臺灣と瀬田で數理生態學と妄想

翹首望東天, 神馳奈良邊. 三笠山頂上, 想又皎月圓(阿倍仲麻呂). 明日できることは今日しない

メタのこと

2012-05-27 19:21:10 | 研究

円城塔の「後藤さんのこと」をBleeze Centerの紀伊国屋で君に届けの最新刊といっしょに買って幸せな気分になりながら帰りのバスの中で読み始めた。不覚にも笑ってしまった。そして、字がカラフルすぎて目がチカチカする。

円城塔さんといえば、最近知人に教えられたのだが、日本物理學會誌に「ポスドクからポストポスドクへ(PD2PPD)」という文章を2008年に掲載していたことを知った。

http://ci.nii.ac.jp/naid/110006825822

さすが小説家という感じの軽やかな文体でオブラートに包んでいますが、同じ業界に属する若者が読めば、彼の言わんとするところが頭と心に響くと思われる。

話は変わって、前にもブログに書いたが、生態学の訳語が気になって仕方がない瞬間が月に一回くらいあり(そういうのは気になって仕方がないとは言わないわけだが)、その瞬間がまたやってきた。とくに、metapopulation/metacmmunity/metaecosystem に含まれるmeta-を安易に「メタ」と訳すことについてとても気になる。メタ小説やメタデータという言葉もあるけれども。

metaphysicsをメタ物理学ではなく形而上学と翻訳した先達には頭が上がらない。誰が訳したのか調べる手間を惜しむところがグダグダで情けなく、形而上学自体もよくわからないのだが、おおざっぱに自然科学(自然哲学)を含まない哲学(もしくはその一部)であると理解すれば、形而上学と物理学とが互いに独立であるとは言わないまでも(連続であるとしても)別の階層の問題を扱っている雰囲気がある。

では、メタ個体群はどうか? 私には、複数の個体群が集まったものとして理解するほうが、個体群の一つ上の階層として理解するよりしっくりくる。言い換えれば、individualとpopulationの関係に近い感じがする。この両者は扱う階層が違うとはいえ、前者の理解には後者の理解が欠かせないし、後者の理解にも前者の挙動が重要であるという意味において、フィードバックがかかっている。前者を「個体」と呼び、後者は「メタ個体」でも「超個体」でもなく、「個体群」もしくは「集団」と呼ぶ。であるとすれば、metapopulationは、「個体群群」もしくは「個体群集団」と呼べないだろうか?同じく、metacommunityは、「(生物)群集群」と呼べないだろうか? 音感としては、「ぐんしゅうぐんぐん」と呼びたいところではある。すくすく、ぐんぐん、みたいな感じで、粉ミルクでしょうか。群集群は、山本山っぽくてよいんじゃないだろうか? だめですか。台湾でなら、「群集の群」みたいに「の」を入れるとチャーミングかもしれない。 くだらないことばかり言わずに形而上学の例に戻るとすると、形而上学は、形而上学であって「物理学群」としての、あるいは、物理学を物理するといった意味での、メタ物理学ではないだろう。だが、metapopulationは「個体群」群なのではないだろうか。

まあ、ここでぐだぐだ言っても始まらない。そもそも「言葉」や「言語」に興味があったら、理学ではなく、文学や哲学についてもっとまじめに勉強しただろうし。したがって翻訳には興味があるが躊躇してしまうところではある。形而上学や自然哲学が分離していなかった時代の学者はほんとにすごいと思う。現在ではそうはいかない気がする。

たとえば、(といってここで話が飛ぶが)、自然現象よりも数学がつくりだす「世界」に第一の興味があって学部や学科を選んだような、数学畑の人がつくる「数理モデル」には、物理や生物のひとの作るモデルと比較して、ときどき違和感を感じる。「あなた、自然よりも数学が好きなわけでしょ? どうせ現象には興味がないんでしょ、数学の目で現象をみるって何さ、っけ。」みたいな。(これは某M大学のプログラムを批判しているわけでは決してありません。共同研究や研究集会では大変お世話になっておりますし。ツンデレだと理解してください)

生物学者がつくるモデルも数学者や物理学者から見たら、それぞれのよって立つところのプライドみたいなところから、なんか小言のひとつでもいいたくなるでしょうね。お互いツンデレなだけならよいのですが。もっとやっかいなのは、「数理生物学者」なるものが(存在できるとして)つくる数理モデルですね。数学サイドからも生物サイドからもつまはじきにされるかもしれない。つまはじき、というか、的外れというか。絶妙な手際の悪さで、かゆいところに一手とどかないというような。これはツンデレとかいう呑気は話ではなく、実際のところそうです。自分の研究もそうです。とても親切な他分野の方から指摘していただける時もあるし、自分で後から(論文が世に出た後で)気づくこともある。それに気づいたときはぞっとします。気づけばまだいいものの、ずっと気づかずにいる可能性を思うをぞっとします。つまるところ「数理科学」ってなんですか。

さて、「言葉」つながりで小説の話にもどりますが、言葉を大事にする作家が好きです。あるいは、本を読むのが好きなんだろうなー、文学好きなんだろうなー、という感じの人です。たとえば、三浦しをん(年が近くても直接会う可能性のない有名人、学者などは呼び捨てが適当かと思います)とか、森見登美彦とか。三浦しをんさんはどうやら漫画も好きなようですが、最近では、「舟を編む」という、国語辞典編纂にかかわる人々についての小説がすばらしいです。連続して二回読んでしまいました。 

小説なんて読みません、漫画しか読みません、とかいう小説家がいたら(ほんとにいるかどうか知りませんが)、もう、あほか、とか思ってしまいます。ただし、マンガとかアニメとかをチェックしない小説家も残念な気がします。ファンタジー小説家であるところの村上春樹は、マンガとかアニメとかチェックするのでしょうか。1Q84、私は大好きといってもいいですが、ふかえり、というキャラにはがっかりです。エヴァンゲリオン後の、綾波の皮をかぶったキャラの大増殖現象をもしも知っていれば、恥ずかしくてそんなキャラ登場させないのではないでしょうか。「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」を読んだ時の衝撃をもう一度味わいたいです。お願いします、ハルキさん。

あ、最後に哲学に話を戻しますが、高橋 昌一郎の「感性の限界―不合理性・不自由性・不条理性」という新書、たいへんおもしろいです。

というわけで、個体群群、群集群、どうでしょうか。

 

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