グレゴリーペックのある日あの時

還暦を過ぎた極真空手家の人生のつぶやき

松山善三の母

2015年01月12日 | 日記
高峰秀子著「おいしい人間」より

演出家、木下恵介監督の助手をしていた松山善三と私が結婚したのは、昭和三十年の春だった。「結婚」という生涯の一大事業を目前にしているといいのに花嫁であるわたしの気持ちはいっこうに盛り上がらず、われながら全く「可愛げのない女」だった。中略
寒々とした人間関係の中で孤立していた私が、ふっと結婚をする気になったのは、もちろん、当時29歳だった松山青年の人柄の良さにひかれたこともありけれど、それ以上に私の心をとらえたのは、松山のお母さんのたったの一言だった。中略
松山善三とそっくりなお父さんのうしろでほほえんでいたお母さんが、はじめて口を開いた。
「折角結婚なさるというのにうちが貧乏なのでなにもしてあげられません。あなたに働いてもらうなんて、本当にすみません。ごめんなさいね」
そう言ってお母さんは頭を下げた。
私は一瞬ポカンとした。お母さんの言葉をどう理解してよいか分からなかったからである。というよりその言葉をすんなりと受けつけられぬほど私の心がねじ曲がり、荒れ果てていたということだろう。中略
昭和三十年の松山の月給は一万三千五百円、私の映画の出演料は百万円だったから、共稼ぎというニュアンスとはちょっと違って少々こっけいだったけれど、そんなことはどうでもいいとして、松山のお母さんの言葉には、明治の女性のプライドとか、世間体とか、そういう感情のすべてを乗り越えて、ただ純粋に、息子の嫁への「慈愛」だけがこめられていた。
生まれてはじめて「優しい言葉」をかけられて、私の目に思わず涙がにじんだ。
映画の演技以外には人前で泣いたことも自分の心をみせたこともなかった私は、じぶんで自分の涙におどろくと同時に松山善三との「結婚」を決意していた。
いや、善三とではなく「お姑さん」松山みつと結婚したかったのかもしれない。
私は「お姑さん」の人柄を信じると共に、そのお姑さんに育てられた松山善三という男性を信じた。
それは私自身の将来のしあわせを信じることでもあった。何年かぶりかで「人を信じる」という感情が自分にかえってきたのが嬉しかった。中略
私に残されたお姑さんの思い出といえば、あの優しい一言の他にはなにもないけれど、私にとっては百万言の言葉にもまさる貴重な言葉であった。
人はその生い立ち、環境によってそれぞれ感銘を受ける言葉も違うだろう。
姑にもらった一言が、心底生きる支えとなった嫁の話など、ある人にとっては甘ったるくアホらしいことかもしれない。
それでも私はいまだにお姑さんの一言を、私の宝として大切に抱きしめている。

われという人の心はただひとつ
われよりほかに知る人はなし
谷崎潤一郎


眠るのが仕事のラッシー

声を創る

2015年01月11日 | 日記
高峰秀子著「忍ばずの女」より

私が、自分の発声、発音の悪さに気づいたのは16歳のときだった。
きっかけになったのは『小島の春』という映画に、小さい脇役で出演した杉村春子さんの演技だった。はじめて出会った杉村さんのあまりの上手さに仰天し、同時に、自分の俳優としての未熟さを思い知って、慄然とした。中略
あわてた私は「正しい発声を教えてもらおう」と、撮影所の音楽部に駆け込んだ。
しばらく考えていた音楽部長さんは、二人の先生を紹介してくれた。
それはオペラ界の第一人者、奥田良三先生と長門美保先生で、名前を聞いただけで震え上がるような超一流の先生方だった。びくりして棒立ちになった私に、音楽部長さんは言った。
「勉強をしたいんでしょう?なまはんかな先生なら習わないほうがいいんです」
超一流の先生は怖かった。超一流のレッスンは厳しかった。そして、月謝も超一流に高額だった。16歳の少女俳優の出演料などタカが知れている。いま思えば、その出演料の中から身を切られるような思いで払った月謝だからこそ、必死で勉強したのかもしれなかった。
中略
こうして、私の声は、私を置いてけぼりにしてぐんぐんと成長していった。
どんなに小さな声で台詞を言っても、声はするりとマイクを通るようになった。
それまではいつも一本調子だった台詞の声も、役の性格によってトーンの使い分けができるようになった。中略
先生は超一流が最高。そして超一流に高額な月謝でも決してケチってはならない、とキモに銘じている。


