ぎょうてんの仰天日記

日々起きる仰天するような、ほっとするような出来事のあれこれ。

哲学者の食すパン

2021-05-03 00:35:14 | コラム

 

「太った豚になるより瘦せたソクラテスになれ。」この東大総長がいったとされる言葉は様々な波及効果があったようで、なぜか哲学者は痩せているイメージが私の中でほぼ定着している。太った哲学者というのはあまり聞かない。考えてもみて欲しい。哲学者というのは「考える人」の代表的な存在で普通の人なら疑問に思わないようなことに対して事細かに思考をめぐらす種族なのである。

 

私はかつて同僚にいったことがある。「『趣味は何ですか?』って訊いたら絶対『苦悩すること』って答えるよね、この人。そういう人いるでしょ?文系の大学院に多く生息してるの。」文系大学院博士課程出身の同僚は何度も頷きながら声が出ないほどに爆笑していた。そうした人に会った時に言うべき言葉はただ一つ。「用事があるので失礼します。」これだけである。もちろん「思考すること」と「苦悩すること」の違いを弁えた人も大勢いるけれど、特に若い男子にはこの点を混同して「苦悩すること=思考すること」と勘違いしているケースが見られる。そうして苦悩することが何か高尚なことと大いなる勘違いをして日々くらーい顔をして歩き、周囲に鬱陶しがられるのである。

あくまでも苦悩は思考する時の副産物に過ぎず、目的化してはいけないというのが現在までのぎょうてんの見解だ。

 

話を元に戻すと、そんな(普通の人なら疑問にすら思わないことに)考えをめぐらす人たちは思慮深い、または繊細あるいは神経質でそもそも痩せているだろうし、頭を使うから脳内のカロリー消費も激しいはずで痩せているのが妥当のように思う。私の中ではどうしたって哲学者は痩せているのである。これが先入観といわれるのなら甘んじて受け止めよう。

 

世間の人が何といおうと自分の発想は大切に守ろうと、一人悲壮な覚悟を決めた時ふと「哲学者ってどんなパンを食べるんだろう」との疑問が湧いた。どうも質素なパンを食べているように思える。まかり間違ってもメロンパンとかクリームパン、あるいはファンシーな名前のパンは食べなさそうである。パン・オ・レザンとかトルティーヤ何とかとか。ただし「パン・オ・レザン」は食べないけれど「ぶどうパン」なら食べそうだ。ようするにファンシーなパン(ただしフランスパンはOK)や子供が好きそうなパンは哲学者に似合わない。町のパン屋さんで以前見かけた「海のおともだち」(どう見ても「崖の上のポニョ」のキャラクターそっくりのパン)や「山のおともだち」(どう見ても「となりのトトロ」)パンは食べなさそうである。何といおうか哲学者が抱えているはずの「精神的な飢え」に似合うのは質素なパンであって、「海のおともだちパン」では緊張感を欠いてしまう。先の同僚に話してみても「コッペパンとか似合いそうですね」という。やはり苦悩している人達には質素なパンが似合うと考えてしまうのである。

 

そこでギリシア哲学の若手研究者であるM氏に尋ねてみることにした。ギリシア哲学者だと食べるのはオリーブパンだろうか、返答はいかに?

 

大変優秀だと評判のM氏は、この突然かつ突飛な質問に動じることなく、爽やかに「そうですね、食パン系が多いですかね。」と期待通りの答えをしてくれる。M氏は年長者を敬う人なのであるいは親切で合わせてくれたのかもしれないが貴重な証言だ。ただしジャムパンは食べるそうだがまあ良しとしよう。哲学者たるもの脳に糖分は不可欠だし。

 

それにしてもギリシア哲学者は爽やかであった。これは恐らく地中海性気候のせいと思われる。人間についての思索を深めていっても爽やかな海からの風が人を陽気にさせるのかもしれない。だからその哲学もつまるところが危機ではなく、明るいものになっているのだろうか。

 

そうなると気になるのが雪深そうなドイツ哲学だ。世間的なイメージでも苦悩する人が多そうな哲学ではある。ドイツ哲学者の食すパンは黒パン以外に何があるのか。そこで私はさるドイツ哲学研究者のSNSを拝見した。どうも色々なパンを食べているようで特定化がしにくい。グルメなのだろうか。これでは困る。苦悩の跡が見られない。(それはそれで大変結構なことなのだが「精神的な飢え」を持っていて頂かないことには今回の我が調査は進まない。)「困るのよねー、こういうことされちゃ。」何とフォッカッチャまで食しているではないか。イタリア哲学にまで知見があるとは知らなんだ。調査は暗礁に乗り上げてしまった。

 

(「哲学者の食すパン2」に続く)

 

CouleurによるPixabayからの画像



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