に一つずつ菱形が付く形だ。
約300年の歴史を持つ祭りで、「その昔、村人を苦しめた大ムジナの化け物を“丹波の国のメッケ犬”が退治した」との言い伝えで、犬が主人公の珍しい祭りだ(もっとも筑波山にはガマが主人公のガマ祭りがあるが)。こんな賑やかな祭りで「ガマの油売り」を披露したら受けるかな!と思いながら由良に向かう。
早めに由良に着いたので町を散策する。漁業と温泉の町のようで、浜辺も町の財産だろう。赤い朱塗りの橋で白山神社のある白山島に渡る。橋の下には水草や玉砂利が透け、北には岬がきれいに見える。見た目より大きな島で散歩道を巡り宿へ帰る。
今日の走行距離 62km