今日のラッシー


森雅之

2015年01月10日 | 日記
高峰秀子著「忍ばずの女」より

映画というものは、どんなに演出家や俳優が一人頑張っても作り上げることはできない。特に俳優にとって重要なのは相手役で優れた相手役に恵まれれば主役は大変にトクをする。
例えば私にとって、東野英治郎さんがいなかったら『雁』はできなかったし、森雅之さんがいなかったら『浮雲』はできなかった、と、いまでもお二人に感謝している。
中略
『浮雲』でも私は、数々の賞をいただいた。富岡役の森さんも当然、たくさんの賞をとられたものと思いこんでいたのだが、そうではなかった。
演技賞は、催促すればいただける、というものではないけれど、それにしても、『浮雲』の森さんが、専門家からそれほどの評価をうけなかったのは残念でならない。
『浮雲』で、映画の自分を捨て去ったという当時の森さんの心中を思うと、同じ俳優として、涙が出るほど切なく、そして口惜しい。
私は五十も百もの演技賞を森さんに捧げたい。『浮雲』で森さんに助けてもらったことに、どんなに感謝していたことか、名優だった森さんをどんなに尊敬していたか、を伝えたい。
いや、私だけではない。森さんの演技を信じ、森さんを誰よりも重く見ていた溝口監督や成瀬監督も、同じ思いだったにちがいない、と、思う。
私が今ごろになって、泣けど叫べど、森雅之さんも成瀬監督も、もうこの世にはいない。

私も「浮雲」を観ましたが、それまで相手役の森雅之という俳優を知りませんでした。
高峰秀子のこの本を読んで、改めて森雅之の素晴らしさを感じました。
そういえば、今年のキネマ旬報のベスト俳優男性は、一位が三船敏郎、二位が森雅之だった。女性の一位はもちろん高峰秀子です。

今日のラッシー


恬淡

2015年01月07日 | 日記
恬淡(てんたん)
あっさりとしていて、物事に執着しないこと。
高峰秀子には、この恬淡がピッタリくる。

生きる上で、一番大切にしている信条は何ですか?
「潔さ(いさぎよさ)ですね」

日常の暮らしを営む上で、大事にしていることは?
「清潔、整頓です」

また「心のノートにゴタゴタ書き込みたくないの。いつも真っ白にしておきたい」とも言っている。

高峰秀子は50代の頃、陶芸家の黒田辰秋に骨壷を二つ作ってもらっている。
もう一つは、松山善三のもの。
高峰秀子は今、ハワイの墓地に眠っている。養女の斎藤明美と訪れた時、彼女が泣くのを見て、松山善三は呟いた。
「僕だって泣きたいんだよ」

思えば、「高峰秀子の流儀」という本を偶然にも読んだことから、彼女の生き方に感動し、私のブログで30回以上も紹介しました。
高峰秀子は、生涯に26冊の本を出しています。
凝り性の私は、今10冊くらい読みました。こうなったら、すべて読もうと思っています。
高峰秀子の紹介は、今日で一応最後です。また感動したところがあれば紹介します。

高峰秀子さん本当にありがとうございました。安らかにお眠りください。

今日のラッシー

神様が父ちゃんみたいな人にあわせてくれた

2015年01月06日 | 日記
高峰秀子が斎藤明美に言った言葉

「母ちゃんのお袋が、あんたのお母さんみたいにやさしい人だったら、今の母ちゃんはなかったと思うよ。鬼のような母親だったから、母ちゃんは頑張ってこれたんだ。
小さい時から、働いて働いて……。
だから、きっと神様がかわいそうだと思って、父ちゃんみたいな人と会わせてくれたんでだね」

二人が結婚した当時、松山善三は月給1万2500円、高峰秀子は映画1本100万円
年間5本から6本出ていた。

斎藤明美
「先生は(松山善三)は、よく劣等感に押しつぶされませんでしたね?」

「何故だろうね。何故かねえ……
秀さんは、そういうことを感じさせない人なんだよ」

松山善三
「全ての点で高峰は僕より優れてますよ」
「高峰に恩返し出来ただろうか?いや……」

高峰秀子
「私は松山に何をしてあげられたかしらと考えた時、何もないの。せいぜい、私が一度も寝つかなかったことぐらい」

いい夫婦だなあ!


今日のラッシー