友が言う。「ついに電動自転車に手を出しちゃった。」え?顔を上げると友は照れくさそうな面を見せて言い訳めいた言葉を継ぐ。「やっぱり忙しくて。」3人の子持ちのキャリアウーマンである。その時何と返事をしたのか覚えていない。何を言っても慰めめいた響きを帯びたに違いない。
「手を出す」この言葉からわかるように電動自転車を使い始めることは女性にとって何か禁じられた世界へ入る意味合いを持つ。日本人は「手間をかけることに価値を見出す」といわれ、とりわけ料理を始めとする家事の世界ではこの傾向が強い。食器洗浄機がなかなか普及しないのも「家事をさぼっている」「主婦たるものがまあ怠けたもの」的な非難の声やまなざしが周囲からだけでなく自分の内なるものからのも気になるからである。しかし核家族化、少子高齢化、女性の社会進出、老々介護の世において家庭は人手がない上に昔より忙しくなったので何かに頼らなくては無理が生じるのは当然だ。そういう訳で何よりも「手っ取り早く済ませたい」移動が時間短縮の対象に浮上する。
昨今、日本では「ていねいな暮らし」が流行している。手間をかけて暮らしを豊かにするというのが考え方のようで無印良品などで提唱されている。(ところで無印良品ではインスタントスープも売っている。)「ゆっくり・おしゃれ・ほどほどの生活感」が核となるコンセプトと推測される。しかし電動自転車はこの「手間をかける」とは真逆の「手間を省く」方向にある。電動自転車を必要とするのは主に「急・重・生活感」の世界の住人だからだ。
急・・・幼児を抱えた母は忙しい。子供のお迎え、買い物、夕飯の支度。てんてこ舞いの日々を猛ダッシュで走り抜ける。
重・・・よって買い物の荷物で自転車のかごはいっぱいになる。さらに自転車には買い物かごの他に子供用の座席が2つ備え付けられている。
生活感・・・雑誌のページを飾るような「優雅な主婦」は単なるイメージ図に過ぎないのに雑誌やらSNSの影響で若き主婦は「優雅で美しき主婦像」につい惑わされてしまうが、真面目に生活を営んでいればどうしたって生活感は出るものである。
そして電動自転車の特徴として「使い道がこれしかない」というのがある。電動自転車は電動自転車としての役割しかない。「『忙しいお母さん』の強力な助っ人」として揺るぎのない役割や生活感を醸し出している。ところが世のお母さんの側ではこれに大感謝すると同時にどこかで何ともいえない不服というか引け目があるのだ。その不服は決して声高には叫ばれない。一体何か。
ここで少し休憩して、似たように「使い道がこれしかない」商品で最近登場したスープジャーに目を向けよう。保温力に優れお弁当のスープやご飯が熱々のまま食べられる。サーモスが流行に火をつけ女性誌でも度々取り上げられ、専用の料理本も何冊か出版された。電動自転車と同じく役割は一つだが明らかにその登場回数はスープジャーの方が多い。生活密着度は電動自転車の方があってファッション誌の読者層と一致しているはずなのにこの違いはどこにあるのだろう。ぎょうてんはこの違いを「おしゃれ度」にあると踏んでいる。電動自転車は先に挙げたように「急・重・生活感」なのでファッション誌とどうしたって方向性が逆なのだ。そしてスープジャーには「エスニックへの展開」という逃げ道がある。スープジャー向けレシピには必ずと言って良いほどサムゲタン風とかナンプラーを入れたタイ風スープなどが登場していておしゃれ度を補っている。あとはダイエット向けなどという展開の仕方もある。いずれにしても「家庭的かつおしゃれ感」は十分醸し出せる。「急・重・生活感」から一歩も動けない電動自転車との違いはここにある。
さて話を「お母さんが決して声高にいえない不服」とは何かの問題に戻ろう。それは生活感たっぷりになることである。バリバリのエリートキャリアウーマンが電動自転車で目の前を走り去る光景に遭遇した。その場にいた私ともう一人はほぼ同時に同じ感想をもった。「お母さん・・・」
そう、他の何者にも見えなくしてしまうだけの迫力に満ちていた。 (たぶん)東大卒のバリキャリということもエリート街道まっしぐらということもどこかに消えてしまい、ただただ「お母さん」。キャリアウーマンだろうと売れっ子モデルあるいはCAだろうと、はたまた「ていねいな暮らし」をしていようがブランドの服を着ていようと電動自転車に乗ることで女性は「忙しいお母さん」一色になる。すべての虚飾が剥ぎ取られたそれは一種の諦念の姿とすらいえる。何という破壊力。電動自転車に乗ることは出家と同等だったのだ。電動自転車とはすなわち墨染の衣なのである。
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