メメント・モリ

このブログでは司法試験関連の受験日記・講座・書評について色々掲載していきたいと思います。

方法論:永山本から得た「合格に必要な発想」

2005-02-07 10:30:51 | 司法試験:勉強法・方法論
 いつか書こうと思っていたことを、今回の教材と関連するので書いておこうと思います。私は勉強法の類は気恥ずかしいので、ほとんどここには書いてありません。よって、おそらく今回が最後だと思ってください。

 実は、永山先生の本は受験一年目から知っており、短答・論文含めいくつか読んでいました。
 にもかかわらず、私は、2年目以降「知識があっても受からない」いわゆるベテラン型受験生に陥ってしまいました。3年目の初受験論文などはその最たるものだったと思います。

 司法試験の受験生は、元々中高大と成績優秀な方が多く、自分の能力・才能に自信がある方が多いと思います。加えて、今までになかったくらい膨大な時間を試験勉強に費やして合格のために一心不乱に勉強します。
 そうすると、「自分はこれだけ勉強した」「これだけ能力がある」ということを発揮したくなり、いきおい「俺が、俺が」という表現の姿勢になる可能性があります(つまりは独善的になる、ということ)。これは、その危険を自覚していた、当時の私でも陥ってしまう怖い傾向です。

 しかし、試験委員は、その人がいくら勉強したか、特定のテーマについて深い見識を持っているか、についてまったく興味がありません。それより、与えた問題について「一応の解答」を示せるかどうか、についてのみ問うているのであって、独りよがりの賢しら受験生には興味がないのです。
 ここでは、「俺がどれだけ出来る人間か」という自分主体の発想より、「相手が何を考え、何を聞こうとしているのか」ということをひたすら探る相手主体の発想に立つ必要があります。永山先生がこのことを明示したわけではありませんが、私は先生の講義・著作からそのような考えを汲み取りました。 

 私は試験前、試験中とさまざまなサービス業に従事していたのですが、そこでは「お客様が望んでいることをしてさしあげる。決して自分がやりたいことを押し付けたり、知っていることをひけらかすのでは、相手はこちらに関心を持たない」ということを教訓として得ました。自分の持っている知識・技術は相手方の満足のためにのみ使うのであって、自己満足のために使ってはいけない。もしお客様が必要としないなら、必死で準備したものでさえ使わない、もしくは躊躇なく捨ててしまう。そういう潔い態度が必要なのだと思います。こういう発想は、それ以前私は持っておらず「何で人のご機嫌とらないといけないんだ」といやな印象を持っていたのですが、実際に、自分のやったことで人に感謝してもらえると、自己満足以上に大きな成果とやりがいが得られました。

 そういう意味で、私は「自分の持てる法的思考・能力を本番でいかんなく発揮する」型の受験生や答案を見ると、「あぁ、危険だな」と心配してしまうわけです。でも、そういう人は得てして自分中心ですので聞く耳を持ちません。みなさんは、そうならないように自戒してくださいね。